軍人とその妻のはなし
港、肉じゃが、夢
フライパンの蓋を取ると、閉じ込められていた肉や野菜の香りがふわりと漂った。煮汁がフライパンの端でふつふつと泡を立てている。刻んでおいたレモンの皮とパセリを入れて味を整え、皿に盛り付けた。
アマーリアは満足そうに微笑み、リビングにいる夫へ声をかけた。
「ジュリオ。食事が出来たわよ」
「今行くよ」
読んでいた本を閉じて、彼がソファから立ち上がる。テーブルに並べられた料理を見ると、ジュリオは歓声を上げた。
「美味しそうだ。僕の好物じゃないか」
その言葉に微笑んで、アマーリアは椅子に座った。
開けはなたれた窓から風が吹き込み、白いカーテンが翻る。テーブルに飾られた花も気持ちよさそうに揺れた。
「私、今でも夢みたいに思っているの。まさかあなたが帰って来てくれるなんて」
「だけど君は信じて待っていてくれた」
「信じていたわ。信じていましたとも。でもひどい戦争だったものだから、半ば諦めかけていたの」
「アマーリア」
言い聞かせるように名を呼んで、ジュリオは彼女の手を取る。
「それでも僕は、生きてここにいる」
白いカーテンがふわふわと揺れて、光を散らす。アマーリアには、世界に白く靄がかかったように見えていた。
「そうね。本当にそうだわ」
悲しげに微笑んで、彼女はそっと彼の手を外す。
彼女はわかっていた。
どれだけ今が幸せでも、居心地がよくても、手放さなくてはならない。
もう、夢から覚めなければいけないのだ。
「あなたはどなた?」
ひらりとカーテンが揺れる。花が風にそよぐ。正午の光が舞い散る。
彼は笑顔を崩さなかった。「ジュリオの顔」で微笑みつづけ、鷹揚な動作で手を組み合わせた。
「いつお気づきに?」
がらりと口調が変わる。
彼は悲しそうに笑っていた。
「私は何かボロを出しましたか?」
「いいえ、全く。話し方も性格も……料理の好みさえ、ジュリオそのものでした。どこでお知りになったの?」
「戦場で。彼とは偶然に同じ部隊に配属されました。話してみると気が合ったので、よく一緒にいたのです」
アマーリアは微笑み、つづけて問いかけた。
「どうしてこんなことを?」
彼は目を伏せ、静かな声で答える。
「帰国する途上の船で、彼は初めてあなたのことを話しました。本国に残してきた妻がいると。彼女のことが心配だと。そう言いながら、彼は死んでいきました。もう母港は近かったのに」
アマーリアの目を正面から見て、彼はゆっくりと口を開いた。
「戦死の通知が届けられても、あなたが毎日二人分の食事を作って彼を待っていると聞いて……放っておけませんでした」
アマーリアは何も言わない。沈黙に耐えかねて、彼は彼女に訴えかけるようにこう言った。
「メローニ夫人、私が彼になりましょう。あなたが望むなら、ジュリオはここで生きつづける」
「優しい軍人さん」
アマーリアの柔らかな声に、彼は知らぬ間に肩に入っていた力を抜いた。彼女は静かに席を立ち、丁寧に頭を下げた。
「素敵な夢をありがとうございました。私のことなど気にせずに、あなたはあなたとして生きなければなりません」
それに何か言い返そうとした彼を置いて、アマーリアは扉へと足を向ける。
「メローニ夫人、どちらへ」
彼が声を詰まらせながらようやっと聞いたときには、アマーリアはもうドアのノブに手をかけていた。彼女は振り返りもせずに答える。
「港へ。海を見たいのです」
扉は彼女の姿を吸い込み、ぱたりと閉じてしまった。
あとに残されたのは、一人の男とすっかり冷めた二人分の料理の皿だけだった。
追記
イタリアには日本の肉じゃがによく似た料理がある
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