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鳥、葬式、映画

友人に女の幽霊が憑いたはなし







 彼女が死んだ。

 明るくて優しくて、いつも朗らかに笑っている人だった。白い体に赤いくちばしが鮮やかな文鳥を飼っていて、その鳥をずいぶんと大事にしていた。

 通夜に出て、葬式に出て、焼き場に行って、その他諸々の用事を片付けてから、俺は家に帰った。おかしいと気づいたのはそのときだ。

 いつの間にか、死んだはずの彼女がそばに立っていた。デニム地のスカートに、オフショルダーの白いブラウス。見たことのある服装だった。

 俺は幻覚でも見ているのか?

 そう聞くと、彼女は戸惑い気味に、幻覚ではないと思うけど、と返した。そして少し考えた末にこう付け足した。

 いいえ、幻覚かもしれない。これは、あなたと私の間にだけ存在する夢なのかも。

 そうかもしれない、と俺も頷いた。

 それからの日々は、まるで彼女が生きていた頃をなぞるかのようだった。二人分の食事をテーブルに並べて、二人で並んでベッドに寝た。二人で通学して大学に通い、一緒に講義を聞いてあくびをしたりした。だけど同じにしようとすればするほど、そこには粗が見えて来た。二人分の食事は毎日必ず一食分は余ったし、人前で気軽に話をすることができなくなった。手を繋ぐことすらも。

 それでも一緒にいられて、会話をすることができて、同じ時間を共有できる。それだけで幸せだ。

 そう思っていた。

 だけど二人きりの夢はそう長くは続かなくて、少しずつ欠けていった。

 はじめに声が奪われた。互いの声が聞こえづらくなって、意思の疎通が難しくなった。

 次に姿が奪われた。目を凝らさなければ、彼女がどこにいるのか分からないようになった。

 最後の時が近づいてきている。そう悟った俺たちは、以前に二人で遊びに行った海へ赴いた。最後に彼女との思い出を作りたかった。

 波間に夕日の橙色が揺れて、白い飛沫が砂浜に寄せる。夕日の光に溶けていく彼女をかき抱き、俺は最後のキスをした。

 彼女は最後に何かを言って消えていった。声は聞こえなかったけれど、たぶんあれは——


 *


「という映画を見たんだ」

「……おう。唐突だな」


 スーツのネクタイを緩めながら、長年の友人である永井裕介はちょっと戸惑った顔をした。


「今、あの映画すごい流行ってるから、どんなもんかと思って」

「面白かった?」

「いや、面白いかどうかの話じゃなくて」

「ええ? じゃあ一体なんの話だ」


 俺は一旦口をつぐみ、下を向く。覚悟を決めて、腹に力を込めた。


「……吉成さんは、結構ミーハーだったからさ」


 口の中がすごい勢いで乾いていく。わかっている。俺は今とても緊張している。


「こう……流行に乗って……来るかもなぁ、と」


 おもって、とおまけのように付け足す。

 テーブルを挟んだ向かい側に胡座をかいた裕介が、まばたきをする。

 開けっ放しのベランダの窓から風が吹き込み、薄いカーテンをふわりと揺らした。青い空の下、ベランダの手すりには、白い文鳥がちょこんと座っている。


「もしかして遠回しに慰めてる?」


 あっけらかんとした声に、気まずくなって俯いた。裕介はそんな俺の様子を見て何を思ったのか、慌てたようにこう言った。


「ああ、いいって、いいって。気なんか遣うなよ。由依が亡くなってからもうだいぶ経つしさ、心の整理も……完全にとは言わないけど、ついてきたし」

「ごめん」

「謝んなって」


 違う。それもだけど、違うんだ。

 言いたいのに、喉の奥で言葉が渋滞を起こしている。


「しかし、由依がねえ……確かにあいつそういうの好きそうだけど、そそっかしいとこあるからな。案外もう天国に行っちゃってるかも」


 ちがう。裕介、違うんだ。

 来てるんだよ。

 そろりと目線を上げる。カーテンがふわりと揺れた。「彼女」の髪も、その風に煽られたかのように揺れる。

 白いワンピースに、薄い紫色のカーディガン。彼女と同じ学部だった俺も、何度か見たことがある服装だった。

 葬式に出て、香典を上げて、焼き場には行かずに退席して、それから数日経ってから、俺は裕介と会った。おかしいと気づいたのはそのときだ。

 何かいる。

 危うく持っていたコーヒーの缶を落としそうになった。

 久しぶり、と手を上げる裕介。そしてその後ろには、彼を背後から抱きしめるような格好で空中にただよう女性の姿。


「ゆ、裕介おまえ、憑かれてる」

「疲れてる? ああ、確かに葬儀とか色々立て込んで疲れが抜けてないかも……」

「ち、ちがう! 憑かれてるんだよ!」

「えっ、何……?」


 通じなかった。当然だ。

 吉成さんと目が合うと、彼女は少し意外そうな顔をしたあと、ひらひらと手を振って笑った。

 あの時のことを思い出しながら、じっと裕介の後ろにいる彼女を見つめる。しかし、いつ見てもゼロ距離でいちゃついている。

 複雑な気持ちで吉成由依の幽霊を観察していると、裕介が怪訝そうに首をかしげた。


「なに? 俺の顔じっと見て」

「い、いや、何でも」


 文鳥がベランダの手すりで羽繕いをしている。これから飛び立つための準備だろう。

 裕介が、からかうようにニヤリと笑った。


「それにしてもお前、由依が亡くなってからしょっちゅう俺のとこ来てるよな。なに? 通い妻にでもなんの?」

「あほか……吉成さんに呪い殺されるわ……」

「ははは」


 いや、本当に。笑い事じゃない。

 こちらをじっと睨みつけてくる吉成さんから、俺は無言で目を逸らした。

 彼女は変わらず、裕介の近くをふわふわと漂っている。彼女は裕介の方を向いて、ぱくぱくと口を動かしていた。身振りや手振り、表情で、懸命に何かを伝えようとしているのが見て取れる。その姿が見える俺にも、声までは聞き取れない。だが、裕介は。


「由依は呪い殺したりしないよ。優しい子だから」


 裕介は、聞こえていない。見えてすらいない。

 穏やかに笑っている彼を見て、吉成さんは切なげに微笑んでいた。

 吉成由依は、一ヶ月と少し前に肺がんで亡くなった。裕介と同じ大学に通っていた、彼の恋人だ。

 がん細胞の発見が遅れ、病名が分かったときには、事実上完治は不可能になっていた。

 裕介は、由依が肺がんだと判明し、緊急入院したときにはひどく動揺し、泣き咽び、今にも死んでしまいそうな様子だった。だけど言い換えれば、彼が涙を見せたのはそのときだけだった。病室での裕介は明るく笑顔で、甲斐甲斐しく由依の世話を焼き、何でもない顔で彼女と談笑していた。

 だけどそんな光景はそう長くは続かなくて、少しずつ欠けていった。

 はじめに声が奪われた。

 吉成さんは喋ることも満足にできなくなり、食事は点滴に頼るようになった。

 次に体の自由が奪われた。

 彼女は一日の大部分を昏睡状態で過ごし、自力で起き上がることもできなくなった。

 彼女が集中治療室に入って何本ものチューブに繋がれて、目を覚まさなくなっても、裕介はずっとそばについていた。もうこちらの声なんて届いていないかもしれないのに、眠る彼女にずっと話しかけ続けていた。

 今はまるきり、立場が逆だ。

 病室での彼らと、この部屋での彼ら。鏡合わせの二つの光景が重なり合う。

 何で俺なんだ、と拳を握る。

 こういうのは、彼氏が見えるようになるのが普通なんじゃないか。それがお約束じゃないか。どうして俺は分かるのに、裕介は分からないんだ。

 これまで何度も伝えようとした。吉成さんは今でも裕介のそばにいると。吉成さんが亡くなってから、裕介の元に足繁く通ったのはそのためだ。

 だけど俺は。俺は意気地なしだった。

 どうやっても信じてもらえる気がしなくて、逆に彼を傷つけてしまいそうで、言えなかった。


「ありがとうな」

「え」

「俺のこと、ずいぶん心配してくれていただろう。どこぞの映画の主人公みたいに廃人になる予定はないから、まあ安心してくれ」


 吉成さんが裕介に話しかけている。裕介は吉成さんを見ない。彼女はやるせなさそうに表情を歪めて、裕介の頬に自分の頬をすり寄せた。透明な涙が伝う。また何かを話しかけている。やっぱり裕介は気づかない。彼女は裕介の正面から彼の顔を覗き込み、細い腕で彼を抱きしめた。

 彼らの、たぶんこの世で一番美しい触れ合いを、俺だけが見ていた。


「……裕介」


 ベランダの手すりに止まっていた文鳥が、小さな羽音を立てて飛び立った。


「四十九日法要、お疲れ様」


 俺はみすみす、ラストチャンスを逃した。

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