姉に騙されるはなし

ほうれん草、バリア、山







「また残してる」


 僕の隣に座ったお姉ちゃんが、怖い顔をしてそう言った。ほうれん草のおひたしに全く箸をつけていない僕は、唇を尖らせて俯く。


「だって、ずっとほうれん草ばっかりなんだもん」


 一昨日はほうれん草の胡麻和え、昨日はほうれん草のバター炒め、そして今日はほうれん草のおひたし。

 僕はほうれん草が嫌いだった。味が苦いし、食感も好きじゃない。あの、歯に残る柔らかさが最悪だ。


「最近、ほうれん草がお安いのよ。でも傷みやすいから、早めに食べちゃわないとね」


 母はほうれん草のおひたしをつつきながら、にこにこ微笑んでそう言った。台所には、山と積まれたほうれん草がまだ大量に余ってる。

 僕らの食卓にはほうれん草が絶えない。ほうれん草が安いときだけ。


「あんまり残してると、バチが当たるわよ」


 相変わらず怖い顔をしたお姉ちゃんが、ほうれん草のおひたしをモグモグやりながら僕に凄んだ。

 その日の夜、夢を見た。


「こんにちは!」


 元気よく挨拶してきた女の子に、僕はしどろもどろになりながら「こんにちは」と返す。


「君は誰?」

「あたしはほうれん草の妖精よ」

「えっ……ほうれん草」


 ぎょっとした僕の前で、彼女は緑色の長い髪を払い、くるりと回ってみせた。緑色のスカートの裾がひらりとはためく。よく見るとそれはほうれん草だった。

 僕は青ざめて、後ずさる。

 女の子は無邪気に微笑んで、後ろにそびえ立つ山を指差した。よく見るとその山もほうれん草だった。


「この山はあたしたちほうれん草の聖地。さあ、君もほうれん草になるのよ」

「い……嫌だ……」


 恐怖に駆られて、彼女に背を向け逃げ出そうとした僕は、目の前に広がる光景に愕然とした。


「どこに逃げようというの。逃げ道なんて、もうどこにもないのに」


 くすくすと、僕の後ろで彼女が笑う。僕はすでに、多数のほうれん草の妖精に囲まれていた。妖精たちはじりじりと輪を小さくしていき、僕を追い詰める。バリアが張れたらいいのに。このときほどそう思ったことはない。

 女の子が僕の顔を掴み、無理やり口を開けさせる。手には生い茂る生のほうれん草。


「いっ……嫌だ、嫌だよ……」


 青ざめて震えている僕の口に、彼女は笑顔でほうれん草を突っ込んだ。口の中に、咽せそうなくらい葉っぱの風味が広がる。もごもごやっている内に、息が苦しくなってきた。

 まずい。死ぬ。ほうれん草に殺される。

 そこで目が覚めた。

 ほうれん草の女の子の顔がお姉ちゃんに似ていた気がしなくもない。

 とにかく、その日から僕はもともと嫌いだったほうれん草がもっと嫌いになった。そんな僕を見て、お母さんとお姉ちゃんはため息をついていた。それでも僕は構わない。ほうれん草なんか一生食べるものか。

 悲愴な覚悟を秘めた僕が、ある日学校から帰ってくると、机の上にケーキが置いてあった。緑色のパウンドケーキである。


「お姉ちゃん、これ何のケーキ?」

「抹茶のケーキよ」


 居間のソファに寝っ転がってテレビを見ていたお姉ちゃんは、さらりと答えた。

 抹茶。それなら食べてみようかな、と思って、僕はぱくりと一口、ケーキをかじる。不思議な味がした。でも嫌いではなかった。

 その後も、我が家では抹茶のケーキがたまに出てきた。ぱくぱくと抹茶のケーキを食べる僕を見て、何故かお母さんとお姉ちゃんはにやにやしていた。

 僕が「抹茶のケーキ」の正体に気がついたのは、大人になってふとした折に「本物の抹茶のケーキ」を食べてからの事である。

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