魔法図書館
かご、鷲、魔法
本が鳥に変わる魔法図書館で司書に出会うはなし
閉じていた目を開くと、そこは大きな図書館だった。アリッサは自分の身長の何倍もある背の高い本棚を見上げ、そこに並ぶ蔵書の数にぽかんと口を開ける。
いつの間にこんなところに来たのだろう。前後の記憶がさっぱりなかった。
ひとり混乱していると、背後から誰かに話しかけられた。
「おねーさん、何をお探し?」
振り返ると、十二、三歳の少年が長い杖を片手に立っていた。
「えっと……」
アリッサは戸惑って言い淀む。
「私、特に探しているものはないのだけど……」
「そんなはずないよ。ここへ来たってことは探している本があるはずだよ」
アリッサはもう一度ゆっくり考えてみた。探している本、探している本……そして、あっと声を上げる。
「百科事典……百科事典ってあるかしら?」
アリッサが尋ねると、少年はむっとしたように眉根を寄せた。
「勿論、あるとも。ここは魔法図書館。ありとあらゆる国の書物が集う場所。ここにないのはこの世界に存在しない本だけさ」
それなのに、百科事典の一冊も置いていないなんて思われるのは心外だ。少年は言外にそう言っていた。
アリッサが小さく「ごめんなさい」と謝ると、少年はいくぶん溜飲が下がったような顔をして、手に持っていた長い杖でトン、と床を一回叩いた。
「ついておいでよ。百科事典のある棚はこちらだよ」
言われるまま、アリッサは少年の後をついて行く。彼が着ている鮮やかな赤色のローブが翻った。その姿は、手に持っている杖とあいまって、まるで魔法使いのよう。
アリッサは少年から視線を移して、周りの様子を伺ってみた。古い紙の匂いがする。壁に張り付くようにして背の高い本棚がいくつも並んでおり、その一つ一つに所狭しと本が詰め込まれている。反対にフロアの中央に並んでいるのは、それよりも背の低い本棚たち。せいぜいアリッサの背丈くらいしかなかった。
ふと、視界の端で何かが動く。何だろうと思ったアリッサは、次の瞬間には小さく悲鳴をあげた。本の隙間から何か小さなものが覗いている!
それは本の間からもぞもぞと這い出すと、ああ窮屈だったというように、大きく羽を広げた。本の隙間にいたのは、小さな鳥だったのだ。
驚き呆れているアリッサの耳に、今度は高い歌声が届いた。今度はなんなの、と思って顔を上げると、近くの棚に白と黒の小鳥が並んで綺麗な声で鳴いていた。
今度こそ言葉を失ったアリッサを振り返って、少年は面白そうに笑う。
「そこらで歌ってるクロウタドリとシマエナガは詩集だよ。バイロンの詩を歌ってるだろ」
それを聞いて、アリッサも気づく。白と黒の小鳥は、ただ鳴いているわけではない。人間の言葉で詩を詠じている。
「あら……本当」
「ここら辺は詩集が並ぶ棚だからね……おや、珍しい」
少年は壁際の本棚を指して言った。
「おねーさん、見て。ウグイスが歌ってる」
「ウグイス?」
「茶色の羽根の小さな鳥だよ。あれは引っ込み思案だから、いつもはなかなか姿を見せないんだけど」
「まあ、本当。でも何を歌っているのか……聞き取れないわ。異国の詩かしら」
「東洋の詩だよ。『夢と知りせば、覚めざらましを』。恋の歌を歌ってる」
「わかるの?」
「まあ、何度も聞かされていれば自ずとね……おい、君らちょっと煩いよ。お客が来たからって張り切りすぎ。そろそろ棚に戻らないと羽を毟るよ」
今度はホメロスの叙事詩の冒頭を歌い出した鳥たちを、少年はぴしゃりと叱って黙らせた。鳥たちはすごすごと羽をたたみ、本の形に姿を変えて棚の中へ戻って行く。
気づけば、図書館の中は飛び交い、鳴き交わす鳥たちで溢れていた。今しもアリッサたちの頭上を大きな白鳥が飛び越えて行く。
あの鳥たちが全部書物なのかしら。なんて不思議な図書館なんでしょう。
アリッサは思った。
少年はかしましく歌う鳥たちを気にした様子もなく歩いてゆく。
その姿は見た目の年齢に不相応なほど落ち着いていて、アリッサを安心させた。この図書館の不思議な雰囲気も、アリッサの気を緩めるのに一役買ったかもしれない。とにかく彼女は、勇気を出して少年に話しかけた。
「ねえ、小さな司書さん。私の話を聞いてくださる?」
「正確には僕は司書じゃないんだけど……まあ、いいよ。何だい」
先を歩く少年はちらりと振り向き、話の続きを促す。いかにも興味のなさそうな反応は、アリッサをがっかりさせはしなかった。むしろ程よく肩の力が抜けた。
「私ね、この春に結婚するの」
「そりゃあおめでとう。で、どこの誰と結婚するの」
「伯爵家の次男坊だという人よ」
「その人はどんな人? ハンサム?」
「いいえ、知らないわ。会ったことないもの」
「ええ? 会ったこともない男と一緒になるだなんて、人間はずいぶん奇妙なことをするんだね。鳥だって獣だって、意中の相手を射止めるときには直接会ってアプローチをするよ」
ほら、あそこで立派な羽を広げて求愛しているクジャクがいる、と少年は棚の向こうを指差して言う。アリッサは少しおかしくなって、くすりと笑った。
「そうね……でも私たちは会ったことも話したこともない人と結婚するのが普通なのよ。私の母も、祖母もそうだったわ」
「ふうん」
納得していなさそうな声だ。少年は振り向かずに歩き続け、アリッサもまた話を続けた。
「私ね、百科事典を読むのが大好きだったの。私の知らないことがいっぱい書いてあって、ページを捲るたびに新しい発見があって」
「それは少し分かるよ。楽しいよね、図鑑や百科事典なんかを眺めるのはさ」
「そうでしょう……だけどお父様は、女に学などいらないと仰って……私は書斎への出入りを禁じられて、お裁縫やピアノのお稽古に追われるようになってしまった。百科事典を開く機会もなくなったわ」
話していると感傷的な気分になってきて、アリッサはそっとため息をついた。
「もうすぐ結婚するという時だからかしらね……百科事典のページを捲っていた頃が急に懐かしくなって、もう一度読みたくなったの。だから父の書斎に忍び込んで百科事典を探したのだけど……」
「見つからなかったんだね」
「そうなの。あそこにないということは、売ってしまったか、捨ててしまったかしたのね」
もう一度ため息をついたアリッサを、少年はくるりと振り返った。
「そんなに落ち込むことはないよ。ここは魔法図書館。ありとあらゆる国の書物が集う場所。君の探し物もきっとここにあるさ」
いささか不器用ではあったが、どうやら少年はアリッサを慰めようとしているようだった。アリッサは微笑み、ありがとうとお礼を言う。
そのとき、彼女はふと気になるものを見つけた。
「ねえ、司書さん。あれは何?」
「あれ?」
「ほら、向こうにあるあれよ。鳥カゴの中に本が入っているなんて、ずいぶん変ねえ」
本棚の中に埋もれるようにして、大きな机が置いてある。その机には紙の束や背表紙の削れた本がぐちゃぐちゃと積まれており、インクの瓶や羽ペンもその中に埋もれていた。その机のそばに、大小様々な鳥かごが天井から吊るされている。鳥かごの中には、何故か一冊ずつ本が置いてあった。
呑気に笑っているアリッサの横で、少年は顔をしかめた。
「あれは牢獄」
「え?」
「悪さをした本から魔法の力を奪って、閉じ込めておくためのかごだよ。あれに閉じ込められた本はもう飛べない」
「悪さって……本が悪さをするの?」
「するさ。凶暴な本だってこの図書館には山ほど……」
少年が言い終える前に、アリッサの頭上に大きな影が射した。
「おねーさん、危ない!」
「えっ」
警告も虚しく、無防備だったアリッサに大きな黒い鳥が襲いかかった。痛い痛いと悲鳴を上げるアリッサの髪を引っ張り、頭をつつき、黒い鳥は彼女の髪飾りをむしり取ってそのまま飛び去った。
「おねーさん、大丈夫?」
少年が慌てて駆け寄り、アリッサの頭についた黒い羽を払う。
「ごめん。近頃あいつ、ムシャクシャしてるみたいなんだ。すぐ行って捕まえるから——」
「……い」
「え?」
ぶるぶると震えているアリッサを見て、少年は彼女が怯えていると思ったらしい。慰めるための言葉を言いかけた彼の耳を、アリッサの叫び声が叩いた。
「待ちなさい! 私の髪飾りを返すのよ!」
彼の言葉を皆まで聞く前に、アリッサは黒い鳥を追いかけて走り出した。「えっ、ちょっとおねーさん!?」という少年の叫びを背中で聞きながら、黒い鳥を追いかけて走る。
アリッサは怒っていた。頭をつつかれて、髪を引っ張られて、お気に入りの髪飾りを取られたのだ。彼女は怒りのままに鳥を追いかけ、二階へ続く階段を一段飛ばしで駆け上がった。こんなお行儀の悪いことは、生まれてこの方したことがない。だけど一度はやってみたかったことだ。アリッサはスカートが翻って膝小僧が見えるのも、髪が乱れるのも一切気にせずに図書館の中を走り回った。
そして飛び込むようにして黒い鳥にタックルし、とうとう捕まえた。
黒い鳥は暴れる。アリッサは力任せにそれを押さえる。そうして格闘していると、タン! と高い音がして、鳥の動きが大人しくなった。
後から追いついてきた少年が、杖で床を叩いた音だった。
「全く、焦ったよ。急に走り出さないでよ」
「ごめんなさい」
身体中を羽まみれにしたアリッサは、いくぶんしゅんとして謝る。確かにアリッサは、一人で突っ走りすぎた。
少年はため息をつき、アリッサのそばにしゃがみこむ。
「こいつはカゴ行きだね。いつもいつも問題ばかり起こして、僕の手に負えないよ」
アリッサの腕の中にいる鳥が、ぎくりとした様子で羽をばたつかせた。アリッサも慌てて叫ぶ。
「待って、待って!」
「なにさ」
「この子を私にくださらない?」
「ええ?」
「だってこの子、百科事典でしょう?」
黒い大きな鳥は鷲だった。羽や体が真っ黒なだけに、尾羽と頭の白さはすっきりと際立って見える。大きく、立派な鷲だ。そしてその鷲の腹には、目立たないが金色の字で「encyclopaedia」と刻印されていた。
少年は、ぐっと眉間に皺を寄せる。
「確かにそれは百科事典だけど……本当にそれが欲しいの? 君の大事な髪飾りを盗んでいったような本だけど。それに古くてボロボロ。持って行くならもっと状態が良くて扱いやすいのがいっぱいいるよ」
「いいえ、これがいいわ。これ、父の書斎に昔あった百科事典と同じなの。それも、私が一番好きな巻よ」
それにね、とアリッサは意気込んで言った。
「私、楽しかったの。あんなになりふり構わず走ったのは久しぶりよ。子どもの頃に戻ったみたいだったわ。もうこの子が好きになっちゃった」
「……本当にそいつでいいの?」
「この子がいいわ」
にっこり笑って鷲を抱きしめたアリッサを見て、少年も仕方なさそうに笑った。
大鷲はアリッサの腕の中で、済まなそうに頭を垂れている。少年はそんな鷲の頭を杖の先で軽く叩き、静かに呪文を唱えた。
「レディーレ・アド・プリームス」
彼が唱えると、鷲はするすると本の形に戻っていく。黒い羽根は革の表紙になり、きりりとした目は表紙の中央に描かれた紋様になった。
アリッサは少年と連れ立って一階に戻り、周囲に鳥かごが吊り下げられたあの机の前にやってきた。どうやらここは彼の机だったらしい。少年は紙と本の山からひときわ分厚い書物を取り出すと、トントンと表紙を叩いた。すると分厚い本のページがひとりでに捲られていき、やがてあるページで止まる。少年はその中から一つの書名を探し出し(おそらくアリッサの持っている百科事典だ)、その横に赤いインクで「On loan」と書き記した。
これで貸し出し手続きは完了したらしい。少年は「出口まで送るよ」と言って椅子から腰を上げた。この図書館の構造をよく分かっていなかったアリッサにとって、その申し出はありがたいものだった。
「だけど、また大鷲になって暴れたりしたらどうしようかしら」
出口に向かう途中、不安そうに呟いたアリッサを、少年は明るく笑い飛ばす。
「それはないよ。この図書館の外でそんなこと出来るほどの力は、この本にはない」
「そうなの? なら安心だけど……」
安堵のため息をついて、彼女はある重要なことに気づいた。
「そういえば、返却期限はいつかしら」
「そんなものないよ。君がその本を必要としなくなったら、もしくは本が帰りたくなったら、勝手にこの図書館に帰ってくるだろうさ」
「あら、そうなの? それはまた……不思議ね。この図書館は不思議なことばかり」
「ここに来た人はみんなそう言う。ほら、出口が見えてきたよ」
少年が指差した方向に、素朴な木の扉があった。本棚の壮大さと比べると、やけに質素で地味な扉である。知っていなければ見落としてしまいそうだった。
アリッサは扉に手をかけようとしたが、ふと思いついて振り返る。
「ねえ、直接返しに来てはいけない?」
「いけないことはないけれど……」
「では、また来るわ。今度はお土産にお菓子でも持って来ます。今日はありがとう、小さな司書さん。さようなら」
「……さようなら」
扉が開かれ、つかの間外の風が流れ込んでくる。扉はアリッサの後ろ姿を呑み込み、ぱたんと閉まった。
「……いけないことはないけれど」
アリッサがいた頃とは打って変わって静まり返った図書館の中で、少年はひとり呟く。
「また来れるものならね」
彼の声に重ねるように、細い歌声が響く。
『夢と知りせば、覚めざらましを』
茶色の羽根の鳥が、透きとおった声で東方の詩を詠じていた。
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