Scene III [約束]


 バーを挟んでいた塀の片方——瓦葺きの土塀の側に向かって伸びる長い廊下を、灯籠の背に従って歩む。

 照明は点在する行燈のみ。廊下の果ては見えない。

 途中まで付いて来た東郷とコウは、それぞれ自室に戻るといって別れた。

 全員がこの広大な平家に住んでいるらしい。


 やがて虫の音が聞こえてくる。

 廊下が途切れて外に繋がっていた。目の前には鯉の影が微かに見える池、そして——月明かりに照らされた庭園が視界に広がる。

 星が感嘆の吐息を漏らした。


「庭弄りは私の趣味なのだよ」


 灯籠の灯りに浮かぶ枯山水。傍らには立派な松の木が一本閑かに立っている。

 何処となく胸が漫ろになるような景色だった。


「ほれ、もう少しで着くぞ」


 池を渡る飛び石を過ぎて、再び廊下に入る。

 今度は長く歩かされる事もなかった。


 悠に2人並んで通れる障子戸を引くと、 30畳程の畳敷きの部屋が広がっていた。

 部屋の中央に座布団が4枚、正方形を組むように敷かれている。


「楽にしてくれ。粗末だが客間として使っておる」


 星と私は隣り合って腰掛ける。

 灯籠の言葉そのままに、星は脚を崩して胡座をかいていた。


「改めて二人を呼んだのは、私からの『提案』を聞いて貰いたかったからだ」


「——失礼します。お茶をお持ちしました」


 灯籠の話を遮って、別の襖から妙齢の女性が入ってくる。

 ショートヘアに黒いパンツスーツと言う男性的な出で立ち。

 彼女は私達の前にお茶を配膳する。所作の一つ一つが丁寧だ。


「私は設楽薫したらかおると申します。灯籠様の弟子です。よろしければこちらに同席を、と」


 設楽薫は同意を求めるように視線を向けてくる。


「私は構わない」


「あたしも良いですよ」


 これで面子は揃ったのだろう。灯籠はお茶を一口。そして顎髭を弄りつつ切り出す。


「本題に入る前に——」


「まずは友人が粗相をした事、詫びさせてくれ」


 そう言って深々と頭を下げる。白髪に顔が隠れて見えづらく、本音が読めない。


「随分と軽く言ってくれるな」


 こちらは命のやり取りをしたのだ。粗相で済むものか。

 拳を握り締めて灯籠を睨む。

 不意に、思いもしない方向から茶々が飛んでくる。


「心さんとは友達なんですね」


「ああ。この歳になって初めてできた飲み友達と言ったところかの」


 灯籠は喉を鳴らして笑う。


「御主らに酒の話はまだ早かったな」


「その友達とやらは大層物騒な代物にご執心のようだが。貴方はどうなんだ、灯籠?」


「ふむ。利害は一致しないでも無いが、——彼と私は見ている物が違うのだよ」


 灯籠の落ち着き払った物言い。

 東郷のそれとは違う。そこにあるのは、全てを赦すとでも言いたげな達観。

 この老人とは、やはり相容れない。

 その顎髭を無造作に引き千切ってやりたくなる。


「貴方は変わらないのだな。他人の事は全て見透かしていながら、いつもそうして線を引く。また見殺しにするのか? あの時のように——」


 私が膝を立てた瞬間。


「くーちゃんともお知り合いなんですねぇ」


 呑気な声が割り込んでくる。

 もちろん星だ。

 わざとタイミングを計っているように感じた。


「旧知でな。——して、ノアよ。彼奴は壮健か?」


「それは貴方が自分で確かめたら良いだろう?」


 私は座布団から立ち上がる。

 過去の経緯から灯籠を責めずにいられない自分が存在する事は自覚している。

 星はそれを敏感に感じ取って、歯止めを掛けようとしているのだろう。


「くーちゃん?」


 私は星の声を無視して廊下に出る。

 そのまま障子をピシャリと閉め、背を向けて正座する。私の感情を代弁するように床板がギィと鳴った。


「その老人の顔を見ていると腹が立つ。勝手に話を進めてくれ」


「廊下は寒いですよ。お身体に障ります」


「問題無い」


 障子越しの会話。

 薫の言葉は純粋に気遣いだろう。

 しかし、私にとってはあまり差し障りが無いのだ。体温は内在マナである程度コントロールできる。代謝と同じようにほぼ自動的に。

 そうでなければ、冬の盛りに差し掛かろうという時季に、薄手のワンピースなどで彷徨いたりしない。


「もしかして、あたしの事も知ってるんじゃないですか?」


 星の食い気味な質問。目にしなくとも声だけで情景が想像できてしまう。


「いや、初見じゃな。一心の奴から聞き及んでいたまでの事よ」


「——そーですか」


「さてと——、申し遅れた。私は神秦灯籠かむはたとうろう。しがない剣術家をやっている」


 おそらく今回も屈託の無い自己紹介が続くのだろうと思った。

 星は互いの呼び名に拘る質だ。数時間ばかりの付き合いだが、その辺りは理解してきた。

 しかし、少しの間を置いて——。


「ねぇ、灯籠さん。お話の前に、一つだけ『お約束』をしませんか」


「ほう——?」


 さしもの灯籠さえも意外だったのか、星の言葉を黙して待っている。


「あたしはくーちゃんを守ります。だから——」


 庭で鹿威しが鳴り響く。


「もし灯籠さんが本当に必要だと思ったら、その時はあたし達に力を貸してください」




   ***




「ハイ、ストップ! ストーップ!」


 小さなスタジオにハイトーンなバリトンが響き渡る。


「彼方チャン、ダメじゃない。集中できないなら降ろすわよ」


「すみませんでした。もう一回お願いします!」


 監督の言い分はご尤もだ。私は他の事に意識を取られている。

 本番前の通し稽古だと言うのに。


 緑の髪を短く刈り込んだ監督は私の目を覗き込む。


「——分かったわ。少し話しましょうか。——ゴメンなさいね、皆。ちょっと休憩にしましょう!」


   *


 6人用の控え室に二人——監督と私が対面で座っている。

 なかなか切り出せないでいる私に配慮してか、監督が口を開く。


「星チャンの事ね?」


 私はこくりと頷く。


「そうねぇ。突然辞めちゃった時はびっくりしたけど、あの子は衝動的に周りを振り回すような子じゃない。だから、あの子なりの考えがあっての事だと思うわよ」


「それは、分かってるんですけど……」


 監督は星が劇団から去った事が問題だと思っているようだ。

 しかし、それは少し違う。


「星、昨日から帰ってないんです。連絡無しで」


 連日の稽古でうっすら生えかけた顎髭を掻きながら、監督が言う。


「大学生になったんでしょう? 普通にアリだと思うわよ」


 そう。私が過保護過ぎるのかもしれない。

 でも私は託されたのだ。

 あの子のお父さんとお母さんから。

 事故で突然居なくなってしまう事だって普通に起こり得ると、あの時思い知った。


「あの子、外泊の連絡欠かした事ないんですよ。だから、何かあったらと思うと……」


「彼方チャン……」


「すみません。今日は帰らせてください。このままじゃ練習も迷惑をかけると思うし」


「——良いわ。ただし、一つアタシの言う事を聞いて貰うわよ」


 監督が意地悪そうに目を細めた。


「——はい?」




   ***




 時刻は夜8時を回ろうとしていた。

 月は雲に隠れ、時折薄ぼんやりとした明かりを注いでいた。

 瓦屋根のついた木張りの門の前。

 見送りに出たのは私——設楽薫と笠置さんだった。


「いやー、まさかあのまま眠っちまうとはなぁ」




 氷崎さんが『お約束』を切り出し、灯籠様がそれに首肯した。

 そして、灯籠様の『提案』を聞いた後の事だった。

 氷崎さんは急にその場で倒れ、そのまま死んだように眠ってしまったのだ。


 起床したのはきっかり24時間後。これには灯籠様も苦笑していた。笠置さんに至っては大爆笑である。




 昨日の服はボロボロだったので、氷崎さんと立木ノアには私の服を貸している。

 二人とも私より背が低いので、服選びには苦労した。

 結局、氷崎さんはデニムのショートパンツとセーターを選び、立木ノアは腰のベルトで長さを調節できる白デニム地のワンピースを選んだ。


「着替え、ありがとうございました。これでお姉ちゃんに——は、やっぱ叱られちゃいますね」


 薫は星が手に提げたビニールバッグに目を遣る。


「そちらの服はボロボロですが……、持って帰るのですか? 遠慮しなくても、こちらで捨てておくのに」


「直して使いますよ。まだ製作の時には着れますから」


 笠置さんは無遠慮に彼女の肩に手を置く。


「へえ。器用なんだな、ひーちゃん」


「ひーちゃんですか……」


「そうそう。氷崎のひーちゃん、ってな。ははっ」


 軽薄に笑い飛ばす笠置さんを嗜める。

 この人はいつになっても苦手だ。


「少し馴れ馴れしいんじゃないですか。彼女も戸惑ってしまいますよ」


 灯籠様や東郷さんのような方々とばかり接していると、普通の感覚の持ち主である彼女が居るだけで少し安心する。

 しかし、氷崎さんは普通で測れる感覚の持ち主ではなかったようだ。


「いいですね! ひーちゃん、気に入りました」


 新しいニックネームに顔を綻ばせつつ、私達に向かって手を振ってくる。


「じゃ、また来ますんで。おやすみなさい」


「おう、いい夢見ろよ」


 氷崎さんは離れた場所で腕を組む立木ノアの所へ駆け出していく。

 背中が小さくなっていく。


「——これが正しい事なのでしょうか」


「ん?」


 笠置さんが私を見る。


「氷崎さんは、東郷さんや立木ノアとは明らかに違う人種です」


「それはある意味同意」


 ——だからこそ。


「今から無理矢理にでも取り上げた方が良いのでは……?」


 笠置さんは眉を動かす。


「カオルちゃんは真面目だねぇ」


「——どう言った意味ですか?」


 それに答えは返らず。

 代わりに一つ前の問い掛けに対する答えが返ってくる。


「良いんだよ。これで良い」


 彼はそう言って、氷崎さんと立木ノアに視線を送る。


「お待たせです、くーちゃん! 行きますよー」


「だから何故、君の家に行かねばならんのだ!」


 立木ノアは相変わらず頑なに見える。

 その彼女のために闘うと言った氷崎さん。彼女もまた不安定で危うい存在に思える。


「あの嬢ちゃんのためにも、さ」


 笠置さんの目には期待がこもっているように見えた。

 氷崎さんがあの少女に何らかの影響を与えると言う事だろうか。


 その可能性に賭けるには、あまりに秘密が多すぎる。




   ***続く***

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