追いつづける彼女と諦めたフリをした彼の、音楽のはなし

歌手、発進、ハンター







 彼女は歌う人だと、気づいたのは随分前だ。いつしか彼女は画面の向こうに息づく存在になって、俺は追いかけようと思うことすらもやめていた。


「ハンターって、どういう意味だと思う?」


 駅前のビルに設置されている巨大な液晶パネルの中で、きらびやかなセットに囲まれて歌う若手の女性アーティスト。そんなとんでもない存在が俺の車の助手席に座っているなんて、ちょっと実感が湧かない。画面の向こうにいる彼女と俺の隣に座る彼女は、別の生き物なのではないか。そんなことをときどき本気で考える。

 そんな彼女が、ある日唐突にドライブをしたいと言い出した。今や彼女は様々なメディアに引っ張りだこだ。久し振りのオフくらい一人でゆっくり過ごせば良いというのに、彼女はわざわざ俺を道連れに出かけることを選んだ。山中の休憩所で停車していたところ、彼女はぽつりと言ったのだ。

 ——ハンターって、どういう意味だと思う?

 なんの脈絡もなく言い出した彼女にも、俺は特に動揺はしなかった。どうせいつものことだ。


「そりゃ、狩人だろ?獲物を仕留める」

「ま、普通はそう答えるよね。でも他の意味もあるんだよ」


 カーナビをいじっている俺の横で、彼女は休憩所で買ったミネラルウォーターを喉に流し込む。そうして得意げに口の端を吊り上げた。


「追い求める人、探し求める人」


 濡れた唇がなめらかに言葉を紡いだ。


「私たちみたいだよね。飢えて、乾いて、見えない獲物をずっと追いかけている。苦しいけど、辛いけど、やめられないの。やめてはいけない」


 私たち、と。当たり前みたいに俺も同じ括りに入れられていることに、わざと気がつかない振りをした。

 そんな俺を見て、彼女は不満そうにそっぽを向いて頬杖をついた。開けっぱなしの窓から爽やかな風が吹き込む。

 不意に、息を吸い込む音がした。

 その気配を感じ取って、心臓の底がひやりと冷たくなる。今すぐに彼女の口を塞がねばならない。そう思ったときにはもう遅かった。

 白い喉が震えて、彼女の中から音が溢れ出す。

 ところが音の奔流はすぐに止まった。俺が左手で彼女の口を塞いだから。


「やめろ。歌うな」


 彼女を睨みつけ、出来得る限り低い声で凄む。

 ただの歌なら、俺だってここまで過剰反応はしない。そう、ただの歌なら。

 それは。それは、だって。

 俺が。


「なんで。あんたが作った曲じゃない」


 彼女が、あっさりと俺の手を引き剥がして言う。

 何も言い返せなかった。

 俺が未練たらしく、大人になって会社に勤めてからもこそこそ書いていた曲を、どうして彼女が見つけられたのかはわからない。しまうのを忘れて机に置きっぱなしにした譜面。パソコンに入っていたデータの中。とにかく何処かから聞きつけたのだろう。

 芽吹いた小さな苛立ちに火が灯って、瞬く間に燃え盛る。俺は静かな目をした彼女を睨んで、力いっぱい怒鳴りつけた。


「無神経だよ、お前。何でそうやって見せつけてくるんだ!」


 歌い出しだけでも、彼女の歌が一級品だということは簡単にわかる。

 いつだってそうだ。

 俺の努力を彼女は一息に飛び越していく。

 彼女が歌いだすのと同じくらい早くから、俺は曲を作ることに夢中になっていた。いつまで隣に並んでいると思っていただろう。いつから置いていかれたと気づいただろう。

 音楽を愛する気持ちは同じで、スタート地点は同じだったはずなのに、気づけば取り戻せないくらいの差がついていた。


「俺はもう良いんだよ。お前みたいに才能があるわけじゃない。これ以上曲なんか作ったって何も」

「でもやめられないでしょ」


 一瞬、息が止まった。

 彼女の大きな瞳に俺の情けない顔が映っている。


「やめたくないでしょ」


 シートから身を乗り出して、彼女も負けずに俺を睨み返す。

 そうだ。今の今まで音を生み出すことをやめられなかったのは、それが既に自分の一部になっていたからだ。やめてはいけなかったからだった。


「好きなことにしがみつく想いの強さは、才能とは呼ばないの?」


 彼女の目は、俺と同じだった。届かないものを追い求める人の目だった。俺から見れば成功者の彼女だって、きっと楽しいだけで歌っているわけではない。目を見ればわかる。

 好きは、突き詰めると苦痛になる。

 本当は知っていた。どんな美しい花を咲かせる種だって、育てなければ咲かないままで終わることを。


「歌わせてよ。歌いたいんだよ」


 車内に、痛いほどの静寂が満ちた。

 彼女はてこでも目を逸らさない。降参したのは俺の方で、苛立ちまじりに乱暴なため息をついた。


「わかった。好きにしろよ」


 俺が不機嫌な振りをしているだけだと、彼女はすぐに気づいただろう。だから、おかしそうに、満足そうに笑ったのだろう。


「はやく出発してよ」


 彼女がせがむので、俺はゆっくりとアクセルを踏んで車を発進させた。それと時を同じくして、体に馴染んだメロディがなめらかに紡ぎ出される。

 目の前には、真っ青な空が視界いっぱいに広がっていた。

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