僕と白藍の君のはなし
暦、竿、黒猫
「昔はみぃんな、あたしを見てくれたのよ」
白藍の生地に青い桔梗の花が生える着物は、彼女によく似合っていた。眩い白銀色の髪を秋風にそよがせながら、少女は不満げに頬を膨らませる。
「それが今じゃあ、完全に日陰者あつかい。失礼しちゃうわ。みんなあの、とびきり明るくて派手な子が好きなんですって」
少女は腕を組んだまま黙り込み、それからちらりと僕の方を睨んだ。
「ねえ、聞いてる?」
聞いてますよ。
「ならいいんだけど。あーあ、昔はよかったなぁ。偉い博士がこぞってあたしを見つめてたのよ。あたしのことを見て、とっても大事な取り決めをしていたのよ」
芒の穂が秋の夜風にそよぐ。空には濃藍の布が大きく広げられ、一面に銀色の砂つぶが散りばめられていた。ちかちかと瞬く砂つぶのひとつひとつが、広い夜空に壮大な図案を描いている。ところがその図案は、ところどころ灰色の雲に覆われて欠けてしまっていた。
僕と彼女は、縁側に並んで座り、夜空を見上げる。
「だけど今はもうそれもない。それだから今の暦は、この国の文化と合わないのよ。おかしなものよねえ。新月が月の頭に来ないだなんて。七夕の日だって、本当は旧暦の七月七日なのよ。織姫と彦星は、新暦と旧暦どちらが本当の約束の日だか、混乱してしまうでしょうね」
少女はそっと俯いて、ため息まじりに呟いた。
「まあ、暦なんて時代ごとに変わっていくものだけれど……」
このまま忘れられていくのは、少し寂しいかも。
先程までの冴え冴えとした輝きの傍に、切なげな影が差す。
僕はじっと彼女の白い頬を見つめる。
だが、その表情が翳ったのは本当に一瞬のことだった。彼女はすぐに寂しげな微笑を取り払って、涼やかな笑顔を見せる。
「でもね、今日は私の晴れ舞台なの。今日は私のいちばん綺麗な日なのよ。今日だけは、ほんの少し、いつもよりたくさんの人に見上げてもらえるの」
白藍に桔梗の着物を着て、芒の原を背に微笑む彼女は、確かに綺麗だと僕は思った。彼女は僕の頭を撫でて、ほんの少し申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「だから、いつまでもここに居るわけにはいかないのよね」
そうですね。
「そうよ。あのね、だから池に映った私を釣り竿で釣ろうとするのは、もうやめてよね?」
彼女の言葉に、僕はすぐ隣ににゅっと伸びた釣り竿を見やる。縁側の下にうまく根元を引っ掛けた釣り竿は絶妙な弧を描き、その先に続く釣り糸を池の水面に付けていた。
「あたし、本当にびっくりしたんだから。思わずここに降りてきちゃうほど」
すみません。お団子を載せる大きなお皿が見つからないというので。
「だからってあたしはお皿にはなれないわよ。あなた、おかしな子ねえ」
あなたほどじゃありません。
そう言うと、少女はまた先程と同じようなふくれっ面を見せた。
「それじゃあ、あたしはもう行くわね。いつまでも隠れてるわけにいかないわ」
はい。いってらっしゃい。
「ええ、いってきます」
白藍の着物の袖をはためかせて、彼女は急ぎ足に去っていった。少し強い風が吹く。雲が晴れて、辺りが明るくなる。僕は思わず空を見上げた。
「あ、クロ。こんなとこにいたのか」
ふと、後ろから声がかかる。クロというのは僕の名前だ。毛並みが黒いからクロ、なんて実に安直な名付けだが、僕はそれなりに気に入っている。
ご主人は大皿に盛った団子の山を片手に、僕の隣に座った。それからごとん、と大皿を置く。
「皿、あったってさ。なんと蔵に仕舞われてたらしい。母さんが仕舞いっぱなしで忘れてたんだと。いま婆ちゃんとか美沙とかも来るから」
ご主人は呆れた風な顔をしていたが、どこか楽しげである。
何だ、それなら、僕が体を張ってお皿を釣る必要はなかったわけだ。あの人にも悪いことをした。
「うわっ、何で釣り竿がこんなところに? クロ、お前がやったのか?」
そうとも。なかなか上手くできたと思う。
尻尾を揺らしてアピールするが、ご主人は釣り竿の糸を巻くのに忙しく気づいてくれなかった。
無事に釣り竿を片付け終わると、ご主人はまた縁側に座りなおす。僕がその膝の上に乗ると、彼はほとんど反射のようにして頭を撫でてくれた。
彼女と二人で見上げた空を、今度はご主人と二人で見上げる。
おお、と頭上でため息が聞こえた。
「見事な月だなあ」
濃藍の夜空に、散りばめられた銀の砂つぶ。先程との唯一の違いと言えば、雲に隠れて見えなくなっていた図案がすっかり見えるようになっていたことだ。
冴え冴えと光る月が、夜空の真ん中で蒼白く輝いている。
僕はご主人の感嘆に同意するために、ニャアと鳴いた。
追記
とびきり明るくて派手な子→太陽
偉い博士が〜→平安時代の陰陽寮、暦博士のこと。この時代は太陽太陰暦。
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