Scene VI [家族]


 ——かなちゃん。あたし、明日から劇団には行きません。


 私、貴女の決断を否定するつもりは無いの。

 ただ、たった一言、相談して欲しかったんだよ。


   *

   *

   *


 時刻は間もなく0時を回るところだ。


 ——もうすぐ帰りますよ。


 そう連絡が入ってから、かれこれ数時間は経っている。

 メッセージに添付された位置情報は最寄駅を指していた。

 ここから歩いて10分と掛からない距離だ。

 いくら何でも遅すぎる。


 念のため万里には連絡を入れてみたが、昨日の午前中に別れたきり、今日は会っていないそうだ。


 落ち着かない。気付くと首に巻いたデバイスを指でコツコツと叩いている。

 昨日からずっと嫌な胸騒ぎが止まないのだ。


 もう一度時計を見る。

 さっき見た時から分針が一つしか動いていない。


 ふと、背後からスリッパの音がする。


「彼方さん、そこにいたのね」


「母さん……。ごめん、起こしちゃった?」


 リビングの戸を背に、母さん——氷崎華絵が立っている。


「大丈夫ですよ。お水を飲もうと思って起きたところでしたから」


 母さんは肩に掛けていたブランケットを椅子の背もたれに掛け直し、キッチンに向かって行く。

 台所から水が流れる音がする。


「スープ、飲みますか?」


 カウンターキッチンの向こうから母さんが言う。

 その表情はいつも通り穏やかだ。


「うん、お願い」


 もしかしたら私の方は随分と酷い顔をしているのかも知れない。

 ヤカンを沸かす音よりも、時計の針の音が気になってしまう。


 まるで何時間も過ぎたように感じられた数分の後、母さんが深い両手鍋を抱えてやって来る。

 それを見た私は慌てて戸棚に行き、鍋敷きと二人分のマグカップを持ってくる。


「それ、何人分あるのよ……」


「ふふ。星さんは食いしん坊ですからね」


「——そうだね」


 氷崎華絵特製のクラムチャウダーの温もりがお腹に染みていく。

 鼻に残るパセリの香りが少しだけ私を落ち着けてくれたみたいだ。


 ふと母さんが呟く。


「そう言えば、星さんが我が家に来た日もこんな感じでしたね」


「あー、だったね。謠衣さん達とはぐれちゃって、夜まで見つからなかったっけ」


 謠衣さん——星のお母さん——は実にのほほんとしたもので、当時は母さんの方が慌てていた。

 結局あの子は自力でこの家に辿り着いたのだ。万里の手を握って。

 二人とも泥だらけだった理由を聞いたところ、近所の男の子に意地悪をされていた万里を助けるために駆けつけたそうな。運命ってあるんだなと幼心に思った憶えがある。


 母さんは長く伸ばした栗毛を掻き上げる。


「あたしに出来る事は、星さんのお話を聴いてあげる事くらいだわ」


 私はそんな風に信頼していられないのかも知れない。

 たった一人の妹の事なのに。

 演劇を辞めると言われた時もそうだ。私は落ち着いて話を聴いてあげる事が出来ず、それからずっと気不味さを抱えている。


「私は、どうしたら良いんだろう……」


「彼方さんは、待っていたいのね。——その気持ち、あの子にも伝わっていると思いますよ」


 母さんは不思議な人だ。

 その瞳で見つめられると、何となく信じてみたくなってしまう。


 星は母さんによく似ている。ともすれば私以上に。


「そうかな、——そうかも」


 不意に、玄関の扉がスライドする音が響く。


「——ただいまー……っす」


 その声に弾かれるように、私は玄関に走る。

 深夜なので遠慮したのか伺うような小声だが、柔らかく弾むような声音は普段通りだ。

 この気持ちは安心——、だろうか。どう表現しても陳腐になってしまう気がする。


 ——せめて、疲れて帰ってきたあの子を目一杯抱きしめてあげなさいな。


 今日言われたばかりの監督の言葉が甦る。


 星はきっと自分の信じた事を曲げたりしない。

 かと言って、私は母さんのように黙って見守る事もできない。


 じゃあ、私に出来るのは——?


 玄関に立っていたのは間違いなく妹だった。

 泥だらけのセーターを見に纏い、身体中に擦り傷を負っている。

 そして、隣に立っているのは見知らぬ少女。彼女の着ているワンピースもまたあちこちが破れていた。


 乾いた音が響く。

 それが、自分の手が星の頬を打った音だと気付いたのは、掌がじんと痛み出してからだ。


「いい加減になさい」


 母さんのスリッパの音が耳に入ってくる。けれど、感情は堰を切ったように止まらない。


「貴女は——っ、いつも……っ」


 目の周りがどうしようもなく熱い。

 足元に水滴がぽつりと落ちる。


「そんな風に傷付いて帰って来るんだったら……っ、家族にくらい——私にくらい、話してよ!」


 星が私の胸の中に飛び込んでくる。

 柔らかくて包み込むような音色が耳朶を擽る。


「うん——、ごめんなさい」




   ***




 彼方が寝てしまうまで、私には立つ瀬が無かった。

 余程心労が溜まっていたらしい。ひとしきり星に説教をした後、バッテリーが切れたように床に就いてしまった。

 星の姉と言っていたが非常に苦労しているのだろう。

 そんな同情を示していたつもりだったのだが——、思い過ごしでなければ、彼女にずっと睨み付けられていた気がする。


 対照的に星の母親——華絵は、真夜中の来訪にも関わらず歓迎の意を示してきた。

 事前に温めてあったと言うクラムチャウダーを振る舞われ、お風呂を貰い、あろう事か寝室まで充てがわれた。

 まるで私が来るのを予期していたのかと思う程だ。

 華絵の立ち振る舞いは何処か星に似ている。親子だからと言えばそれまでだが、星は彼女の影響を受けて育ったのだろう。


 寝室のクローゼットの上に飾ってある写真には、幼少期の星と彼方と、もう一人の少女が写っている。


「愛されているのだな」


 これこそが氷崎星の日常。

 そこには【サイン】も魔術も無い。普通の女の子と普通の家族の、普通の生活があった。


 ――あたしはアナタと、レグラントさんと一緒に闘う。


「君は、残酷だよ」




 私は音を立てずに忍び込む。寝室の隣——星の部屋に。




   ***続く***

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