星の羅針盤

コンパス、ベランダ、塩

スターコンパスで星の海を渡るはなし







「スターコンパスって知ってるか」


 帰り道、星が輝く夜空を見上げていたら、ずっと昔に兄が話していたことを思い出した。


「知らない。何それ」

「大昔の航海術だよ。今みたいにGPSも、海図もなかった頃の話。星を頼りに方位を割り出すんだ」

「何それ。そんなこと本当にできんの」

「できるさ。1980年、ナイノア・トンプソンがこの航海術によってハワイ・タヒチ間の往復航海を実現させている。現実的に可能なことなんだ」


 兄は目を輝かせて熱弁していたが、俺の感想は「ふうん、そうなんだ」程度のものだった。いつも冷めていて淡白な性格の俺とは反対に、兄は何に対しても全力で挑む情熱的な男だった。俺の分の情熱は全部この人に持っていかれたのだろうと考えても全くもって不自然でないほどに。


「星と一緒に海を渡るなんて、ロマンチックじゃないか」


 夕涼みに出た夜のベランダ。隣には瞳に熱を宿した兄が立ち、西の空には宵の明星が輝いていた。

 何故だか俺は、その光景を生涯忘れることができなかった。

 数年後、兄はインドネシアだかオーストラリアだかの友人と一緒に旅に出た。何でも友人の持つ船で海を渡るのだとか。さすがにいつか話していたようなヘンテコな航海術は採用せず、船にはきちんとGPS機能もついているらしい。

 本当に自由な人である。

 旅に出たきり、兄はとんと姿を見せなくなった。たまに帰ってきては妙な土産物を置いて、また嵐のように去っていく。その繰り返しだった。

 兄の訪れがふつりと途絶えたのは、それから更に数年後のこと。はっきりと彼の訃報を知るには、また数年の月日が必要だった。

 兄の通夜を終えて帰る途中、晴れた夜空を見上げた。スターコンパスの話を思い出し、兄という人を思い出した。

 今となってはすべて、あの星々のように遠くかなたにある出来事だ。

 社宅に帰ると、小皿に盛られた塩が玄関先に置かれていた。ありがたい気遣いに心の中で手を合わせ、塩を体に振り掛ける。


「お帰りなさい」


 居間に入ると、妻がソファに座って本を読んでいた。


「美帆は?」

「もう寝てるよ。ごめんね、あの子がグズらなかったら私もお通夜に行きたかったんだけど……」

「いいよ。ほとんど身内で話して食事しただけだから」


 そう、と妻は曖昧に微笑んで本を閉じた。


「積もる話もあったでしょうね」

「いや、どうだろう。あの人ここ十年くらいはまともに顔を見せなかったから、居なくなったという実感が薄い」

「ご友人と船旅に出ていらしたんだっけ」

「ああ。帰ってくるのも一年に一度くらいだったから、正直またその内にひょっこり現れるんじゃないかと——」


 言いさして、途中で言葉を止めた。

 思っていたよりも感傷に浸っていたらしい。俺は兄の遺体まで見た。ひょっこり現れるなんて、そんなことは二度とないのだとよく分かっている。

 何か言おうとした妻を遮るようにして、背を向けた。


「少し風に当たってくる」


 今まで外にいたくせに、わざわざまた風に当たりにいくなど、下手くそな口実だ。だが妻は何も言わないでいてくれた。

 ベランダに出て、ひとり煙草をふかす。見上げると空には相変わらず星が輝いていた。

 あの人と、最後に会ったのはいつだったろう。

 記憶の箱をひっくり返して無数に散らばる過去を探る。幸いにして、目的の一場面を見つけ出すのにそう時間はかからなかった。

 最後に会ったのはあの人がヤシの実を土産に持ってきた時だ。ハワイへ行って帰ってきたのだという。その日はたまたま俺が実家に帰っていた代わりに、父も母も出かけていていなかった。兄は一時間もしないうちに家を出て、また海へ戻っていった。

 行ってくる、と日に焼けた顔で笑っていた。

 煙草の煙が、濃紺の夜空に白く揺れる。見上げた空には、星がきらきらと輝いていた。

 いつか、今よりもずっと昔。夕涼みに出たベランダで兄が話していた。

 スターコンパス。星を頼りに方位を割り出す航海術。数多の星がきらめく空の上では、それこそ星を頼りにして船を漕ぐのではないだろうか。

 ふ、とこわばっていた口元が緩む。


「いま、どの辺りにいる?」


 北極星に手をかざして、天にいるだろう兄へ問いかけた。

 今夜は星がきれいに見えるから、きっと迷うこともないだろう。

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