49
鳥、葬式、映画
友人に女の幽霊が憑いたはなし
彼女が死んだ。
明るくて優しくて、いつも朗らかに笑っている人だった。白い体に赤いくちばしが鮮やかな文鳥を飼っていて、その鳥をずいぶんと大事にしていた。
通夜に出て、葬式に出て、焼き場に行って、その他諸々の用事を片付けてから、俺は家に帰った。おかしいと気づいたのはそのときだ。
いつの間にか、死んだはずの彼女がそばに立っていた。デニム地のスカートに、オフショルダーの白いブラウス。見たことのある服装だった。
俺は幻覚でも見ているのか?
そう聞くと、彼女は戸惑い気味に、幻覚ではないと思うけど、と返した。そして少し考えた末にこう付け足した。
いいえ、幻覚かもしれない。これは、あなたと私の間にだけ存在する夢なのかも。
そうかもしれない、と俺も頷いた。
それからの日々は、まるで彼女が生きていた頃をなぞるかのようだった。二人分の食事をテーブルに並べて、二人で並んでベッドに寝た。二人で通学して大学に通い、一緒に講義を聞いてあくびをしたりした。だけど同じにしようとすればするほど、そこには粗が見えて来た。二人分の食事は毎日必ず一食分は余ったし、人前で気軽に話をすることができなくなった。手を繋ぐことすらも。
それでも一緒にいられて、会話をすることができて、同じ時間を共有できる。それだけで幸せだ。
そう思っていた。
だけど二人きりの夢はそう長くは続かなくて、少しずつ欠けていった。
はじめに声が奪われた。互いの声が聞こえづらくなって、意思の疎通が難しくなった。
次に姿が奪われた。目を凝らさなければ、彼女がどこにいるのか分からないようになった。
最後の時が近づいてきている。そう悟った俺たちは、以前に二人で遊びに行った海へ赴いた。最後に彼女との思い出を作りたかった。
波間に夕日の橙色が揺れて、白い飛沫が砂浜に寄せる。夕日の光に溶けていく彼女をかき抱き、俺は最後のキスをした。
彼女は最後に何かを言って消えていった。声は聞こえなかったけれど、たぶんあれは——
*
「という映画を見たんだ」
「……おう。唐突だな」
スーツのネクタイを緩めながら、長年の友人である永井裕介はちょっと戸惑った顔をした。
「今、あの映画すごい流行ってるから、どんなもんかと思って」
「面白かった?」
「いや、面白いかどうかの話じゃなくて」
「ええ? じゃあ一体なんの話だ」
俺は一旦口をつぐみ、下を向く。覚悟を決めて、腹に力を込めた。
「……吉成さんは、結構ミーハーだったからさ」
口の中がすごい勢いで乾いていく。わかっている。俺は今とても緊張している。
「こう……流行に乗って……来るかもなぁ、と」
おもって、とおまけのように付け足す。
テーブルを挟んだ向かい側に胡座をかいた裕介が、まばたきをする。
開けっ放しのベランダの窓から風が吹き込み、薄いカーテンをふわりと揺らした。青い空の下、ベランダの手すりには、白い文鳥がちょこんと座っている。
「もしかして遠回しに慰めてる?」
あっけらかんとした声に、気まずくなって俯いた。裕介はそんな俺の様子を見て何を思ったのか、慌てたようにこう言った。
「ああ、いいって、いいって。気なんか遣うなよ。由依が亡くなってからもうだいぶ経つしさ、心の整理も……完全にとは言わないけど、ついてきたし」
「ごめん」
「謝んなって」
違う。それもだけど、違うんだ。
言いたいのに、喉の奥で言葉が渋滞を起こしている。
「しかし、由依がねえ……確かにあいつそういうの好きそうだけど、そそっかしいとこあるからな。案外もう天国に行っちゃってるかも」
ちがう。裕介、違うんだ。
来てるんだよ。
そろりと目線を上げる。カーテンがふわりと揺れた。「彼女」の髪も、その風に煽られたかのように揺れる。
白いワンピースに、薄い紫色のカーディガン。彼女と同じ学部だった俺も、何度か見たことがある服装だった。
葬式に出て、香典を上げて、焼き場には行かずに退席して、それから数日経ってから、俺は裕介と会った。おかしいと気づいたのはそのときだ。
何かいる。
危うく持っていたコーヒーの缶を落としそうになった。
久しぶり、と手を上げる裕介。そしてその後ろには、彼を背後から抱きしめるような格好で空中にただよう女性の姿。
「ゆ、裕介おまえ、憑かれてる」
「疲れてる? ああ、確かに葬儀とか色々立て込んで疲れが抜けてないかも……」
「ち、ちがう! 憑かれてるんだよ!」
「えっ、何……?」
通じなかった。当然だ。
吉成さんと目が合うと、彼女は少し意外そうな顔をしたあと、ひらひらと手を振って笑った。
あの時のことを思い出しながら、じっと裕介の後ろにいる彼女を見つめる。しかし、いつ見てもゼロ距離でいちゃついている。
複雑な気持ちで吉成由依の幽霊を観察していると、裕介が怪訝そうに首をかしげた。
「なに? 俺の顔じっと見て」
「い、いや、何でも」
文鳥がベランダの手すりで羽繕いをしている。これから飛び立つための準備だろう。
裕介が、からかうようにニヤリと笑った。
「それにしてもお前、由依が亡くなってからしょっちゅう俺のとこ来てるよな。なに? 通い妻にでもなんの?」
「あほか……吉成さんに呪い殺されるわ……」
「ははは」
いや、本当に。笑い事じゃない。
こちらをじっと睨みつけてくる吉成さんから、俺は無言で目を逸らした。
彼女は変わらず、裕介の近くをふわふわと漂っている。彼女は裕介の方を向いて、ぱくぱくと口を動かしていた。身振りや手振り、表情で、懸命に何かを伝えようとしているのが見て取れる。その姿が見える俺にも、声までは聞き取れない。だが、裕介は。
「由依は呪い殺したりしないよ。優しい子だから」
裕介は、聞こえていない。見えてすらいない。
穏やかに笑っている彼を見て、吉成さんは切なげに微笑んでいた。
吉成由依は、一ヶ月と少し前に肺がんで亡くなった。裕介と同じ大学に通っていた、彼の恋人だ。
がん細胞の発見が遅れ、病名が分かったときには、事実上完治は不可能になっていた。
裕介は、由依が肺がんだと判明し、緊急入院したときにはひどく動揺し、泣き咽び、今にも死んでしまいそうな様子だった。だけど言い換えれば、彼が涙を見せたのはそのときだけだった。病室での裕介は明るく笑顔で、甲斐甲斐しく由依の世話を焼き、何でもない顔で彼女と談笑していた。
だけどそんな光景はそう長くは続かなくて、少しずつ欠けていった。
はじめに声が奪われた。
吉成さんは喋ることも満足にできなくなり、食事は点滴に頼るようになった。
次に体の自由が奪われた。
彼女は一日の大部分を昏睡状態で過ごし、自力で起き上がることもできなくなった。
彼女が集中治療室に入って何本ものチューブに繋がれて、目を覚まさなくなっても、裕介はずっとそばについていた。もうこちらの声なんて届いていないかもしれないのに、眠る彼女にずっと話しかけ続けていた。
今はまるきり、立場が逆だ。
病室での彼らと、この部屋での彼ら。鏡合わせの二つの光景が重なり合う。
何で俺なんだ、と拳を握る。
こういうのは、彼氏が見えるようになるのが普通なんじゃないか。それがお約束じゃないか。どうして俺は分かるのに、裕介は分からないんだ。
これまで何度も伝えようとした。吉成さんは今でも裕介のそばにいると。吉成さんが亡くなってから、裕介の元に足繁く通ったのはそのためだ。
だけど俺は。俺は意気地なしだった。
どうやっても信じてもらえる気がしなくて、逆に彼を傷つけてしまいそうで、言えなかった。
「ありがとうな」
「え」
「俺のこと、ずいぶん心配してくれていただろう。どこぞの映画の主人公みたいに廃人になる予定はないから、まあ安心してくれ」
吉成さんが裕介に話しかけている。裕介は吉成さんを見ない。彼女はやるせなさそうに表情を歪めて、裕介の頬に自分の頬をすり寄せた。透明な涙が伝う。また何かを話しかけている。やっぱり裕介は気づかない。彼女は裕介の正面から彼の顔を覗き込み、細い腕で彼を抱きしめた。
彼らの、たぶんこの世で一番美しい触れ合いを、俺だけが見ていた。
「……裕介」
ベランダの手すりに止まっていた文鳥が、小さな羽音を立てて飛び立った。
「四十九日法要、お疲れ様」
俺はみすみす、ラストチャンスを逃した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます