桜に囚われる一族のはなし

桜、卒業、最後







 幼い頃、私は家の庭にある桜の木が怖かった。見ていると、何やら魂を持っていかれそうな気がしてーー言いようもなく、空恐ろしかった。


「お前、いい加減にその怖がりを卒業しろよ」


 兄は、女々しく愚図っている私にうんざりした様子で言った。兄の苛立ちも尤もだったろう。もう小学生のくせに、夜中に尿意を感じて起きるたびべそをかく私に、夜な夜な便所まで付き添うのは兄の役目だったのだから。


「父さんも、何とか言ってくれよ」


 覚えている限り厳しい面構えを崩したことのない父親の前に突き出されて、私はひどく怯えた。閻魔の前に這いつくばる罪人のように、身体の中で心臓が跳ね回っていた。

 拳骨の一発も喰らう覚悟だった私の頭には、しかし衝撃も痛みも来ない。父は、小心者の私の頭をただ黙って撫ぜただけだった。

 思惑が外れた兄がつまらなそうに舌打ちしていなくなると、父は古い老木のように嗄れた声でこう言う。


「俺もあの桜が怖い」


 お揃いだな、と。そう言ってかすかに笑った父は、その数年後に亡くなった。没年四十七。早すぎる逝去であった。麗らかな春の日のことである。一族の哀しみなど知らぬげに、庭の桜は満開に咲いていた。

 その頃にはもう成人し、社会人として立派に働いていた兄が当主の座を継いだ。

 しかし、私がようやっと大学を卒業する時分になって、兄も他界した。庭の桜はその年はひときわ美しく、薄紅の雲を枝の間に広げていた。

 病床の兄が、何やら不可解なことを言っていた。もはや息をすることもままならないようなのに、何かに取り憑かれたかのように目を血走らせ、口の端を震わせて。

 女がいた。

 それは美しい女だった。この世のものと思えないほど。

 兄のその言葉は、十数年経った今でも私の耳の奥にこびりついている。抜けない染みのように、あるいは白い紙に落ちた漆黒のインクのように。

 妻帯することなく年を重ね、一人きりで広すぎる家に住む私にとって、それは重い呪いだった。

 不意に得体の知れぬ恐怖に耐えきれなくなり、私は書庫から家系図を引っ張り出して検めてみた。すると、何と不思議なことだろうか。我が一族の、特に男は、若くして亡くなっている者がことさら多い。更に調べてゆくにつれ、私の顔からは徐々に血の気が失せていった。

 兄。父。祖父。曽祖父。

 辿れるところまで調べてみたが、この家の当主が亡くなる時期は示し合わせたかのように重なっている。

 即ち、春。

 それも、庭の桜が満開の頃に。

 父や兄の言を鑑みるに、あの桜にはもしかすると、人ならざる何かが宿っているのかもしれない。それが歴代の当主の精気を吸い上げ、最後にはしなびた骸にしてしまうのではないか。

 ーー馬鹿なことを言う。

 突拍子もない空想を、そうやって一笑に伏すことができたならどんなに楽だっただろう。

 ぱたりと、私の手から古い家系図が滑り落ち、だらしなく畳に寝そべる。

 巨大な百足が背に這い上ってきたかのような心地だった。幼い頃に感じたような怖気が滲み、私の指先は氷のように冷えてゆく。

 見るな。

 命じても、体は言うことを聞かぬ。まるで糸で操られた人形のように、私の目は部屋の外へ向く。畳を這い、障子を伝って、渡り廊を過ぎ、そして庭先に佇む桜の木へ。

 女がいた。

 双のまなこに収めた瞬間、思わず息を呑むような美貌を持つ女だった。濡れ羽色の長い髪に、薄く色づいた白い肌。桜木の下で俯きがちになる立ち姿は、実になよやかであった。

 彼女と視線を合わせたとき、私は自分の推測がそう的外れなものでなかったことを知る。何の疑いもなく、ただこう思った。

 ああ。

 ーー次は、私の番か。

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