淡雪

冬、雪、人 その二

家事代行サービスロボットの少女と、ある家庭のはなし







「何度も言わせんじゃねえよ、グズ!」


 罵声と共に、何かを叩きつけるような硬い音がした。

 二階へ続く階段を上っていた俺は、その音に足を止めた。

 兄の声だった。

 反射的に息を止め、体を硬くする。


「綺麗事ばっか言いやがって……感情も何もねえ、冷たい鉄クズのくせに!」


 追い討ちをかけるように、扉が乱暴に閉まる音が続いた。

 上階が静かになる。

 やがて覚悟を決めて階段を上りきると、質素なメイド服を着た少女が廊下に倒れていた。


「大丈夫?」


 おそらく兄に突き飛ばされたのだろう彼女に、声をかける。

 きゅるる、と歯車が回る音がした。閉ざされていた瞼が開き、彼女はかしゃん、と音を立てて立ち上がった。ガラス玉のような黒い瞳と、目が合う。

 そして彼女は、何事もなかったかのように微笑んだ。


「はい、雪人様。制御装置、各種センサー、アクチュエータ等、問題ありません」


 髪一筋の乱れもなく几帳面に纏められた黒髪、白い陶器のような肌。

 まるで人間と見紛うような彼女は、人間ではない。家事代行サービスに特化したロボットだ。

 最近では一般家庭への導入も進み、どこの家でも見かけられるようになっている。オーダーメイドとなればそれなりに金がかかるが、量産型の彼女は、さして金持ちでもない我が家でも充分買えるほどの手頃な値段だった。滅多に家に帰ってこない父が、三ヶ月ぶりに帰ってきたときの手土産として持ってきたものだ。


「お帰りなさいませ、雪人様」


 いつも通りの文言を並べ、機械の少女はきれいに微笑む。

 ロボットは便利だ。

 殴っても怒鳴っても、文句を言わないし嘆かない。精神状態や体調に関わらず、常に同じクオリティの仕事をしてくれる。

 体のいいサンドバックだ。

 彼女がこの家に来てから、俺が兄に八つ当たりをされる回数は格段に減った。

 閉ざされた兄の部屋を一瞥する。そして、目の前でにこにこと笑っている少女に視線を戻す。なんだか言いようのない嫌な気持ちになって、彼女に背を向けて自分の部屋に逃げ込んだ。

 鞄を部屋に置くと、また一階に下りてリビングに入る。

 そこは酷い有り様だった。

 カーテンは引きちぎられて中途半端にレールに引っかかり、床には洗濯物が散乱している。キッチンはもっと悲惨だ。グラスや皿がいくつか割れて破片が飛び散り、シュガーポットがひっくり返って中身が床にぶちまけられている。

 リビングのテレビの前に座り込んだ母親は、ぼんやりと虚空を見つめている。乱暴に掻きむしったのか、髪がひどく乱れていた。

 俺は母親から目を逸らし、キッチンの方へと足を向けた。飛び散った皿やグラスの破片に難儀しながらも、なんとか冷蔵庫の前に辿り着く。ところが、開けてみると中身はカラだった。


「……またコンビニか」


 ため息をつき、コートと財布を取りにまた二階へ逆戻りした。




 ◇




 外へ出ると雪が降っていた。薄く地面に降り積もった雪は、先ほどキッチンにばら撒かれていた砂糖を連想させた。

 寒々しい灰色の空の下を歩いてコンビニに向かい、惣菜パン三つと唐揚げ弁当、ミネラルウォーター、そしてポテトチップスを買い込んで、家までの道を戻る。空が暗いせいで時間が分かりづらかったが、腕時計を見るとまだ5時半だ。道の脇にある街灯が、じじ、と音を立てて明かりを灯した。

 家の門をくぐり、扉の前に立って、俺は立ち止まった。


「……何してんの?」


 ロボットの少女が、扉の前で立ちん坊をしていた。俺が聞くと、彼女は笑顔で答える。


「はい。私が粗相をしまして、雪隆様のご不興を買いましたので、こうして外に立たされております」

「……へえ」

「しばらく家に入るなと、雪隆様の仰せです」

「ああ、そう」


 雪隆というのは兄の名だ。空気が冷え込んで乾燥するこの時期は、なぜかひどく機嫌が悪くなる。


「じゃあ、一緒に公園でも行こう。傘だけ持ってくる」

「あら、どうぞお気遣いなく。雪人様がお体を冷やされて風邪でも召されては大変です」


 彼女はこんなときでも、やはり笑っている。

 当たり前だ。機械なのだから。何も感じないのだから。


「私なら、大事ありません。寒さなど感じない体ですから」


 だけどその笑顔を見ていると、自分がひどく矮小で汚くて、取るに足りないもののような気がしてくる。


「俺だけが家にいたら八つ当たりが全部こっちに来るだろ」


 わざと突き放すような言い方をした。素早く扉を開けて、傘立てから傘を一本引き抜く。


「それに、機械は濡れたらだめになる」


 彼女の頭と肩に積もった雪を手で払ってやり、その頭上に傘を差した。

 雪は深々と降り積もる。音もなく降り積もっては、白く香って冷気を振りまく。

 雪を踏みしめてしばらく歩き、辿り着いたのは人ひとりいない公園だった。

 冬の公園は侘しい。ブランコは巻き上げられて、ゾウの滑り台にはこんもりと雪が積もっている。夏には子どもたちやその親で賑わう公園は、今ではまったく人の気配のしない閑散とした場所に様変わりしていた。

 公園の一角にある東屋は、雪をしのげる屋根があるし、古びてささくれてはいるものの、木製のベンチも備えられている。防寒機能に乏しいのが少々惜しかったが、時間を潰すだけなら充分だ。

 傘を閉じ、俺たちはそれぞれベンチに座る。人ひとり分空いたベンチのスペースが、そのまま俺と彼女の心の距離を表しているようだった。


「お前さ、俺の家族を見てどう思う?」


 唐突な問いに、機械の少女は一つ瞬きをした。


「歪だよな。まともじゃないよな。おかしいよな?」


 彼女の合成音声が答えを紡ぐ前に、畳み掛ける。

 ガラス玉のような黒い目がこちらを見ていた。その視線にいたたまれなくなって、俯く。湿った土と、薄汚れたスニーカーが見えた。


「ああはなりたくないと思っていても……じゃあどうなりたいんだと聞かれたら、答えられない」


 息が白く曇る。雪が降る。冷気が体温を奪っていく。


「俺もああやって、まともじゃなくなっていくのかと思うと……」


 言葉は途中で止まって、千切れた糸の端みたいに宙ぶらりんになった。

 しばらく、雪が降り積もる音だけが聞こえていた。まるで世界に二人しかいないような心地がした。

 長い長い沈黙の後、彼女は答えた。


「人の言う「まとも」という状態を、私は適切に定義づけることができません。この単語は、時と場合によって真逆の意味に転じる場合もございますから」


 ほとんど人の肉声と変わらない声が、いかにも機械らしい文言を淡々と並べていく。

 正直、少し落胆した。所詮は機械か、と。

 だが考えてみれば当たり前だ。彼女にカウンセリングの機能は付いていない。あくまで家事代行サービスを専門とするロボットだ。

 俺は俯いて自分の足元ばかり見ていた。だから、彼女がこの時どんな風に笑っていたのか、分からなかった。


「ですが、現状で確定している事実が一つあります」


 頭の上に何かが触れる。それが彼女の手の感触だと分かったのは、くしゃりと頭を撫でられてからだった。


「雪人様はお優しい方ですよ」


 俺はこのときようやく顔を上げて、彼女の顔を見た。

 彼女はいつもと変わらず、優しく微笑んでいた。


「機械の私に、傘を差してくださいました」


 いつもと変わらない。そのはずなのに、いつもより嬉しそうに見えるのは俺の錯覚だろう。

 せっかく顔を上げたというのに、俺はまた元のように俯いてしまった。目の奥が熱くなって、鼻がツンとする。たいして寒くもないのに肩が震えた。

 ああ。

 血の繋がった家族よりも、プログラムされた機械の言葉で救われてしまう俺は、なんて侘しい奴なのだろう。なんて単純な奴なのだろう。

 互いに背を向け合った家族の姿と、朗らかに笑う機械の少女を、頭の中で並べてみる。


「……冷たいのはどっちだか」


 呟いた言葉は、涙と一緒になって地面に落ちた。

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