不可侵

甘い、病、秘密

花の病に侵された少女が昼下がりの庭で眠るはなし







 彼女からはいつも甘い匂いがしている。菓子や香水のたぐいではない。花の香りだ。

 大きな柱に支えられたアーチ状の天井に、靴音がはね返る。昼休みも終わりに近づいた大回廊にはすでに人の姿はまばらだ。

 彼女は自由で奔放だ。いつも人の輪の中にいて笑っている。

 昼下がりの光が降りそそぎ、白い床をまばゆく照らしていた。私は早足に回廊を通り抜け、柔らかい芝生の上に足を踏み出す。中庭をしばらく行けば、目的の場所はもうすぐそこにある。

 彼女は孤独だ。不可思議で奇怪な不治の病に侵されている。

 温室のガラス扉を押し開けて、私はレンガの小道を歩く。甘い匂いがした。ルピナスやスズラン、バラやアネモネ。温室に植えられたどんな花よりも甘く芳しい。

 青々とした茂みの奥で彼女は眠っていた。周りは薄紅の花に囲われていて、すでに半分ほど埋もれている。


「かおる」


 彼女の傍らに膝をつき、肩をゆすった。


「花織、起きて」


 長い睫毛が震え、薄い瞼がゆっくりと開く。ガラス玉のような黒い瞳と、目が合った。


「授業が始まるわ。教室に戻らないと」

「おや、もうそんな時間かい?」


 あくび交じりにそう言って、彼女は気だるそうに体を起こす。


「よく寝た」

「毎回言ってるけれど、所かまわず寝ないで。制服が汚れる」

「そうお堅いこと言わないでくれよ」


 彼女は茶化すように言ってから考え直す素振りを見せて、まあお目付け役なら仕方ないかと軽やかに笑った。


「で、何だっけ」

「授業」

「そうそう。そうだった。見つかってしまったから仕方ない。行くとしようか。どこで何の授業だい」

「第二講義室で倫理……花織、教科書は」


 彼女は立ち上がって伸びをしながら、呑気に答える。


「私が持ってるわけないだろ」


 彼女は恐ろしく不真面目だ。もともとあまりに素行不良だったので、級長の私が面倒を見ることになった。以前に一度教科書を貸してから味を占めたようで、ときおり鞄すら持ってこないことがあった。普通なら停学処分でも喰らいそうなものだが、見逃されているのは彼女の特殊な事情ゆえか。

 彼女は或る病に罹っている。


「これまた、寝てる間にずいぶん咲いたなあ」


 苦笑する彼女の体には、花が生えていた。薄紅の小ぶりな花で、見目は可憐で愛らしい。しかし人の体を苗床として咲く花と知れば、眉を顰めるものもいるだろう。彼女は慣れた手つきで花や蔦をもぎ取ると、人形のように端正な顔に笑みを浮かべた。


「さ、行こうか」


 足元には薄紅の花が降り積もっていた。




 私は堅物で融通の利かないたちで、集団の中ではなんとなく浮いていた。級長を任されたのも向いてそうだからという曖昧な理由で、信頼されて選ばれたわけじゃない。

 対して彼女はとみに交友関係が広かった。同級生のみならず年上にも年下にも好かれていて、いつも人の輪の中にいた。

 そんな彼女と関われば、自ずと私も輪の中に引き込まれる。こんな私にも友達と呼べる人たちができて、地に足をつけることができたのは花織のおかげだ。

 なのに彼女は、不意にどこかへいなくなってしまう。


「日奈子、もしかして花織を探してる?」


 こうして声をかけられるのにも慣れてきた。クラスメイトの美紗と千鶴だ。講義室のピアノで何か連弾していたようだった。


「……ええ、探してる。見なかった?」

「さっきまでここにいたけど、どこか行っちゃったよ」

「あの子、古典のプリントまだ出してないのよ。待っても放課後までって言ったのに」

「それは大変。眠いって言ってたから、医務室で寝てるかもね」


 心臓がひやりとした。


「……花織、眠いって?」

「うん。花咲いてたもの」

「咲いてたわね」


 彼女たちは二人揃って足元を指さす。そこにはあの薄紅の花が落ちていた。


「ありがとう。探してくるわ」


 早口にお礼を言ってその場を去った。足が自然と早くなる。

 花織の病は死ぬようなものじゃない。きちんと薬を飲んで、ある条件さえ守れば長生きできる。ようは花の浸食を防げばいいのだ。

 宿主が弱ったり眠ったりすると花はよく咲く。さんさんと日がそそぐ暖かな場所であればなおさらだ。

 たとえば、昼下がりの温室だとか。

 所かまわず寝るなと私は彼女に注意したが、彼女は眠る場所をきちんと選んでいる。自分の棺にふさわしい場所を正確に選んでいる。

 温室。教室の窓の近く。屋上。空き教室のソファ。彼女が好みそうなところをしらみつぶしに探して、中庭のすみでやっと見つけた。

 いつものように、薄紅の花に埋もれて眠っている。血管を伝い、細い根を体中にめぐらせて咲くその花はひたすらに無垢できれいだ。


「……かおる」


 最初に声をかけるとき、いつも緊張する。もしかして二度と目が合わないんじゃないかと。

 彼女は自由で奔放だ。彼女は孤独な人だ。彼女は寂しい人だ。

 彼女は。彼女は。彼女は。


「花織、起きて」


 彼女はいつも花の檻に囲われているから、私は近づけない。









 秘密にしていることがある。

 温室にひっそりと生えた木苺の場所、図書室の本に仕掛けた宝の地図、こっそりと庭に埋めた宝物。私には些細な秘密がたくさんあって、その全てを自ら明かすつもりはない。気づく人だけが気づけばいいし、気づかれないならそれでいい。









 私は体から花が咲く奇病を患っている。これはいわゆる不治の病で、長生きするには花とうまく付き合うしかないらしい。

 両親は使用人に私を押しつけて知らんぷりを決め込んだ。私には妹がひとりいるらしいが、会ったことはない。まるで私などいなかったかのように、三人で仲良く暮らしていると聞いた。

 責める気はない。私が彼らの立場でも、きっとそうする。

 早いうちに親元から離れた私はかなり奔放に育った。やりたいことをやりたいようにやった。授業をサボって海に行ったり、家の庭にツリーハウスを作ったり。手品に楽器に油彩画、登山、スカイダイビング。思いつく限りのことはなんでもした。

 ある日、気まぐれに髪の色を抜いてみた。黒髪が薄い金髪に変わり、学友たちはみな大いに驚いていた。


「どうだい、似合ってるだろ」


 肩にかかる髪を払ってそう言うと、みんながみんな似合うと言ってくれた。


「似合わない」


 でも日奈子だけは頑として言わなかった。


「なに、その色。前の黒髪のほうがよかった」


 私は体から花が咲く奇病を患っている。ゆえに皆が気を遣い、腫れ物に触るように扱う。程度の差はあれど、誰も彼もその一点のみは変わらない。

 だから、私に遠慮せず、私を哀れまない日奈子に驚いた。

 日奈子は、私の横暴を見かねた先生方が付けた見張り役だ。初めは煩わしいと思うばかりだったが、この一件を境に決定的に彼女の印象が変わった。

 日奈子は真面目で少し頭の固いところがあるけれど、どんな相手にも正面から向き合う。そして存外、面倒見がいい。弟が二人いるそうだ。仲が良いようだった。


「羨ましいことだ」


 昼休み、温室の天井を見上げてひとりごちる。温室の天井はきれいな半球を作っていて、ガラスを支える骨組みが幾何学的な模様を描いていた。私の座るベンチの傍らにはラナンキュラスが咲いていた。私に咲く花と同じ色だ。何気なく指先に目をやると、人差し指の付け根に花が咲いていた。反射的にむしり取り、拳の中で握りつぶす。目をつむり、深く息を吐いた。


「花織」


 呼び声に目を開き、自分がいつのまにか寝入っていたことを知った。急に入ってきた光が目を焼く。目の前には日奈子がいて、何故かとても焦っているようだった。


「花織、大丈夫?」

「え……何が」


 言いかけて、自分でも気づく。

 花が咲いていた。ほんの数分うたた寝していただけのはずが、一晩眠ったときと変わらない量の花が甘い香りをそこら中に振りまいていた。原因はすぐに分かった。花の育ちやすい環境で意識を手放したからだ。

 突然のことで私も少し狼狽えたけれど、日奈子は私以上に動揺していた。


「こんなに花が咲いてるの、初めて見たから」


 死んでるのかと思った。

 彼女はまるで、自分が傷つけられたかのような顔をした。その表情から、言わなければよかったと後悔しているのは明白だった。


「日奈子」

「……なに」

「迎えに来てくれたんだろ。次の授業、英語だったよな」

「数学だけど」


 先ほどまで泳いでいた目が、しっかりと私に定められている。


「変更あったの、忘れた?」

「いや、うっかり。教科書持ってない」


 彼女は浅く息を吐いたあと、貸すから、と押し出すような声で言った。


「教室、戻りましょう」


 差し出された手を取り、ベンチから立ち上がる。それから教室につくまで、彼女は私の手を離そうとしなかった。

 どこかぎこちない彼女とは反対に、私は高揚していた。私を哀れまないはずの日奈子が、初めて私を心配した。否、恐れた。それがとても嬉しくて、それから私は何度もゆるやかな自殺を試みた。

 温室。教室の窓の近く。屋上。空き教室のソファ。日の当たるところを選んで眠った。


「ふざけないで」


 昼下がりの温室に彼女の怒声が響き渡ったのは、この遊びを初めて少し経った頃だった。


「死にたいの」

「さあ、どうだろう」


 温室の芝生の上に横たわり薄ら笑いを浮かべる私を、彼女は見下げ果てた目で睨んだ。この温室は私たちだけがいるわけじゃない。そんな状況で彼女が声を荒げるのは、余裕をなくしている証拠だ。私はことさらゆっくりと立ち上がり、彼女に笑いかけた。


「でも、花に埋もれて死ぬ私は、きっと他のどんな芸術品よりも美しいだろうね」


 透明な光が私と彼女の間に降る。世界が淡く輝いて、まるで天国にいるようだった。


「君もそう思うだろ」


 痛いほどの光の中で、彼女はただ理解の及ばないものを見る目をしていた。

 それ以来、彼女が怒鳴ることはなかった。ただ眠る私を起こしに来るだけで、何も言わないし何もしない。

 そうなってようやく私は安心できた。

 ずっと秘密にしていることがある。

 温室にひっそりと生えた木苺の場所、図書室の本に仕掛けた宝の地図、こっそりと庭に埋めた宝物。私には些細な秘密がたくさんあって、その全てを自ら明かすつもりはない。気づく人だけが気づけばいいし、気づかれないならそれでいい。そんな数多の秘密の中でも、とっておきの一つ。

 私は日奈子が嫌いだということ。

 あのとき、私を哀れまない彼女に驚いた。そしておおいに警戒した。

 この子は私の引いた線を無遠慮に超えようとする。私の中に踏み込んで来ようとする。

 危険だ。不快だ。

 私を侵し、踏み荒らすものは、花の病だけで充分だ。

 今日も眠る私のかたわらに立ち入る足音が聞こえる。まるで猛獣の檻に入るときのように慎重な足音が。


「かおる」


 上ずった呼び声を聞くたび、私は間違っていなかったと安堵する。


「花織、起きて」


 どうか二度とその線を踏み越えようなどと考えるな。

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