マリアの左手

向日葵、ピアノ、花瓶

停滞した時間の中で傷を舐め合う幼馴染みののはなし







 美しく、鮮烈で、そして横暴な僕のマリア。僕の持てるすべてを君に捧ぐ。


 *


 いつか二人でピアノアンサンブルをりましょう。

 一面に広がる向日葵畑の真ん中で、彼女は笑っていた。

 幼い日の約束はすでに遠く、今の僕たちは伊豆の別荘で十七歳の夏を迎えていた。別荘は彼女の家の持ち物で、本来なら僕が来られる場所ではない。僕と彼女はいわゆる幼馴染というやつで、そのよしみで出入りを許されているのだ。幼い頃から、何故か彼女は僕をことさらに気に入っていた。のろまとか気持ち悪いとか頭の足りない馬鹿だとか、散々僕を罵倒しながら、その左手はいつだって僕の右手を引っ張って彼女の行くところ行くところへ引きずっていった。

 だけど、今の彼女は少し違う。何処へでも僕を伴うのは変わっていないけれど、苛烈な性格はすっかりなりをひそめて、今はすっかり「普通の可愛い女の子」になっていた。


 *


 食堂の長テーブルは、僕とマリアの二人で使うには明らかに大きすぎた。その日の朝も僕らはテーブルの一角に座って、静かに朝食を取っていた。

 そんなとき、マリアが遠くにある皿を引き寄せようとして、あやまってコップを倒した。コップはぐらりと揺れて机から落ち、ぱりんと割れる。

 マリアは慌てて椅子から降り、床にしゃがみ込んだ。僕も割れたコップに駆け寄る。


「マリア、僕が片付けるよ」

「でも、私が割ってしまったのに」

「破片に触ると危ないから」

「それじゃあ一緒に片付けましょう」


 私、あまり役に立たないかもしれないけど。寂しそうに微笑んで言うマリアを見て、僕は何も言えずに俯く。


「それじゃあ、マリアはほうきと塵取りを持って来てくれる?階段の下の物置にあるはずだから」

「わかったわ」


 マリアは元気よく頷いて、白いワンピースの裾をはためかせながら廊下へ出て行った。一人きりの食堂で、僕はガラスの破片に指で触れる。


「割れた花瓶の片付けなんて、人を呼んでやらせれば良いじゃない」


 マリアがまだ苛烈で横暴な女の子だった頃、花瓶を倒した僕を睨んで彼女はそう言った。


「でも僕が割ってしまったわけだし」

「破片で指を切ったらどうするの」


 マリアは僕に詰め寄り、僕の目の前に人差し指を突きつけた。


「いい? あんたはピアニストなの。ピアニストの指は魂そのものなのよ」


 わかったらそんなものに触るんじゃないと言わんばかりに、彼女は一文字に唇を引き結んで僕を睨め付けていた。


 *


 食事を終えたら、向日葵畑で散歩をする。まばゆい太陽の色に埋もれて歩くのを、マリアはとても気に入っていた。


「総一郎」

「うん」

「ねえ、総一郎」

「うん、なに?」


 僕より少し先を歩いていた少女は、大げさな動作で振り返って、笑った。


「きれいね」


 その無邪気な笑顔が、光にかすむ。

 こんなときに思い出すのは、やはりマリアのことだった。


「へらへら笑ってるんじゃないわよ」


 目の前で笑う少女と同じ顔で、ただしその顔に笑顔ではなく仏頂面を張り付けて、マリアは僕にそう言った。


「私たち、ライバルなのよ」


 別荘の長く冷えきった廊下で、彼女は僕を睨みつけた。少し前にあったコンクールで、僕がマリアより一つ上の賞を獲った。そのときから、彼女の僕への当たりはいっそうきつくなった。元々がそれほど柔らかかったわけでもなかったのに、もっと酷くなったのだ。僕はマリアに睨みつけられるたび、苦い気持ちを味わっていた。その目といったら、まるで親の仇を睨むかのようなのだ。

 二人でピアノアンサンブルを演ろうと笑った彼女は、そこにはいなかった。その夢は、もう叶いそうになかった。

 そして程なくしてそれは、”叶いそうにない夢”から”絶対に叶わない夢”になったのだ。

 コンクールの出番前に控え室で座っていると、同じ門下の生徒が血相を変えて飛び込んできた。僕は膝の上で無意識に仮想の鍵盤を叩いていた。曲目は勿論、この後に審査員の前で弾くだろうものだ。


「マリアが」


 そしてそのコンクールには、当然のように関口まりあもエントリーしていたのだった。


「マリアが、事故に遭ったって」


 雨の日だった。

 道が悪く、視界も効かない日だった。時間に遅れ気味だったマリアは、強いて運転手を急がせたのだ。焦った運転手はハンドル操作を誤って対向車と衝突した。助手席に座っていたマリアはその衝撃をもろに受け、意識不明の重体に陥ったのだ。

 程なくして意識レベルが回復したのは、幸せだったのか不幸せだったのか。恐らく不幸せの方だろう。意識が戻った途端、マリアは絶叫した。


「何処に行ったの」


 右手で顔を覆い、彼女はあらん限りの声で叫んだ。体に繋がったチューブを振りほどき、点滴を倒して、長い髪を振り乱しながら叫んだ。


「私の手は何処に行ったの。私の左手は何処なのよ」


 残った右手で顔を覆い、髪を掻き毟り、彼女はそこに居合わせた僕の胸ぐらを掴み上げた。左手はなかった。そこにぽっかりと空いた空白を見て、言葉を失う。彼女は事故で左手を失っていた。

 血走った目を見開いて、唾を散らしながら、彼女は僕に殴りかかった。


「かえしてよッ!」


 一通り僕を痛めつけ、喚き散らし、一晩過ぎたあと、彼女は記憶障害を患っていた。美しく鮮烈で横暴なマリアは何処かに姿を消し、無垢で純粋な少女が残った。それは、あの日「二人でピアノアンサンブルを演ろう」と言ったマリアに他ならなかった。

 左手を失ってから、彼女は以前より自然体になったように思う。楽譜に埋もれ、昼夜問わずピアノに齧り付くマリアは、とっくのとうに壊れかけていたような気もする。

 マリアの左手は、今はもう何処にあるのだかわからない。

 ひまわり畑の真ん中で、無邪気に笑うマリアを見るたび、別荘に置いてあるスタインウェイのグランドピアノに見向きもしないマリアを見るたび、僕は思う。

 このまま二人で淡い夢に溺れるのもいい。

 向日葵の花に埋もれながら、そっと呟いた。


 *


 だけど、そんなことは無理なのだと、僕もマリアもとっくの昔にわかっていたみたいだった。

 一度走り出したメロディは止められない。フィナーレに辿り着くまでは終わらない。そして僕とマリアの奏でるメロディは、終わりを迎えていたわけでは決してなかった。

 マリアが眠りについた後、ピアノの蓋を開けてその前に座るのが僕の日課となっていた。大きな窓から月明かりが差し込み、鍵盤を白く輝かせる。僕はその上に手を置き——そして、再び手を下ろす。

 弾けるわけがない。マリアのいるこの家で、たとえ一音でも弾けるわけが——


「弾かないの?」


 背筋が粟立つ。ぎこちない動作で、声のした方を振り返った。

 だって、そんなはずはない。動揺のさなかで、自分に言い聞かせる。彼女はもう居ないはずなのだ。美しく鮮烈で横暴なマリアは、夏の大雨にまぎれて何処かへ行ってしまった。

 だが、月明かりの中に立つその少女は、間違いなく”あの”マリアだった。瞬きの仕方、視線の動き、足の運び方。そのどれを取っても、間違えようがない。


「ばかね、総一郎。楽譜をど忘れしちゃったの?」


 どくん、どくん、と心臓が脈打つ。背中に汗が伝う。マリアがこちらへやって来る。


「忘れちゃったのなら、思い出させてあげる」


 静謐な闇を湛えた夜の底で、彼女は不敵に笑っていた。

 その白く美しい右手が、鍵盤の上に置かれる。かと思えば、美しいメロディが夜の闇にこぼれ落ちて波紋を描いた。さながら、夏の夜空に輝く星のよう。相当なブランクがあるはずなのに、マリアの右手はそんなことをちっとも感じさせないなめらかな動きを見せていた。

 彼女の目がこちらを見る。

 ——さあ、弾きなさいよ。

 その目が無言の命令を僕に与えている。冷たい汗が頬を伝った。体が鉛のように重い。

 マリアの左手は何処に行ってしまったんだろうと、何度も何度も考えた。あの白い美しい手は何処に行ってしまったんだろうと。

 ああ、なんだ。ここにあるじゃないか。

 そうして僕はゆっくりと、白い鍵盤へ手を伸ばす。







追記

「マリアの左手」は「(マリアの左手の代わりに伴奏を弾く)総一郎の左手」であり、失われてしまった「美しく鮮烈で横暴なマリア」。

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