スノウマンからの手紙
冬、雪、人
依頼とあらば何処にでも手紙を届ける郵便配達人のはなし
扉を開けると、外はひどく吹雪いていた。真横から叩きつけるような雪は世界を白く染めていて、これでは三歩先に地面があるかも分かるまい。
そんなひどい吹雪の中、扉の前に一人の男が立っていた。
「こんにちは」
男は帽子を脱いで一礼する。黒い外套を着込んだ肩には、雪が白く積もっていた。
「手紙をお届けに上がりました」
目を細め、口元をやわらげ、男はお手本のような笑顔を整った顔に浮かべた。肌は白く、目は青い。どことなくおもちゃの兵隊人形を彷彿とさせる。
「……手紙。わたしに?」
娘は半信半疑で問い返した。手紙など、久しく受け取っていない。
男は口元に微笑を浮かべながら、肩から斜めがけにしていた革の鞄を開けた。そして蝶の標本を扱うかのような丁寧な手つきで、一通の手紙を取り出す。
スノウマンから、フロスティへ。
封筒に押された赤い封蝋の下に、短くそう書かれていた。
「フロスティというのは、貴女のことですよね?」
ほとんど確信を持っているような口調で聞いてくる男を前に、娘は曖昧に笑って手紙を受け取る。
ともかく、なぜ彼がこのような雪の日にこのような山奥に来たのかは合点がいった。男が着込んでいる外套とその下にちらと覗く制服は、郵便屋のそれであった。
「どうもありがとう。よければ少し上がって、休憩していくといい。この山を登るのはさぞ骨が折れただろう」
脇によけて、男が中へ入れるよう道を開ける。男はやんわりと笑って頭を下げた。
「それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
男は外套や帽子に降り積もった雪を払い、玄関に敷いてあるマットの上で靴底の雪を落とした。ばたん、と戸が閉まり、吹きすさぶ風の音が遠くなる。人が一人増えただけで部屋が少し狭く、そして暖かくなったように感じられた。
「あいにくこの雪で配給が滞っていてね。缶詰と乾物くらいしかないけど……」
「それとチーズがありますよ」
見ると、郵便屋がいつのまにか丸い紙の包みを持っていた。肩にかけていた鞄から取り出したものだろう。
「麓の町で買ったものです。差し上げます」
小屋の真ん中に置いてあるテーブルの上にチーズの包みがそっと置かれる。娘はそれを見て嬉しそうに笑った。
「どうもありがとう。貯蔵庫にいいワインがあったのを思い出したよ」
二人は向かい合わせにテーブルにつき、チーズと少しの干し肉をつまみにワイングラスを傾けた。
誰かと食事をするなど本当に久しぶりのことだったので、自然と酒も進む。郵便屋の持ってきたチーズは濃厚でなめらかな味わいで、舌の上でとろりと蕩けた。かなり上等な品だ。
「開けないのですか?」
グラスを二回ほど空にしたあと、郵便屋は唐突に聞いてきた。何を、などと聞かずともわかった。彼の視線は、テーブルの端に置かれている手紙の方を向いている。
「今更だけどさ、これは本当にわたし宛ての手紙なわけ?」
行儀悪くテーブルに肘をつき、軽く身を乗り出して聞く。まださほど飲んではいなかったが、少しばかり気が大きくなっていたのは否定できない。
対する郵便屋は素面のときと変わらぬ涼しい顔で薄く笑んだ。
「間違いありません。だってちゃんと宛名が書いてありますからね」
娘はしばらく据わった目で郵便屋を見ていたが、やがてがたんと椅子をずらして立ち上がった。壁際にあるキャビネットの引き出しを開け、ペーパーナイフを取り出す。
それを手にして再びテーブルのところまで戻り、封筒の端をさくさくと切り裂いた。
椅子に腰掛け、封筒の中から取り出した手紙を広げる。
几帳面な細かい文字が並んでいた。
手紙を最後まで読み終えるのに、時間はあまりかからなかった。それなのに、一枚の便箋にぴたりと収まった文面を何度も何度も読み返すものだから、娘は有に十分はその手紙と向き合うことになった。
それはたしかに、彼女に宛てられた手紙だった。
ぽたり、と雫が落ちて文字をにじませた。
娘は手紙に顔を埋めるようにして、そうか、と呟く。
「……そうか、元気か。よかった……本当によかった」
手紙を胸に抱きしめ、娘はしばらくの間しずかに涙をこぼしていた。
郵便屋は彼女の邪魔にならぬよう、何も言わず何もせず、ただ椅子に座って彼女の様子を見守っていた。
やがて涙が引くと、娘は手巾で顔をぬぐい、見苦しいところを見せてすまなかったと頭を下げた。
「これ、家族からの手紙なんだ。もう五年は会っていない」
「……何故会われないのですか?」
「会えないんだ。もう二度と会えない」
鼻をすすり、娘は哀しそうに笑った。その目はまだ少し赤い。
「わたしは、この山の神様を鎮めるための生贄だから」
「山の神……ですか」
「そう。昔からよく噴火の起こる地域なんだよ、ここ」
娘は目を閉じ、五年前から幾度となく聞かされた文言を口にする。あまりに繰り返されるものだから、もう諳んじることができるようになってしまった。
「生贄は人にあらず。この身はもう神のもの。だから、現世の家族とは関わりを断たなきゃならない」
「……だから差出人がスノウマンなのですね」
娘はそれには答えず、ただ静かに微笑んだ。
強い風が小屋に吹きつけ、窓がかたかたと揺れた。暖炉の火がぱちりと爆ぜる。
テーブルが一つ。椅子が四脚。ソファ、ベッド、暖炉、本棚、キャビネット。奥には小さな竃のある台所と、食料の貯蔵庫。
一人で暮らすには十分な広さの小屋だ。だけど一生を暮らすにはここは狭すぎる。
「わたしはこの狭い小屋の中で生きて、死ぬさだめなんだ。それ以外の生き方は許されない。それって家畜か人形と同じだと思っていたけど、この手紙があればわたしは最後まで人間でいられる気がする」
大切そうに手紙を抱きしめ、娘は郵便屋に笑いかけた。
「届けてくれてありがとう」
郵便屋は目を閉じて帽子を胸に当て、軽く頭を下げた。
ささやかな晩酌の時間は瞬く間に過ぎ去り、別れのときがやってきた。出会いに別れはつきものだと知ってはいたが、やはり雪山の小屋にひとり取り残されるとあっては心細い。
「なあ、最後に聞いてもいいかな」
「どうぞ。なんなりと」
郵便屋は帽子をしっかりと頭に被せながら快諾する。娘は今にも立ち去ろうとする客人の姿を見つめながら問いかけた。
「あなたはなぜ、手紙を届けるんだ?」
「なぜ……ですか。強いて言うなら、先ほどのあなたのような、人の感情が大きく揺れ動くさまを、少しでも多く観察するためでしょうか」
「……どういうことだ?」
郵便屋は微笑んだ。それは最初に見せたものと同じような笑顔だったが、娘にはずいぶんと印象が違って見えた。
「有り体に言えば、人間のお勉強をするため、でしょうか」
ぞくりと背筋が泡立つ。
人形のように整った笑顔を前に、娘はまぎれもない恐れを感じていた。
「……ずっと聞こうと思っていたのだけど」
肩にかけたショールを掴み、声が震えそうになるのを堪えて言葉を続ける。
「ここは一般人は立ち入り禁止で、まず普通の人は登れないような険しい山だ。正しい道を知らなくては間違いなく遭難する」
加えてこのひどい吹雪だ。慣れている者でも、ここまでたどり着くのは至難の業であろう。
郵便屋の手がゆっくりと小屋の扉を押し開ける。その青い目を娘の方に向けたまま。
びゅう、と骨を噛むような冷たい風が吹きつけ、小屋の入り口に白い雪が吹き込んだ。
「……あなた、一体何者?」
郵便屋は静かに笑み、ただ一言、こう言った。
「ただの郵便配達人ですよ」
その笑みはやはりおもちゃの兵隊人形のように冷たく整っていて、温度がなかった。
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