予言の巫女

朽木、予言、隠れ家

地下に囚われた少女とそんな彼女を見つけた少年が、村のしきたりに抗うはなし







 丹塗りの鳥居をくぐり、百段坂を登った先には、古い神社がある。その境内を抜けて更に森の奥へ進むと、古い木造の小屋があった。

 子どもはあの小屋に近づいてはならない。

 村の子どもたちは皆、大人たちにそう言い聞かされていた。


「宗介」


 厳しい声で名を呼ばれ、宗介ははっとした。知らぬ間に百段坂に吸い寄せられていた視線を地面に落とす。先を歩く叔父の、すり切れた草履が視界に入った。


「あちらを見るんじゃない。よもや小屋に近づこうなどとは思っとらんだろうな」

「いいえ、叔父さん。そんなことは決して」


 宗介が慌てて首を振ると、叔父はふんと鼻を鳴らしてまた歩き出した。宗介は小走りで彼の後を追う。


「でも叔父さん、なぜあの小屋に近づいてはならないんです? あの小屋に何かあるんですか?」

「何もない」


 あれはただの物置だ、と叔父は頑なにそう言った。だが宗介は、それを嘘だと思った。

 大人たちが毎夜、代わる代わるあの小屋を訪れているのを、宗介は知っていた。ただの物置小屋ならば、どうしてそのようなことをする必要があるだろう。

 未練がましく、もう一度ちらりと坂の向こうを見やる。

 百段坂に沿うようにして茂る木々が、ざわざわと鳴っていた。



 *



 水汲みと薪割りを終えると、午前は手隙になった。宗介は叔父の目を盗み、こっそりと坂の上の神社へ行った。百段あるという階段を登りきり、息急き切って境内を抜け、裏手へ回る。果たせるかな、そこにくだんの小屋はあった。

 森の木々が覆いかぶさるように繁っているそこは、昼間でも土がじっとりと湿っていた。心なしか小屋の木材も湿って色を濃くしている気がする。ひっそりと木々の陰に佇むその小屋は、まるで隠れ家のようだった。

 小屋の引き戸を引く。鍵はかかっておらず、戸はがたがたと音を立てながら開いた。小屋の中は暗く、窓がない。木板の隙間から細い光が差し込んでいるだけだ。

 ざっと見渡す限り、小屋の中にあるのは何の変哲も無いものばかりだった。木桶、水瓶、長持ち、麻縄、鍬や鋤などの農具。

 落胆はしなかった。ここまでは予想通りだ。

 大人の言いつけを破って小屋に近づく腕白小僧は、やはり一人二人はいる。小屋の中に何も無いことは、宗介もそいつらから聞いて知っていた。

 ならばと、引き戸を閉めて小屋の裏に回る。小屋の壁に張り付くようにしてある茂みをかき分けて、くまなく周辺を探る。そうしていると、小屋の壁の下方に、木を組んで作った矩形の格子窓を見つけた。

 茂みに隠れて見えづらい位置にあるが、それはやはり窓に違いなかった。


「この位置に窓があるということは、やはり地下があるのか」


 そうだろうと思っていた。小屋の中に何もないのなら、隠し部屋があるに違いないのだ。

 宗介は土で着物が汚れるのも構わず、地べたに這いつくばって窓をのぞいた。地下は暗く、目が慣れない内は何があるのかわからなかった。だが次第に目は慣れる。暗闇の中に物の形を見出せるようになる。

 そして、地下に「何」があるのか見て取った途端、宗介は悲鳴をあげて飛び退いた。

 皮膚の下でどくどくと心臓が脈打っている。じゃり、と草履が土を掻いた。


「だれ?」


 鈴のなるような、細い少女の声が聞こえた。


「そこに誰かいる? 村長様?」

「いや……ちがう」


 声が上ずった。

 小屋の地下に人がいる。生きている。

 はやる心臓をおさえながら、宗介は格子窓に顔を近づけた。


「俺は宗介。君は誰?」

「わたしは、朱音」


 地下で人が動く気配がした。格子窓から漏れ出た光の下に、少女が進み出てくる。

 射干玉の黒髪に、白磁のような肌を持つ、美しい少女だった。だが彼女の容姿の中で何よりも目を引いたのは、髪の黒さでも肌の白さでもなく、その大きな双眸の赤いことだった。それはさながら雪の上に落ちた南天の実のように、赤く艶めいている。

 地下にいたのは、宗介とそう年の変わらぬ少女だった。


「君は、どうしてこんな所にいるんだ?」


 心底わからなくて、問いかける。

 少女はその赤い目で暗闇の底から宗介を見上げ、淡々とした調子で答えた。


「閉じ込められているのよ。目が赤いのが、普通でないからと」

「けど、君はこうして普通に話せるし、気がちがっているわけじゃなさそうだ。それなのに閉じ込めるなんて」

「昼過ぎから雨が降るわ」


 少女は唐突に言った。宗介は訳がわからなくて、眉をひそめる。立ち上がって空を見上げてみたが、雨雲はどこにも見当たらなかった。宗介だってそれなりに天気は読める。だが今の空には、雨の気配など微塵も感じられなかった。この上ない晴天だ。


「大雨よ。外でやる仕事は早めに済ませておいた方がいい」


 少女は畳み掛けるように言う。

 まっすぐに見つめてくる赤い目が、宗介は不意に怖くなった。

 やはりこの少女は、気がちがっているのかもしれない。



 *



 その日の昼過ぎに大雨が降った。雨雲の流れは早く、雲が見えたと思ったときにはもう遅かった。表に出て畑仕事をしていた人間は皆濡れ鼠になった。宗介もそのうちの一人だった。


「どうやって言い当てたんだ?」


 翌朝、朱音のところを訪ねると、彼女は当然という顔をしてこう言った。


「見えたことを言っただけよ」

「見えた?」

「そう、ふっと頭の中に降ってくるのよ、未来のことが」


 宗介は目を見開いた。

 予言だ。この少女は予言をするのだ。


「朱音は巫の力があるのか? すごいじゃないか!」

「すごくなどないわ。たまたま出来たことをしているだけ」

「それでもすごいよ。じゃあ、飢饉や災害なんかも言い当てられるのか」

「それが見えたときは」


 宗介はすっかり感嘆してしまった。よくよく見てみれば、彼女が着ているのは染みひとつない白衣と緋色の袴だった。これは巫女の着物だ。


「村長様はこの力を外に出したくないの。だからわたしをこの石室に閉じ込めているのよ」

「……そうか」


 なぜ大人たちがこの小屋を足繁く訪れているのかわかった。朱音の予言を聞くためだ。

 もしもこの力が外に知れたら、賊が襲いにくるかも知れない。主上が聞きつけでもすれば、朱音は出雲の大きな社へ取られてしまうだろう。どちらにしても、この村は予言の力を失うことになる。


「だけど俺は、女の子をこんな暗い部屋へ囲っておくのは、間違いだと思う」


 暗闇の中で、朱音がふと顔を上げた。


「俺も粗相をしたときは叔父に小屋に閉じ込められることがあるよ。暗くて静かなところは恐ろしい。そういうところでは、自分の姿を見失ってしまうんだ」


 一息に言い切ると、宗介は肘をついて格子窓を覗き込んだ。


「朱音は何も悪いことなどしていないのに、こんな罰のような仕打ちを受けているのはおかしいよ。村長様に掛け合ってここから出してもらおう」


 暗闇の中にいる朱音と、光の下にいる宗介の目が合う。

 ややすると、朱音は目を伏せて俯いてしまった。


「……無駄よ。わたしはもう十年以上ここに閉じ込められているもの。今更、村長様が考えを改めるとは思えない」


 けど、有難う。

 朱音は小さな声でそう言った。



 *



 それから、宗介は暇を見つけるたびに朱音の元へ行った。朱音は閉じ込められて育ったせいで、現世の物事を知らないところがあった。彼女の物慣れない反応が新鮮で、宗介は行くたびに違うものを持って行った。

 ところがその日、何も持たずに訪れた宗介を見て、朱音はひとつ瞬きをした。


「その顔、どうしたの」


 彼女は抑揚のない声で聞いたが、心配されているのは宗介にも伝わった。宗介の顔の右半分は、無残に腫れ上がっていた。

 どさりと格子窓のそばに座り込み、唇を噛む。血の味がした。


「叔父に殴られたんだ」

「なぜ」

「さあ、俺の仕事ぶりが気に食わなかったのか……それか、顔を見たら無性に腹が立ったんじゃないのか」


 地下で首を傾げている朱音のために、宗介はもう少し詳しく話してやる。


「俺の両親は流行り病で亡くなったんだ。だから今は、叔父の家で世話になっている。俺はあの家の中でははみ出しものだ。叔父は、自分の兄……父のことを、よく思っていなかったらしい」


 それではなぜ宗介を引き取ったのかと言えば、それは世間体を気にしてのことに過ぎない。情などかけらもないのだ。


「俺はこんな小さな村は出て行って、いつか都へ行くんだ。一人で生きる力を身につけるまでは、殴られようが蹴られようが仕方ない」


 朱音は黙って話を聞いていたが、やがておもむろに口を開いた。


「宗介、いいことを教えてあげる」

「いいこと?」

「あなたはいい人だし、それにこの村に何の未練もないように思うから」


 南天の実のような赤い目で地上にいる宗介を見上げ、朱音はいつもと変わらぬ、淡々とした調子でこう告げた。


「明後日、この村で火事が起こる。火種は風に乗って広がって、村は全焼する」


 あまりのことに、すぐには頭が追いつかなかった。ようやく朱音の言葉の意味を理解すると、宗介は窓の格子を掴んで詰め寄る。朽ちかけた木の格子が、みしりと音を立てた。


「……そんな」


 村が焼ける。人が死ぬ。一棟焼けたら火はたちどころに広まるだろう。風の向きが悪ければ、火の回りはもっと早くなる。

 嫌な予感がして、宗介は睨みつけるように朱音を見た。


「もしかして、言ってないのか?」

「ええ」

「なぜ!」

「どうして言わなければいけないの?」


 暗い地下の部屋で、朱音はすり切れた痛々しい笑みを浮かべた。


「これは復讐よ。私をこんなところへ閉じ込めた人たちへの。何処にも行けないまま予言をしつづけるなんて、死んでるのと一緒だわ。予言を得ても、告げるか告げないかは、私の自由」


 何も言えなかった。

 朱音が憤るのは当然だ。このような暗くて狭い場所に閉じ込められ、予言をすることを強要されれば、憎しみが募るのも仕方ない。

 だが宗介は、彼女の怒りに同調するわけにはいかなかった。

 たとえ疎まれていても、宗介にとって叔父一家は家族だ。好きはしないが、だからといって死んで欲しいとは思わない。

 朱音に別れを告げて、宗介は村へ走った。

 早くこのことを伝えなければいけない。

 ところが家に駆け込んだ途端、宗介は胸ぐらを掴まれて投げ飛ばされた。


「宗介、何処で油を売っていた!」


 頭上から叔父の罵声が降る。


「叔父さん」

「この頃はお前、仕事をせずによそで遊び呆けているそうだな? 誰が飯を食わせてやってると思っているんだ!」

「叔父さん、聞いてくれ!」


 叔父の足元に追い縋り、宗介は必死に叫んだ。


「明後日、この村で火事が起こるんだよ! 早く逃げないと」

「何を言ってるんだ、お前。気でも触れちまったか?」

「違う、本当のことなんだ!」


 ところが、いくら言っても叔父は馬鹿にして取り合おうとしなかった。叔母も、叔父夫婦の息子たちも、他の村人だって、宗介がいくら言っても笑うばかりだった。

 そんなことがあるはずない、と。



 *



 その日はあっという間に暮れて、次の日の朝が来た。宗介は午後の仕事を終えたあとのわずかな時間を使って朱音に会いに行った。


「村中に触れ回ったけれど、誰も信じちゃくれなかったよ。しまいには村長様にお叱りを受けてしまった」


 肩を落として小屋を訪れた宗介を、朱音は静かな目で見つめた。


「当たり前よ。だって私が、火事は起こらないと予言しているんだもの」

「……え?」

「この村の人たちは、みんな馬鹿よね。わたしのことを信じきっている。子どもが嘘をつくなんて当たり前のことなのに、わたしを疑いもしない。わたしの予言に頼りきって生きてきた罰よ」


 暗闇で薄く微笑む朱音を目にして、宗介は背筋が凍るような感覚をおぼえた。

 なるほど確かに、この子は普通の娘ではない。普通でない目の色をして、普通でない力を持って、普通でない育ち方をした。

 宗介とは違う場所にいる娘だ。

 地上と地下との隔たりを、ひどく大きなもののように感じた。

 生唾を呑み込み、宗介は慎重に言葉を選んで話した。


「朱音、頼む。たった一言だけでいい。俺が言っても誰も信じない。けど朱音が言ってくれれば……!」

「絶対に嫌」


 全身で拒絶されているのが分かった。赤い目には憎しみの炎が燃え、その決意には一分の隙も見られない。


「村も人も、全て焼けてしまえばいいんだわ」


 少女の顔に浮かぶのは狂った笑みだった。

 この子は人のせいで歪んでしまっている。


「それならどうして俺に話したんだ」


 宗介は、静かな、だけど朱音によく聞こえるような声で言葉を紡いだ。


「誰かに知って欲しかったからじゃないのか。本当は告げるか告げまいか迷っているからじゃないのか」


 はじめて、朱音の瞳が揺れた。

 彼女はたしかに狂っている。だけど根元から朽ちてしまっているわけじゃない。今からきちんと光を浴びて育てば、きっと誰にも負けない立派な花を咲かせるはずだ。


「だから、朱音……」


 どうか皆に本当のことを言ってくれ。

 続けようとした言葉は、途中で引き裂かれた。ぐいと腕を掴まれて、窓のそばから引き離される。

 いつの間にかそこには、村の大人たちが数人立っていた。彼らの表情はいずれも険しく、宗介にはそれがひどく恐ろしげなものに見えた。


「まさか村の子どもが出入りしていたとは」

「こいつは直隆んとこの宗介じゃないか。昨日もおかしな嘘を村中に触れ回っていた」

「困ったものだ」


 大人たちの向こうから、ゆっくりと村長が進み出てきた。白い髭を口元に蓄えた翁は、目を細めて宗介を見る。


「二度とこのような愚行を起こさぬよう、厳しい躾が必要だな。さて、どうしてやろうか」


 白い髭を撫でつけながら言う村長の声は、あくまで穏やかだ。だが、その目はちっとも笑っていない。骨が浮いた皺だらけの手が、宗介の顔に伸びる。


「お待ちください」


 凛とした声が暗い石室から聞こえた。


「嘘をついたのは私です。明日、この村で火事が起こります」


 大人たちの間にざわめきが走った。村長は鷹揚な動作で格子窓の方を見やり、宗介に伸ばしていた手を下ろす。


「明日の暮れ方には、村は火に包まれているでしょう。火元は判じかねますが、風の向きが悪いのか瞬く間に燃え広がります」

「朱音」


 石室から聞こえていた声が、村長の静かな声によって途切れた。


「神託を偽ったこと、ただで済まされると思うなよ」

「……覚悟はできています」


 彼女の声がかすかに震えていたのを、宗介は聞き逃さなかった。村長は深いため息をつくと、格子窓に背を向けて歩き出す。


「あれには灸を据える必要があるな。明日より食事はすべて抜け。それでも言うことを聞かぬようなら爪を剥げ」

「かしこまりました」


 宗介は思わず自分の耳を疑った。


「村長様、本気で仰っているのですか?」


 食ってかかる宗介を、男たちのうちの一人が取り押さえた。


「それは罪人にする仕打ちです! 朱音は何もしていないのに!」

「そう、何もしなかった。おかげで村人が大勢死ぬところだった」

「それは……」


 言葉が喉の奥に詰まる。

 朱音の、憎しみに燃ゆる赤い瞳を思い出したからだ。

 村長は宗介に近寄り、その肩に手を置いた。


「宗介、賢いお前ならわかるだろう。あの娘は大きな力を持っているがまだ幼い。周りの大人がうまく導いてやらねばならぬのだよ」


 その声といい言葉といい、まるで駄々をこねる子どもを嗜めるかのようだった。だが村長の目の奥にあるのは子どもを案ずる気持ちではなく、ただの私欲だと宗介ははっきり見抜いていた。


「それは詭弁です。村長様は朱音を利用したいだけだ。都合のよい道具のように」


 翁の白い眉がぴくりと動く。柔和な笑顔を崩さぬまま、村長は近くにいた男に言った。


「この小僧は痛めつけて縛り上げてから納屋へ閉じ込めておけ。一晩経てば頭も冷えよう」

「村長様、待ってください!」


 去っていく背中に、宗介の声は届かない。

 その姿を見て、ようやく宗介は朱音の言葉の意味を思い知った。

 無駄だ、と。村長様が考えを改めるとは思えない、と彼女は言っていた。

 その通りだ。この村の大人たちは古い考えに固執しすぎている。朱音をただ予言を告げるだけの道具と見なし、人として扱おうとは思ってもいないのだ。

 村の男たちにひととおり痛めつけられた後、宗介は麻縄で粗雑に縛られて納屋に放り込まれた。がたん、と外から閂をかける音がしたあとには、水を打ったような静寂が訪れた。

 男たちが去ったのを確認して、軽く手足を動かしてみる。


「よし、動く」


 叔父に比べると、あの男たちの痛めつけ方はまだ生温い。手も足も十分動くし、縛られたのは腕だけだ。自分の身長よりもかなり高いところにある小窓を見据え、宗介は立ち上がった。



 *



 本当のことを言って欲しい、と朱音を焚きつけたのは宗介だった。

 朱音は宗介の言う通りに村の危機を皆に告げた。だがそのせいで、彼女は今までよりも雁字搦めに、この村に縛り付けられる羽目になったのだ。

 その責は、発端を作った宗介が負わねばならない。

 神社の境内へ続く百段坂を駆け上がりながら、宗介は唇を噛み締めた。縛り上げられたときに縄が擦れた部分が、ずきりと痛む。

 おかしいのは朱音ではない。彼女はきちんと筋を通した。

 狂っているのはこの村なのだ。

 一段飛ばしに階段を駆け上がり、疲労のあまり崩れ落ちそうになる体を叱咤しながら、宗介は小屋に走った。

 ようやく小屋が見えた頃には、日が沈んであたりはすっかり暗くなっていた。小屋の裏手に回り、いつもの格子窓に近寄ろうとした宗介は、足を止めて息を呑んだ。


「……そんな……」


 窓が土で埋められている。木枠も格子も、すっかり土に覆われて踏み固められてしまっていた。

 だが、それを見て怯んだのは一瞬だった。宗介はその場に跪き、手で土を掘る。まだ埋められてからさほど時間が経っていないのが幸いした。手で掘れないほど硬くない。土を掻いた爪の間には血が滲んだが、宗介は構わず続けた。

 土塊がぼろりと壁の向こうに崩れ落ちたのを感じて、はっとする。格子窓の木枠が見えていた。邪魔な土をどけて、格子を叩き折る。木は朽ちかけていて、子どもの力でも簡単に壊すことができた。


「朱音」


 暗い窓の向こうに、小声で呼びかける。


「……宗介?」


 今にも泣き出しそうな、か細い声が応えた。


「宗介なの? どうして……」


 窓の近くに駆け寄ってきた朱音の目は、赤く腫れていた。今までずっと泣いていたのだろう。


「迎えにきた。逃げよう」

「逃げるって、どこへ」

「どこでもいい。都でも出雲でも。どうせこの村は焼けて無くなるかもしれないんだろう」

「でも、ここから出られないわ」

「この窓から出ればいい。子どもなら出られるくらいの幅がある」


 朱音は渋る様子を見せた。

 生まれてこの方、ずっとこの村で、この石室で暮らしてきた彼女だ。よい思い出などない場所とは言え、離れるとなれば不安なのだろう。


「危機は告げた。できる限りのことはした。もうこの村に縛られる謂れはないんだ」


 唾を呑み込み、宗介は身を乗り出して訴えた。


「逃げていいんだ、朱音」


 ここにいても、彼女は幸せになれない。

 逃げたことを後悔する日がくるかもしれない。だけど宗介は、これ以上朱音をこんなところに置いておきたくなかった。

 逃げてもいい。

 自分で言いながら、宗介は肩が軽くなるのを感じた。

 そうだ。逃げていいのだ。

 朱音にしても、宗介にしてもそうだった。理不尽に耐えて黙っているのが正しいとは限らない。どうしようもできないことからは、逃げていいのだ。

 だが、朱音はまだ踏ん切りがつかないようだった。宗介が焦れていると、神社の方から人の声が聞こえた。


「おい、そこに誰かいるのか?」


 宗介も朱音もぎくりとする。

 大人の男の声だ。先刻のことがあったので、小屋を見回りに来たのだろう。宗介は焦って、狭い窓から朱音の方へ手を差し伸べた。


「朱音!」


 小声で叫んだ宗介を、朱音は暗闇の中から見上げた。

 南天の実のような赤い瞳に、憎悪はもうない。あるのは強い意志と覚悟だけだった。

 そして彼女は、手を伸ばす。

 暗闇から、光の先へと。

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