傷だらけの女神を拾うはなし

彼女、勝利の、コンビニ







 サモトラケのニケ。

 ルーヴル美術館に所蔵されている、勝利の女神ニケを題材にした彫像である。大きく翼を広げたその姿は、気高さと共に勇ましさも感ぜられる。

 ところでこの像には頭がない。発見された当初から見つかっておらず、頭と同じく両腕も失われている。

 ニケの写真が載ったページの先をぱらぱらと捲ってゆき、俺は『週刊美術』と題されたその雑誌を閉じた。

 くあ、とひとつ欠伸をする。

 俺のようなしがない美大生は、とにかく金がない。コンビニでの深夜バイトは最初はきつかったけれど、よく店に来る客の顔ぶれを覚える頃にはすっかり慣れていた。

 今夜も彼女は、いつもと同じ時間にやってくる。

 自動ドアが左右に開き、夜の向こうから彼女が現れる。ワンピース丈の白いセーター、黒のタイツ、そしてブラウンのブーツ。コートは羽織っていない。


「いらっしゃいませ」


 口の中にこもったような声で、定型文を口にする。彼女は相も変わらず生気のない目をしたまま、商品の並ぶ棚の間に消えた。

 彼女は夜の十時を回った頃、このコンビニに現れる。買うものは弁当だったりタバコだったりと、その日によってまちまちだ。ただ、彼女が買っていくものには他人の影がある。

 察するに、あまり質の良くない男と付き合っているらしい。

 彼女は日に日にやつれていった。

 変化が訪れたのは、その冬一番に冷え込んだ夜のことだった。

 バイトから上がった俺は、ポケットに手を突っ込んで首をすくめ、寒さを堪えながら家路を急いでいた。ふと、少し先の街灯の下に、白い何かが蹲っているのに気がついた。最初は猫か何かかと思ったが、違った。

 彼女だ。

 そう気づいた瞬間、足が止まる。

 彼女の様子はひどいものだった。顔や首にはいくつもの痣が浮かび、髪の毛はぐちゃぐちゃだった。明らかな、暴行の跡。

 慌てて駆け寄り、声をかける。


「大丈夫ですか」


 彼女は億劫そうに顔をあげた。視線が交わり、二人の間に沈黙が横たわる。

 喉に噛み付くような、耳を引き裂くような冷たい風が強く吹いた。

 彼女は擦り切れた笑顔を見せて、俺の腕を掴み、ゆっくりと身を乗り出す。


「次は君が飼ってくれるの?」


 そして、虚ろな目をしてこう言った。

 落ち窪んだ黒い目に、ぞくりとする。喉奥から込み上げてくる何かを必死で飲みくだし、唇を引き結んだ。

 ただその一言だけで、理解した。

 この人は欠けている。およそ普通の人とは呼べない場所にいる。

 それがわかった瞬間、もう一度、ぞくりと背筋が粟立った。込み上げてくるのは恐怖ではない。

 悦びだった。

 ああ、良いものを見つけたと。


「じゃあ、俺の家に来ますか?」


 口をついて出たのは、打算が透けて見えるような、そんな言葉だった。

 あの日からだいぶ時が経ち、俺は一枚の絵の前に立っている。公募で大賞を飾った作品だ。

 描かれているのは、虚ろな目をした一人の女。


「……ずいぶんと傷だらけのニケだったな」


 俺の呟きは、会場にひしめく人のざわめきの中に霞んでいった。

 サモトラケのニケ。

 ルーヴル美術館に所蔵されている、勝利の女神ニケを題材にした彫像である。この像には頭がない。発見された当初から見つかっておらず、頭と同じく腕もない。

 欠けているからこそ鮮烈な美しさがあるのだと論じる人もいる。

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