二人の旅路、或いは夢
日照り、化ける、魚
旅人の青年と魚の少女が楽園を目指すはなし
乾いた皺だらけの手が目の前に差し出される。
「銀貨二十枚」
その手の主である魚屋の店主は、当然というような顔をしてそう言った。彼の浅黒い肌は砂に汚れて頬は痩せこけ、落ち窪んだ目は何処も見ていないような暗い色をしていた。
対する青年は砂よけの襟巻きを口元まで引き上げて、眉根を寄せる。
「……十枚」
「二十」
「十五」
「だめだ、二十だ」
「高すぎやしないか」
「生憎と日照りが長く続いていてね。どこもこんなもんだよ」
買うのかい、買わないのかい、と生気のない声で問われて、青年はますます眉間の皺を深くした。無言で鞄を探り、言われた通りの金額を、かさついた骨の浮いた手に握らせる。
「あんたもカナンへ行くのかい」
日はとうに傾きかけて、夕闇の薄暗い冷たさを肌に感じる時分だった。ぬるくなった桶の水から魚を引き揚げ、魚屋の店主は問う。
「近頃じゃ皆あすこへ向かうよ。あんたもそうかね」
「はい」
魚屋の店主の目にほんの一瞬哀れむような光が映った。だがすぐに影になって見えなくなる。
「そうかい。気をつけてお行きよ」
「ありがとう。あなたも良い一日を」
よく水気を切って布に包んだ魚を受け取り、軽く頭を下げる。老いた魚屋の店主はそれ以上何も言わなかった。青年は踵を返し、待たせていた駱駝を引いて歩き出した。
街から少し外れたところに焚き木を組んで火を焚く。その頃にはすっかり辺りは暗くなっていた。
早速先ほど買った魚を焼こうと鞄から取り出す。布に載せた魚を脇に置き、適当な長さの枝を手に取る。そしてもう一度魚の方を見やり、青年は目を丸くした。
そこに魚の姿はなく、一人の少女が立っていた。
肌はここら一帯の人間には見られない青白さで、銀色の髪と黒い目を持っていた。
少女は丸い大きな瞳で食い入るように青年を見つめ、ややするとはっとした様子で仰々しく頭を下げた。
「ごきげんよう」
言いつけられた通りの言葉をそのまま言ったかのようなぎこちなさが感じられた。実際そうだったのだろう。少女は頭を上げた後も、これどよかったのかしら、とばかりに不安そうな顔をして青年を見おろしていた。
魚が少女に化けた。
「今日の俺の夕飯だったんだが」
そう言っても少女は首を傾げるばかりで、この不可思議な現象につて説明してくれることはなかった。
「参ったな……暑さで頭をやられたか?」
こめかみを押さえる青年のそばにしゃがみ込み、少女は無邪気な瞳で覗き込んでくる。
「あたし、マリヤム。あなたは?」
「……アスラン」
投げやりに答える。もうどうにでもなれ、という気分だった。
「アスラン。いい名前ね」
「ありがとう。君もね」
「あたし、オアシスへ行きたいの。連れてってくださらない? ね、どうかしら」
少女はやけに気取った口調で言い、小首を傾げる。真剣な瞳で見つめるマリヤムと、げんなりした顔をするアスラン。二人のそばで、焚き火がぱちぱちと音を立てて明るく燃えていた。
アスランは仕方なくマリヤムを連れて行くことにした。先ほどの街に彼女を預けようにも、まさか魚が人になったと説明するわけにもいかない。二人分の食料を買い足して、その日の昼前に街を発った。
灼熱の光が砂漠の砂を焼いていた。日よけの分厚い外套越しにでも、焼けつくような熱を感じる。駱駝の背に乗って揺られているだけでも、額にじっとりと汗が滲んだ。小麦を練って焼いたものや干した肉を食べながら、何日も何日も駱駝に揺られ、適当なところで寝泊りをした。
「ねえ、のど乾いた」
マリヤムは大量の水を欲した。アスランは彼女にせがまれるたびに貴重な水を彼女の革袋に注いでやった。
自分がほとんどの水を飲んでしまっているのを、さすがに彼女も申し訳なくなったと見える。眉尻を下げて水の入った革袋を中途半端な位置に下げ、アスランは、と言葉少なに聞く。
「俺のはまだたっぷり入っているから平気だ」
不安そうに見つめてくるマリヤムに、腰に下げた革袋を叩いてみせる。それは大きく膨らんで揺れていた。
マリヤムはそれを見て納得したのか、革袋の水を少しずつ飲み始めた。
ところが五日目の昼にとうとう水がなくなった。
いつものように空になった革袋を差し出してくるマリヤムに、アスランは力なく首を振る。
「……水がもうない」
アスランはさっと辺りを見渡すと、あるものを指差して言った。
「あれを飲もう」
「サボテン?」
「そうだよ。果肉を絞れば飲める」
鞄からよく研がれたナイフを取り出し、サボテンを切って棘を抜いた。それを絞って水分を取り出し、乾いた喉に流し込む。
マリヤムはこれに味を占めたのかもう一切れサボテンを取ろうとしたが、アスランはそんな彼女を止めた。
「あまり飲むなよ。砂漠の水は夢を見せるから」
「ゆめ?」
「あんまり幸せな夢を見るから……覚めたくなくなるんだそうだ」
何とか水を補給したはいいものの、それは所詮一時しのぎにしかならなかった。頭上から太陽が照りつけ、着々と体力を奪っていく。
辺りは一面、砂の海だった。草の一本も生えない不毛の地だ。
熱気に耐えてしばらく砂漠を進むと、やがて太陽は地平線に向かって下降していった。遠くに見える砂の山が、夕日に照らされて赤く染まる。まるで魔物にでも出くわしそうな不気味な、しかし美しい光景を記憶に焼き付けて、アスランは目を閉じた。
どさり、と音がして、体に衝撃が走る。駱駝から落ちたのだと、時間をかけてようやく理解した。
「アスラン」
すぐにマリヤムが駆け寄ってくる。彼女は心配そうにアスランを覗き込んだ。落ちそうになる瞼を必死でこじ開けて、アスランは乾いてひび割れた唇を開く。
「カナンはとても良いところだ」
呟いた声は、彼自身も驚くほどに嗄れていた。
「幼い頃、父と一緒に行ったことがある。大きな青い水たまりがあって、緑の木々が茂っていて……とても美しいんだ」
その景色を夢想するように、目を閉じる。
「そこならきっと……君も気に入る」
意識を失いかけながらそれだけを言って、アスランはとうとう目を閉じた。マリヤムはじっと、砂の上に倒れ伏した青年を見つめる。
「アスラン」
呼びかけに応える声はない。
「アスラン?」
もう一度呼ぶが、結果は同じだった。
「……ゆめを見てるの?」
少女はしばらく首を傾げていたが、やがてはっとして青年の腰元にある革袋を手に取った。手に取ってみると、ずしりと重い。中には水が入っているはずだった。袋の口を開けて中を確認したマリヤムは、しばらくじっと中身を見ていた。それからおもむろに袋を逆さにする。
ざあ、と中から大量の砂が溢れ出した。
『俺はこっちにまだ入っているから平気だ』
そう言っていた彼の姿を思い出す。
マリヤムは彼がこの革袋の中身を口にするところを見ていない。もう、何日も。
少女は長い間沈黙してから、もう一度彼に呼びかけた。
「アスラン」
彼の顔の上に、マリヤムの影が落ちる。
「一緒にオアシスへ行こう」
地平線の向こうに、日が沈んだ。
◇
目を覚ますと、銀に輝く星が見えた。
砂漠の夜はひどく冷え込む。体には分厚い布が巻き付けられていて、冷気に体温が奪われるのを防いでいた。それだけでなく、そばには火の気配があった。緩慢な動きで首を回してそちらを見やると、暗闇の中で焚き火が煌々と燃えている。
肘をついて起き上がると、焚き火のそばに、布の上に乗せられた一尾の魚が見えた。どこから持ってきたのか、魚に刺して焼くための枝が添えられている。
それを見た瞬間、アスランは自分が長いこと空腹に耐えていたことを思い出した。最後に食べたのは干し肉のかけらだった。
彼は飛びつくようにして魚を手に取り、焼いて食べた。それは涙が出るほどに美味かった。空腹を満たし、夢のような幸福感を与えてくれた。
骨も残さずそれを平らげてしまったあとに、彼は何かとても大事なことを忘れているような気分に襲われた。
「……マリヤム……?」
呼んだところで返事はない。
夜に包まれた砂漠では、夜目にも白い砂の海が、なだらかな稜線を描きながら広がるばかりだった。
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