第83話 ヨシュア・ハルベール


 私の名前は、ヨシュア・ハルベール。ハルベール家の三女ということになっている。昔の名前はただのヨシュア。


 私は五歳で両親を事故で亡くした。それまで彼らからひどく虐待ぎゃくたいされていた私は、その生活から解放されほっとしていた。


 すぐに私の住んでいた地方都市のとある奴隷商に孤児奴隷こじどれいとして引き取られ、そこで主に礼儀作法れいぎさほうなどを教わった。


 十三歳の時、ハルベール家に買われ、王都に住むようになった。ハルベール家では家事をするようなことはなく、貴族が身に着けてしかるべき教養を仕込しこまれた。三年が過ぎ、十六歳になった私は、孤児奴隷を解放され、三女としてハルベール家の養女となった。その時、私を引き取った地方都市の奴隷商が屋敷にやって来て私の奴隷紋どれいもんを消してくれた。


 私はそれからすぐに侍女として王宮へ通うようになった。同僚どうりょうの侍女たちも、貴族家の三女である私に親切に接してくれていた。私も指示されたことはそつなくこなし、同僚が困っている時には手伝てつだってあげたりもした。


 通いで王宮での雑務を二年ほど続けていたところ、突然当時七歳のリリアナ王女殿下付でんかづきの侍女になった。それまで殿下付きだった侍女が健康を理由に王宮を去ったため、急遽きゅうきょ私が殿下付きを命じられたのだそうだ。それからは、私は王宮に部屋を与えられ住み込むようになった。


 リリアナ殿下は、色白でまるで陶器とうきでできたお人形のようなかわいらしいお姫さまだったが、すぐ熱を出し寝込んでしまうほど病弱で、体はせていた。殿下の部屋に訪れる家庭教師の個人授業をお受けになるとき以外は、ベッドに横になられていた。食事もベッドの上でとられることも多く、私がこまめに給仕きゅうじした。


 殿下付きになって、二月ふたつきほど経ったある日、私の元にハルベール家の使いと称する人物が現れた。せた女で、今まで初めて見る顔だった。その女は、ハルベール家の当主からの手紙と、ポーション瓶を大小二本置いて行った。大きい方には緑色の液体、小さい方は黒い液体が入っていた。


 手紙には、一日一回緑色の液体を爪の裏に塗り、乾いたら爪の裏に乾燥物ができるので、その乾燥物をリリアナ王女の飲食物に少量入れるようにとの指示だった。もし問題が起きた場合は、黒い方のポーションを必ず飲むようにとも書いてあった。


 私は、何も疑問に思わず、考えもせず、手紙で指示された通り、緑色の液体を左手の薬指の爪の裏に塗って乾燥するのを待つ。濡れているときは緑色だった液体が乾くと透明になった。王族専用の厨房ちゅうぼう配膳口はいぜんぐちからリリアナ殿下の食事をワゴンに乗せるとき、左手の薬指の爪の裏側を親指の爪でこすって、透明な乾燥物を水の入ったコップに落とすようにした。こうしたことを毎日繰り返した。


 緑色の液体が無くなるころ、痩せた女がやって来て古い瓶と新しい瓶を交換していった。そういう生活を六年続けた。昔は体だけは丈夫じょうぶで自信があったのだが、ここ一、二年よく風邪かぜをひくようになった。治りも悪い。



 三カ月ほど前にひいた風邪かぜをこじらせた殿下は、止まらないせきに体力を失い、その痩せた体が更に痩せ細った。食事も私が補助し流動食をわずかに喉に流し込む事しかできないようになった。誰が見ても、殿下の命のともしびはもはや消える寸前すんぜんだった。


「ヨシュア?」


 殿下が私を呼んだ。その声は弱々しく聞き取りにくい。


「はい。リリアナ殿下」


「お姉さまは、今どのあたりにいらっしゃるかしら。ケホ、ケホ」


 殿下は目を閉じて、この日も同じ質問を繰り返す。


「マリアさまは勇者さまたちと北方諸王国に向かわれてまだ一月ひとつきですから最初の国に到着されたかどうかというところでしょうか」


 私は同じ答えを返す。


「そう」


 殿下はそう答え黙ってしまった。眠ったのだろう。苦し気なせきも止まったようだ。目元が濡れているのが分かる。そっとガーゼで目をぬぐってあげる。なぜだか私の中に不思議な心の動きを感じる。これが悲しいという感情なのだろうか。


 その夜、転機てんきが訪れた。私たち侍女が見守る中、殿下付きの看護師が、殿下の口に白く輝くポーションをスプーンで差し入れる。何回か繰り返し最後に残ったポーションを一気に殿下の口の中に流し込んだ。殿下の肌の色に血の気がさしてきたように見えた。私が殿下にお仕えして初めてのことだ。


 殿下の汗で濡れた下着と寝間着ねまき取替とりかえた。殿下がここまで汗をかかれた事は今までにない。赤みが少しさした殿下の寝顔を、付き添った看護師と眺めているとほっとした自分がいるのに気が付いた。私にも何年も感じたことのないそんな感情がまだあったようだ。


 翌日の殿下の変わりように驚いた。殿下が自分でベッドから立ち上がろうとしたので、慌てて手を貸した。自分一人で歩けるというので、いつでも手を貸せるよう寄り添う形で、部屋の中を二人で軽く歩いた。


 それから数日たち、殿下に薬を献上けんじょうしたという二人の錬金術師が褒賞ほうしょうとともに貴族になったそうだ。


 殿下がどうしても二人にお会いになりたいというので、私が二人を迎えに行った。


 二人はまだ若い男女だった。二人とも着ている服は立派だったが、男の方が貴族ではありえない丸刈まるがりなのは違和感いわかんしかなかった。


 女の方は、私から見ても美人だったが、何か得体えたいのしれない雰囲気を持っていた。


 帰りに車寄せまで案内を買って出たが女の方に強い口調で拒絶きょぜつされた。これまで仕事で失敗はほとんどしなかった私だけに何か粗相そそうをしたのだろうかと心配になった。


 二人に会った殿下はひどく感動したようだった。その日から私は、なんとなく控えていた例の作業を再開した。


 それから、数日してまたあの二人の錬金術師が殿下の部屋にやって来た。殿下にテラスでお茶の用意をするよう言われたのでそのようにする。用意が終わると殿下とその二人がテラスに出てきた。


 そのとき女の方の錬金術師と目があったような気がした。彼女は私の左手を見ている。男の方も見ている。二人は殿下に内密な話があるようで私は退席たいせきさせられた。何の話だか分からないが窓越しに殿下のひどく驚く顔が見えた。


 お茶会も終わり、二人の錬金術師達が殿下に別れを告げ退出した。私は片付けを同僚に頼み、自室に急いだ。


 部屋の鍵を閉め、机の引き出しの奥から小さなポーション瓶を取り出す。ハルベール家は疑われるのだろうが私がいなければ弁明べんめいも可能と考えていたのだろう。


 実の両親が事故で亡くなっていなければ、私はつらい生活の中で、もっと早く死んでしまっていたと思う。侍女となって八年、殿下付きになって六年。あっという間だった。最期にリリアナ殿下に別れの挨拶あいさつができなかったことが残念だ。




「この部屋がヨシュア・ハルベールの部屋か。うん? 鍵がかかっているぞ! 王宮警備隊おうきゅうけいびたいだ! 誰か中にいるなら、扉を開けろ! ……、返事がない。誰か合鍵を持ってこい!」


 部屋の外に誰か来たようだ。


 私は瓶の蓋をあけ、中に入った黒い液体を一気に飲み干した。


 握りしめていたはずの手からこぼれ落ちた小さな空き瓶が、床に当たって割れた音がした。


 目の前が暗くなってゆく……



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