若き獅子は夢を見る
koya
第1話
…意味はなかった。
あの行動に意味をつけるとするのなら、ただの気まぐれ。
彼はこの数年間で何度目かの自問をして、いつも通り、理由がないことに納得する。
迫りくる自身の終焉を前にし、鉄格子の隙間から、彼は高い空を見た。
狭い空だった。
つい一刻程前までは曇天が支配していた空が、今は、抜けるように青い。
それは最後に一時だけ見せた神の恩寵か。
もしそうならば、祈りの言葉など知りはしないが、今だけは祈ろう。彼の為に。
…その曇りなく青い空は、あの少年の瞳を思わせた。
彼の父は国にとっては「偉人」であった。伝説的な強さを持つ、王族に連なる軍人。
国父とすら呼ばれ、強さも血統も申し分のない彼の父は、国が「象徴」とするには相応しい男だったのだろう。
父に対する賛辞はその死後も止むことがなく、しかし、その言葉を聞いては、彼は小さく笑った。嘲りか、皮肉か。それは彼自身にも分からない。
誰もに平等にふりかかる老いは、彼の父にも例外なく押し寄せ、身体と軍人としての能力も衰退させた。しかし、止むことを知らない世間の評価に苛まれ、公表することは勿論、引退をすることも選択できなかった哀れな男。その苦悩を押し付けるかのように自分と母に暴力をふるい続けた、甘えた男。父親としても、夫としても、失格であったと彼は思っている。
息子に、夫を目の前で殺され、狂った母。
母に流れる時間はそこで止まり、何かの拍子に彼を責め立てた。愛する夫を殺した息子をひたすらに責めた。ただ黙って罵倒され、母親すらも冷めた目で見ていた。そんな母との生活に何を思っていたか、彼が口にすることはない。母への暴力を止めようと、父を、父のサーベルで殺めたことについても、然り。
血の付いたサーベル、息絶えた父、気のふれた母。無感情に今なら思い出すことが出来る。何故なら彼の生きる意味も、そこで止まったからだ。それでも生きる理由を述べるなら、強いて言うなら家名の為。
全てに傍観を決め込んだような彼が、自身の行動の意味づけとした「気まぐれ」は、そんな生活に終止符が打たれて数日後のことだった。
国は母に施設送りという庇護を与えた。
彼に軍神の息子としての役目を与え、貴族階級の出に相応しい地位を、士官学校を卒業と同時に約束したからだ。
大戦は目前に迫っている。
つまるところ、母親は人質。
士官学校の卒業式を終えた彼は、同期達が「国の為」「軍のため」「祖国の栄光」などと声高に叫ぶ中を抜け出した。
街を歩けば、先の大戦の色はまだ色濃く残っている。
子供を抱えた娼婦、負傷兵が先の戦でどれだけ自分が国の為に戦ったかを声高に語り、日銭を乞う姿。盗みを働き、捕まって折檻を受ける孤児。
…見慣れた光景だった。
士官服の自分を見て、人々はそそくさと道を開ける。
これもまた、見慣れた光景だった。当たり前のように彼はそれに構うことなく、車を拾った。往来は物乞いと荷馬車と乗合馬車、そして少ないが車が行きかえっている。
母がいた時は別段気にしたこともなかったが、何故か戻る気にならなかった。戻っても自分以外、誰も邸には人がいない。通いの使用人はいるが、それだけだ。母が施設に入ってから、住み込みは必要がなくなり、暇を出した。
寂しいとは少し違うとは思う。あえて言葉をつけるなら、空虚という言葉が近い。
彼は森へと足を向けた。領地ではあるが、所詮は森だ。何があるわけでもないし、自分に狩猟の趣味がるわけでもない。散策、というほどのものでもない。ただ、歩くだけだ。
まだ雪の溶け切らない針葉樹の森。流れる小川に少しだけ春の訪れを感じる、だが、まだ熊の出る季節でもないだろう。小川に指先を触れてみようとしたその時、後に彼が「気まぐれ」と答えをつける出来事に遭遇した。
「…出てこい、三つ数える」
銃をぬいた。獣ではないことは分かっているが、害意があるとは思っていなかった。
案の定、三つ数え始める前に姿を現したのは、金色の髪の子供だった。伏せた目、寒さで赤くなった頬。この季節に裸足で、ズボンはあちこちが破れ、防寒着とは言えないような、ボロボロの大人の上着を纏っている。痩せた身体が震えているのは寒さのせいだけではないだろう。握った手から零れた、色もついていないベリーの実が物語るのは、飢えをしのごうとしていたということだった。
「手の中のものは捨ててしまえ」
銃をしまって、言葉を紡ぐ。
子供は言われたとおりに、それでも悲しげな目で手の中の木の実を捨てた。
「ゆっくりこっちに来い。…一緒に食事をしよう」
心底不思議そうに自分を見上げた子供の瞳は、抜けるような青だった。
この時、何故、子供に「食べ物をやる」でも、ましてや「敷地から出ていけ」でもなく「一緒に食事を」などと言ったのか、後に彼は何度となく自問してみたが、分からなかった。故に、「気まぐれ」と位置づけ、それを答えとした。
汚れきった子供の身体からは、この寒空の下でもわかるほど悪臭がしていた。
この子供が街中で窃盗や物乞いをしていない理由は、その外見から察しがつく。
麦の穂を思わせる、微かに赤みを感じる金髪、すっとした鼻筋に、先端だけツンと上向な鼻。なによりも晴天を思わせる青い瞳がこの子供の出自を物語っていた。近く、敵となる国の国民の特徴が色濃く出ている子供。この国との混血なのか、先の大戦で帰国前に残された子供なのかは分からない。親のことを尋ねると「死んだ」とだけ返ってきた。父親は顔すら知らないという。
戦争への気運が高まっている今、こんな子供ですら、「敵」として攻撃の対象になりえる。
街中で窃盗でもして捕まろうものなら、折檻どころでは済まないだろうし、物乞いなどしても貰えるのは食べ物でも金でもなく、暴力であるからだ。
邸へ連れ帰ると子供の悪臭は一層強く感じ取ることが出来た。
「…食事の前に風呂に入れ」
さすがにひどく驚いた顔をしていた。しかし、自分でも自覚があったのか、素直に頷いた。
使用人がいない今、風呂の準備は自分ですることになる。ホーロー作りのバスタブに沸かした湯と水を入れ、石鹸と薬用のローズマリーを放り込む。
「入れ」という言葉に素直に頷いた子供をがしがしと乱暴に洗い立て、自分が数年前に着ていた服を引っ張り出す。
それでもその子供には大きいようでブカブカのズボンとブラウスを袖と裾を折って着させた。
自分も着替えて、パンとチーズを切り分ける。
子供の前に紅茶とともにそれを出せば、夢中で子供はパン頬張りはじめた。余程飢えていたのだろう。瞬く間に平らげてしまった子供に、次のパンを出してやる。
「…いいの?」
「駄目なのに目の前に出すほど、性格は悪くないつもりだ」
ぶっきらぼうにそう答えた自分を見上げて、子供は笑った。
紅茶を飲んでは、「甘い!美味しい!」と声を上げて喜び、自分の方を見て、笑った。
「…名前を聞いていなかったな」
「……」
「どうした?」
「…ない」
「名前がないのか?」
「…誰も、名前なんて呼ばないから…」
それきり、黙った子供に彼はなぜ自分そう言ったのか、後に何度考えて見ても分からなかった。そして「気まぐれ」と位置づけ、それを答えとした。
「…私でよかったら、名前をつけてやるが?」
その申し出に心底不思議そうに子供は彼を見つめ、その数秒後に嬉しそうに頷いた。
いつかこの子供が本来の祖国に帰れた時、恥すべき名前、邪魔にならぬ名前が良いだろうと思い、しばし考える。
そして出会った場所、彼が生き延びて来たであろう環境に思いをはせた。
「…レフ。レフと名乗るがいい」
「レフ?」
獅子を意味するその名前。ただ、
「気に入らないか?」
「ううん、ありがとう…えぇーと…」
「アレクセイだ」
「ありがとう、アレクセイ」
奇妙な生活が始まった。
アレクセイはレフと名付けた子供を雑役や下働きに使うでもなく、食事と寝床を与え、軍務から戻れば勉強やテーブルマナーを教え、時として本を読み聞かせてやったりもした。
レフはアレクセイに何故と聞いたが、アレクセイは小さく笑って「何故だろうな」と言うだけだ。アレクセイ自身も、その意味、理由などわかってはいない。
しかし、この表情に乏しいアレクセイという男が、小さく笑う顔がレフは好きだった。
「レフ、おいで。本を読んでやろう」
とりわけ、自分をアレクセイが呼び、暖炉の前で、二人で過ごす時間が好きだった。
保護だとか庇護だとか言う大それた感情ではなかった。親に死なれた、もしくは、捨てられた浮浪児や孤児などそれこそゴロゴロしている世の中で、何故この子供だったのか。食事を与え、そのまま放り出すでもなく、何故邸に住まわせたのかをぼんやりと考えてみることは、レフに問われるまでもなく、アレクセイ自身でもあった。
寂しさからなのかと結論付けようとしてもみたが、その結論には至らず、だいたいの物事のように深い意味はなく、気まぐれと位置付ける。
どちらかと言えば支配側に位置付けられはするが、自分は、大概のことに傍観している自覚はある。慈善事業にも、弱者救済とやらにも特別の興味はない。
ぶかぶかの服を着ていた少年は、いつの間にか、命じるまでもなく薪割りや庭師の手伝いを自分からするようになった。
アレクセイはそれを別段に咎めも褒めもせず、好きにさせていた。
「…盗みをしたことを、後悔している。…凄く、後悔している」
ある時、レフが暖炉の前でぽつりとそう言った。アレクセイが他愛もない英雄譚を読み聞かせた後のことだった。暖炉の炎がゆらゆらとレフの瞳の中で揺れている。
盗んだものは黒パンだという。盗まれた相手もきっと同じように腹を減らしていたはず、もしかしたら、誰かに分け与えるつもりだったものかもしれないと、後悔をして、泣いた。
アレクセイは何も言わず、レフの髪を撫でていた。
記憶も朧げな「母」と死に分かれる前に、一度だけ身を寄せた教会で、シスターが「盗みはいけない」と自分に言い聞かせたことがあるという。
盗みをするなと言う前に、盗みをしなければを生きられない環境を作った人間を恨みもしない子供に悲しさを覚えた。
「だから、森に?」
「……」
盗みはしたくないが、物乞いをしても、他の子供よりも痛めつけられる自分が、逃げるようにして行きついた先が、あの針葉樹の森だった。食べられそうなものは片っ端から口にして馬小屋の藁の中で眠り、その三日目にアレクセイと出会ったのだと言った。
「馬小屋で寝ていたのか。…気が付かなかったな」
忍びこんだ事に怒りもせず、クツクツと笑うアレクセイにレフは安堵を覚える。
その後で、黒パンを盗んだ事で、自分を責めるのはもう辞めるようにと言いながら、アレクセイはレフの髪を撫でた。
年端もいかない子供が窃盗をする主な原因は貧困だ。
彼らが手に入れようとした衣類、食物といった些末な品々は、「生きるため」のもの。本当の意味での犯罪者ではなく、ただの、他に生きる術もない貧しい子供だ。そして、そこには必ず「生きるために仕方がなかった」という諦めが付属する。
アレクセイという庇護者を得た今、レフには自責の念だけが残ったのだろう。
子供達がそんな状況にありながら、それでも軍事を優先する国を愚かに思い、自分もその愚か者の一人であると、アレクセイは自分を心の中でなじった。レフはその被害者の一人にすぎない。
「レフ、生きるためだったのだろう?…もう、自分を責めることはやめなさい」
気まぐれが起こした成り行きではあるが、アレクセイとレフの生活は三年程続いた。レフの頭は悪くなく、教えたことはきちんと吸収してものにし、気が付けばアレクセイの身の回りの世話を、不要だと言っても先回りして勝手に焼くようにすらなった。
まだ本土にこそ火の手は及んでいないが、アレクセイは立場上戦況をつぶさに知る。
そのことをレフに口に出して教えたことも、教えるつもりもないが何かを察しているようだった。だが、レフから聞いてくることもない。
そんなある日、軍人になりたいとレフが言い出した。
レフは自分が軍人になり、少しでもアレクセイを助けられたなら。そう純粋にそう思っていた。そして、それが自分を見返りなしに庇護してくれたアレクセイへの恩返しのような気がした。
アレクセイは反対を唱えることはしなかったが、少しだけ眉を顰めたのを、レフは見逃さなかった。
学校の入学手配はアレクセイが済ませてくれた。
レフは「どんな仕打ちにも耐えよう」と覚悟していた、虐めの憂き目に遭うことはなく、それどころか、身体的、能力的に抜きんでていたレフは学校で一目置かれる存在になった。
成績も申し分なく、このままいけば卒業と同時に一個小隊すらまかされるのではないかと期待された、視察で軍の大将が訪れた時には激励も受けた。
それは純粋に誇らしく思え、アレクセイも喜んでくれるだろうと思った。しかし、将校視察に際し、学校を訪れたアレクセイは期待を胸に目を輝かせて他の生徒たちと一緒にアレクセイを迎えたレフに一瞥もくれることなく、そのまま素通りをした。
アレクセイの態度に落胆したレフだったが、将校であるアレクセイが一候補生である自分に声をかけることを期待した方が悪かったのだと思いなおし、いつか、アレクセイの役に立とうと訓練に励んだ。
しかし…
「…あぁ、少佐だろう?綺麗な顔してたもんな」
「貴族だからだろう?」
「バッカ、お前、そんだけのワケがあるか」
寮の食堂でそんな言葉が聞こえた。アレクセイの姓であるイヴァノフの名が聞こえて、レフが何のことかと尋ねると、噂を教えてくれた。
「貴族が将校になんのは当たり前としても、あの人の出世のしかたは異常だって話だよ」
「異常?」
曰く、殺戮や拷問に長けた何かを隠れて秘密裏に行っている。大量殺戮の兵器、化学兵器の類を開発しているのではないかという噂に始まり…。
「それに、あの人、上層部の玩具ってもっぱらの噂だもんな」
「…玩…具?」
ひどく嫌な響きだ。
「そ。オモチャ。性処理のオモチャ。ま、それで昇進出来るっつーんならなぁ」
下卑た笑いを聞いた。鼓膜の奥で響く笑いが煩い。
瞬時に違うと否定できればどんなに良かっただろう。
アレクセイの仕事は「知らない」だけで、彼が言わなかっただけならば…。
玩具というとてつもなく嫌な響きの中で、過去に何度もアレクセイが顔色を悪く気分が悪そうに帰宅した時のことを思いだす。
「…ま、まさか」
自分の考えを否定するように絞り出した声。
「まぁ、噂だ、噂」
そう、ただの噂だとレフは寮生達が去った後も何度も呟いては首を振った。
三年後、レフが軍事学校を卒業する年を迎え、軍の配属が決まった。レフは希望していた陸軍ではなく空軍に配属された。
成績上位者は優先的に希望の配属先にいけると聞いていた。しかし、希望は通らず、駄目だったかと肩を落としたレフだったが、友人達がこぞって希望の配属先に行けたと耳にし、教官に自分の配属理由を尋ね、思わぬ答えが返ってきたことに驚き、同時に悲しみに襲われた。
「イヴァノフ少佐が空軍に配置するようにと仰せだ」
その場を後にし、失意にも似た落胆を引きずって寮の部屋に戻ると、涙が零れた。
「…アレクセイ、何故…」
その後も、式典、祭典でアレクセイを見かけたが、アレクセイは決してレフに声をかけようとはしなかった。
レフが出撃した時も、功を称えられ表彰をされた時も、勲章を賜った時も、アレクセイはレフを一顧だにしなかった。
しかし、アレクセイに振り向いてもらえるよう、レフは努力を重ね続けた。
褒めて欲しい訳ではない、ただ、認めて欲しかった。一人の軍人として、一人の人間として、一人前であると。ただ、それだけだった。
軍籍に入って三年。レフは中尉にまで昇進を重ねた。
アレクセイはレフを今だ見てくれようとはしない。
休暇で帰った時も、居る事を否定されたり、出ていけと言われたりこそしないが、「戻ったのか」と言ったきり、意図的に避けられていると感じた。
ただ、話がしたかった。軍の話でなくても、昔のように暖炉の前で、二人で過ごす時間が欲しかった。
「アレクセイ…」
パンとチーズを差し出してくれた時の微笑み。もう自分を責めるなと優しく撫でてくれた手。はじめて口にした白パンにはしゃいだ日。こんなにフワフワした食べ物があるのかと喜んだ自分を、面白いものを見るように、アレクセイが小さく笑ったのを覚えている。
アレクセイに教え得てもらった神話の数々、英雄譚、歴史。暖炉の前で読んでくれた時の、あの優しげな声。
全てが懐かしく、その全てが失われ、否定された様な今がひたすらに悲しかった。
火の入らない竈の前で口に運んだ白パンは、酷く味気なく、初めて白パンを食べた時とは大違いだと、心の中で一人ごちた。あの時、アレクセイは自分の分までレフにくれた。夢中でパンをかじる自分を、少しだけ微笑んで見ていたことをレフは知っている。あの懐かしい優しい眼差しが、今は遠く感じる。ただただそれが悲しい。
それでもいつかは…、自分が軍功を立てれば、アレクセイが名をくれ、育ててくれた地を祖国とし、勝利に導ければきっと…。
…ただ、その思いから、がむしゃらに訓練に励んでいるレフを、アレクセイは知っていた。
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