第2話

 休暇でレフが戻ってきた。

 痩せこけた、まだ色づきもしない木の実で飢えを凌いでいた子供は、立派に成長した。

 レフが軍へ入って間もなく、母が死んでいた。死んだのではない。死んでいたのだ。それでもなお、蔑みながら、今だ「家名」に縛られ、父の名誉などというものを守り、自殺すらできぬ自分。

 レフが軍人になることには反対だった。

 …いつか、決して遠くない未来、この国は敗北する。そんなことは分かり切っている。

 軍は隠し続けているが、敗戦の色は日に日に濃くなっている。空軍は最も攻撃力が期待される反面、最も生還率が低い。そこに自ら、レフをそんな場所へ配置しながら、レフの激戦地への出撃を止めつづけている。

 国に捨てられ、人に存在を否定されて虐げられてなお、生きることを諦めなかった子供を、捨て置くことが何故かできなかった。いつか、本当の祖国へ帰れるだろうと何故か思ってしまった子供。…一時とはいえ、自分の隙間を埋めてくれた存在。

 この国の敗北。それが決定的なものとなれば、レフは残留孤児として彼の本来の祖国へ戻れるだろう。「この国で生きるため」だと言えば、この国の軍人として生きた証言と軍の情報と引き換えに、帰ることも可能であるだろう。かの国は移民の国だと聞く。こんな不毛な大地の国よりも、きっと生きやすいだろう。

 …そう、思っていた。

 だからレフを生還率の低い空軍へ配置した。成績は優秀でありながら希望をしていた陸軍に入れず「命令で空軍へ入った」のなら、それは純血ではないと見て分かるレフを捨て駒にするためだと勝手に推測してくれるだろう。冷遇されていた方が、かの国からの待遇は悪くなりづらいだろうと考えていた。

 なのに、レフは必至で軍功を上げていく。そして真っ直ぐに自分を見つめてくる。このまま功を重ねれば、レフも軍人として、かの国に処罰、悪くすれば処刑されてしまう。勝者が紡ぐ歴史の中で、著しく不利益を与えた人間を見逃す国などありはしない。

「…軽蔑しろ、レフ」

 私を、軽蔑しろ。

 自分の勝手に手元に置いて置きながら、お前を見ることを拒否する私を。

 下らないと思いながら、父の名誉を未だ守ろうとする私を。

 …身体を取引に使ってまで、家名を守ろうとした、私を。




「んんっ…あぁっ」

「ここかね?ここが良いのだね?」

「あっ、たいさぁ…」

 舌ったらずな言葉、濡れる声、脂ぎった男の愉悦。

 安い廃油ランプの下で揺れる肢体。ねだる様に肥えた男の首腕を絡ませて、足で煽る。

「本当に君は可愛い。…私の言うとおりにしていれば、お母さんも君も、安全だよ…」

 まるで愛玩動物を撫でるような手で銀の髪を撫でる。

 這いまわる太い指、脂ぎった男のしつこい情交に答え続ける狂った時間が終わると、何事もなかったかのように男は軍服に腕を通す。

 同じようにシャツに袖を通し、少し考えた後で、アレクセイは軍服の男へ声をかけた。

「そろそろ、卒業生の配属先を決めなければなりませんね」

「そうだな。欲しい人材でも?」

「いいえ、欲しい人材ではありませんが、空軍へやってほしい人材がいます」

 アレクセイが大佐へその人物の名を告げると、大佐は怪訝な顔をした。

「いいのかね?彼はたしか君の家の雑役だったのでは?」

「えぇ。…ですが、家は私だけになって、彼には両親がありませんので屋根裏に住まわせたまで。ですが、元帥はこの国を美しき時代に、我が祖国の人種で満たし、戻したいと仰せです。…彼は純血ではありません。私の役に立ちたいと思っているのなら、祖国の役に立ってもらいましょう。…それなりに人望は期待できるようですし、戦線で死んだとなったら、他の連中の発起材になってくれることでしょう」

「なるほど。いい考えだ」

 冷淡に笑ってアレクセイが告げた。大佐は笑ってアレクセイの申し出を快諾。レフは空軍へ配置されることに決まる。

 その後、何度かレフは出撃することとなるが、前線ではあっても激戦区から外される裏で、アレクセイの情報操作があったことは誰も知らない。


 空軍へ配置されたレフは、アレクセイと顔を合わせるのは休暇中ぐらいであったが、相変わらず、避けられていると感じることは否めなかった。

「アレクセイ、いるのか?」

 休暇に入って戻ったレフが、居間に人の気配を感じて声をかけた。暖炉の薪が落ちかかってないところを見ると、そんなに長い時間が経っているわけではないと分かる。

 レフが呼びかけた人物は、暖炉の前にある長椅子に身を任せていた。

 風呂に入ったあとなのだろうか、シャツとズボンの上にガウンを羽織った格好で、いつもは無造作に一括りにされている髪も解いたままだ。長い銀色の睫毛が、その下に美しい影を作っている。生まれてから日に晒されたことがあるのだろうかと思うような肌に、ゆらゆらと揺れる炎の光が溜まっているかのような、何とも言えぬ、暖かい色合いを見せている。

 曇天の午後、やもすれば世界から隔絶されたのではないかと思うような空と、白い大地の中で、この暖かい色に包まれた、線の細い白い身体は、軍人であることなど、まるで嘘だとでも言いたげなぐらいに儚くて美しい。今まで、アレクセイに関して何も興味を抱かなかったと言えば嘘になるが、こんなにも無防備で、こんなにも美しい人だったのかと、改めて思わせるに十分な光景だった。

 ただ、アレクセイに対する思いが、形としてどんなものであるのか、どんな形容で言葉にするのかをレフが自覚したのはこの瞬間だった。

 勲章を賜った日、そのまま入った休暇でアレクセイとやっと会えた。

 自分が得た最大の勲章をアレクセイに差し出して、アレクセイに軍人になれた礼を言った。恩義に報いるだとかそんな感情よりも、ただ、「自分をないものとして扱わないでほしい」「差し出された感情をないものとしないでほしい」そんな思いの方が強かったと覚えている。

 アレクセイは肯定も否定もせず、しかし、勲章を一瞥して「金に変わるものだからとっておけ」とだけ告げて部屋に戻ってしまった。

 無感情に告げられた言葉が、ただただ、悲しかった。純銀で中央がムーンストーンで飾られた勲章。それはたしかに金に変えられるものだろう。しかし、この勲章と共に差し出した感情はどうすればいいのか。それは、何にも変えられない。時が解決してくれるのかも定かでない中で、休暇が明けた後もレフは軍務に励み続け、勲章を増やしていった。

 今だ褪せることのない痛みにも似た悲しさと、僅かな希望を抱いて、軍人として、空軍のパイロットとして、飛び続けた。




 …これが、最後の休暇だろう。

 アレクセイ・イヴァノフは司令官室の窓から外を眺めた。新緑が始まっている美しい季節。明日からの休暇はこの国での最後の休暇となるだろう。

 次はきっとない。理由は簡単だ。敗戦がほぼ決定的となったのだ。

 上層部が国民にはひた隠し、そのくせに将校の何人かは家財を纏めて逃げ出した。表向きは視察時の客死。家族だけでも逃がそうとして水面下で動いて居るも者もいる。

 大佐は母が亡くなっていたことを知った日に殺した。施設で保護していると言いながら、死んでいるのも隠して、自分を飼っていた。母の亡骸の行方が分からないこと、父の隣に埋葬してやれないことをもどかしくも思うが、自分もすぐに逝くのだ。わざわざ探そうとも思わなかった。

 軍帽を目深にかぶって部屋を後にする。邸の、自分の部屋で過ごせる日も後僅かだろうと指令室を後にした。

 車を断って街へ出て辻馬車を拾った。寂れ、廃り、荒れ果てた街並みを眺め見る。露店から、何かを盗んだのか捕まって折檻を受けている子供が目に入る。見慣れた光景だった。

「止めろ」

 思わぬ光景が目に入った。棒切れを振り回して子供を殴りつける男と子供の前に割って入る人間がいた。空軍の外套。赤みがかった金髪。何度かの問答の後、子供を逃がして店頭に籠いっぱいにあるパンと金貨一枚を交換していた。

 何をする気なのかと、興味からアレクセイは馬車を下りる。腐敗臭のする裏路地で、男は浮浪児のグループに籠を渡して踵を返した。

「そんなことをしていると、襲われるぞ」

「…アレクセイ!」

 施しを与える人間の金を目当てにした連中が襲ってくることなど珍しくもない。 余計な同情はこの国では命取りだ。踵を返したレフが鉢合わせたアレクセイの後ろ、まさに、金を目的とした男たちが踏み込んできた。狭い裏道に退路はないが、アレクセイは襲い来る男をかわして腕をひねり上げ易々とねじ伏せていく。

「…私も一応は軍人なのだがな…」

 呆れたように呟いて、レフに背を向ける。待たせている辻馬車に乗り込み、レフに乗らないのかと問えば、何故か嬉しそうに乗り込んできた。

「…いつもあんなことをしているのか?」

「いつも…と、いうか、見ていられなくて。…私はアレクセイが救ってくれたが、あの子達はどうなるのだろうと…」

 飢えが苦しいことは誰よりも知っているからと続けて、レフは暫く黙り込む。

「それも、この戦争が終われば、きっと豊かな国になる。きっとなる。…アレクセイ、そうしたら…」

「……」

「そうしたら…」

「着いたぞ」

 切れ悪く続いた言葉と膝の上で硬く握られた拳が、何か自分に伝えたいことがあると物語っていたが、それをあえて黙殺した。

 邸の門からエントランスまでレフは黙って着いて来た。

「アレクセイ」

 階段に足をかけた時、レフが静かに自分を呼び止める。何も言わずに振り返り、言葉の先を待った。

 レフは何度か視線を彷徨わせたが、すぐに真っ直ぐにアレクセイを見つめてきた。

「この戦争が終わったら、子供達を助けたい」

「……」

「軍を辞めて…貯めていた給料と勲章を売って、子供達の衣食に当てて、…それから、字も読めた方が損をしないで済むことも多い。字が読めれば、そこからさらに勉学を選んで励むことが出来る。…アレクセイが私にしてくれたことを、子供達にもしてやりたいと思うんだ」

 言い切ったまま、レフはアレクセイを見つめた。もろ手を挙げて賛同してほしい訳ではない。「やりたければ、やればいい」そんな言葉が欲しかった。ただ、その言葉だけでも、アレクセイは賛成してくれているのだと、レフには分かるからだ。

 レフが言葉に乗せた感情は、子供達に向けられたもののようでありながら、「自分にしてくれた、見返りを求めない庇護に対する感謝」を乗せてアレクセイへ向けられている。

しかし、それとは別に、何も欲しないアレクセイに、レフがひたむきに差し出す感情を何かに紛れ込ませようとしていることにも、アレクセイは気づいていた。

「…場所は?」

 暫くの沈黙の後、アレクセイが短く問う。

「え?…あ、あぁ。それはこれから、教会と話そうかと思っているのだが…」

「ここを使えばいい」

「え?」

「敷地でも邸でも好きに使うがいい」

 それだけを言うとアレクセイは踵を返す。レフは言葉の意味を捉えかねて階段を昇って行く背を見上げていた。反芻してようやく、はたと言われたことの重大さに驚く。

「アレクセイ!!」

「……なんだ」

 急いで追いかけて、アレクセイが自室のドアを開けようとしている所を呼び止めると、どこか面倒くさそうにではあるが、返事をしてくれた。

「あ、その、ありがとう!!」

 些か、大きいと咎めたくなるような声でレフが礼を述べてくる。何の言葉を返すわけでもなく部屋に入ってしまったが、その薄い唇が微かに微笑みの形を作っていたのをレフは見逃さなかった。




 …酷い男だと思う。

 我が国が負ければ、自分は処刑され、この邸は敵国に接収されるだろう。

 当然、レフに何の権利があるわけでもない。たとえあったとして主張しても虚しいほどに無意味だ。

 しかし、レフが語った、子供達が飢えず、凍えない環境と学ぶことができる国なら、この国はもっと、それこそ、戦争などと言う愚かしい真似をするような貧しい国にならずに済んだのではないかと思う。もしこれから、それが叶うのであれば、先人たちの愚かを繰り返すことなどないのではないかと希望を抱くことが出来る。それこそ、暖かく、明るい希望だ。

 だが、敗戦が迫りくる今、レフの希望も自分の言葉も泡沫の夢と消える。それを分かっていて、否定することが出来ず、希望を見せてしまった自分。

 それでも、

「…その未来、見てみたいものだな」

 あり得ないことだ。

 窓の外を見つめて呟いた言葉は、軍に身を委ねて以来、未来への希望などとは無縁に、自身の死ですら傍観者のように感じながら生きて来た自分には、到底、想像のできない言葉だった。

「…レフ、お前の行く未来に…」


 幸あれ。




 アレクセイと出会って自分の生活は、いや人生そのものが一変した。

 名前を貰い。初めて、生きていることに感謝した。清潔な服、温かくて甘い紅茶、優しく燃える暖炉の炎。字を覚え、書を読めるようになり、飢え切って彷徨っていた子供が、今では空軍で小隊を任されるまでになった。

 全てが全て、アレクセイのおかげだと礼をいってもアレクセイはとり合わず、僅かに嫌な顔をされることすらあり、口にしなくなった頃だろうか、アレクセイが街の子供達を見て、無表情を装うその下で、僅かに動いた眉。悲しそうな瞳で彼らを映していることに気が付いたのは。

 それに気が付いてから、街の片隅で孤児達を見る度に、アレクセイの悲しそうな瞳を思い出す。そして、思うようになったことがある。自分がそうであるように、衣、食、住、そして学があれば、彼らも未来に希望を持って生きられるはずだ。そしてそれは、きっとこの国を変える。幸福な未来を作ることが出来るはずだ、

「…だから、アレクセイ」

 

 もう、悲しまないで。




 アレクセイが軍人向きの性格でないことは何となく気が付いてはいた。そこは貴族の宿命なのだろう。だが、悲しいかな彼は辣腕であることで有名だ。「戦争の天才」などと言われているのを聞いたことすらあるが、その裏で「感情がない人形のような男」とも揶揄されている。些か整い過ぎとも思える容姿に対する皮肉はともかく、感情は恐らく人よりも強い。ただ、それを表に出すことがないだけの話だ。

 でなければ自分は今生きてはいないし、暖炉の前で見せた、あの微かに笑った顔が、きっとアレクセイの本当の姿ように感じもしないだろう。

 あの薄い唇が微笑みの形をいつも作っていられる日々。そんな日をどうやったら作れるだろうと考えつづけて出した答え。アレクセイが幸せを感じてくれる日を作るために、今、自分の目に映る世界を変えよう。

 少なくとも、今、この国は、国を生かす為に民を殺しているように感じる。それを変えなければ…。

 考えて考えて、その果てに、子供達の笑顔を想像してみる。その子供たちに囲まれたアレクセイを想像してみる。きっと、アレクセイもあの微笑みで子供達と過ごすだろう。

 アレクセイの笑顔の為なのか、子供たちの為なのか分からないなと苦笑するが、二つとも取れる、両方の笑顔があるのなら、ならそれはとても素晴らしいことだ。

 緑の芝が美しく茂る、かつては馬場であった場所にごろりと寝そべって、そんなことを考えていた。

 グゥっと高い空へ向かって突き出すように手を伸ばす。あの青く抜けるような空に、同じように曇りのない夢を抱いていた。

「…そんなところで寝ていたら、風邪をひくぞ」

「アレクセイ!」

 思いもよらぬ所に来ていたが、嬉しかった。来てくれたことも勿論だが、微かに微笑んでいるように見えたからだ。

 隣に腰を下ろしたアレクセイが、先ほどの提案だがと語りかけてきたことに驚くが、自分が言ったことに興味を持っていたことに更に驚く。

「場所と物資は勿論だが、人手のことも教会に聞いてみるといいだろう。手を貸してくれるはずだ。このご時世だ、寄付金は期待するな。学については軍から離脱した者をあたれ。軍事学校を出ているのなら、読み書き計算は十分なはずだ。だが、お前はお人好しの嫌いがある。利用したり、漬け込もうとする輩も出てくるだろう…、どうした?」

 ぽかんと口をあけて自分を見ていたレフが、問われて、数回首を振った。

「いや、アレクセイがそんなことを考えてくれていたなんて、驚いてしまって…その、嬉しくて…」

「…少しぐらい、お前と同じ夢を見て見ようと思っただけだ。…!!」

 がばっと抱き着いてきたレフの身体、図体だけはデカくなったものだと思っていたが、抱きすくめられて、その厚みのある筋肉、逞しさに驚く。

「アレクセイっ、アレクセイ…っ」

「何だ」

「夢じゃない!遠くない未来、この場所は子供たちの笑い声と笑顔でいっぱいになるんだ!アレクセイもきっと子供たちに囲まれる!ここで、この場所で…っ」

「…そうだな…」

 そうなったら、良いだろうな。

「…だから、何があっても生き抜いて、夢を叶えてみせろ」

 呟いたアレクセイの言葉は、苦みを伴って、胸の奥へ消えた。レフが生きる未来に、きっと自分はいない。

 スッと立ち上がって、アレクセイは自分が付けた男の名を呼ぶ。そして、苦く消えた言葉に変えて、いつか言った言葉を口に乗せた。

「…一緒に食事をしよう」

 きっと、これが、最後になる。

 …この国の、短い夏が訪れようとしていた。



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