Scene II [邂逅]
――っ!!
――――っ!!!
木々の爆ぜる音、何か重い物が崩れる音――そして、到底言葉に表せぬ絶叫がそこかしこで木霊する。
視える範囲は全て炎に舐め取られていた。例外無く、全てが。
――戦神。
そう祭り上げられたのは昨日今日の話ではない。
故に私は相応しい権威を振るったのだ。
この地に根を下して以来、数え切れぬ程目にしてきた光景。これも所詮その一つに過ぎない。
不意に頬を流れかけた水分が蒸発する。
「何故、貴方が悲しむの?」
いつの間に舞い降りたか、炎の中に少女が立っている。
「安心なさい。貴方はいつか報いを受けるわ。誰に悲しまれる事も無く、憐まれる事も無く」
薄く笑う少女を中心として烈風が舞い起こる。
風が止んだ時には――、視える範囲は全て剥き出しの大地になっていた。例外無く、全てが。
黒煙のドームを失った荒野に、白い結晶が舞い落ちる。
雪が降っていた。
私はそれを、優しいと思った。
「ええ。わたしも、貴方の道行きに付き合うわ」
少女が小さな手を差し伸べた。
*
*
*
目を開けるとドーム状の空が広がっていた。
氷崎星は芝生に横になったまま目を擦る。
足元には開きっ放しのスケッチブック。その荒い紙肌には鮮やかな虹色の薔薇が描かれていた。
彼女のいる庭園には古今東西・春夏秋冬の花々が咲き誇っている。
例年進行する暖冬とはいえ、この季節に薔薇は咲かない。言うまでもなく温室だ。だが、周囲を見渡してみても壁が見えない程度には広い。
自然採光のために硝子張りの天井から、冬の日差しが差し込む。
彼女はもう一度目を擦る。目尻が少し湿っていた。
*
優に数キロ四方はある敷地において、学舎を構成するのは地上7階建の塔が5本。白煉瓦の壁が絢爛な建物にはそれぞれ、美術学科、音楽学科、演劇学科、文学科、そして総合学科――星が所属し、今現在屋上に立っている場所――が配置されている。
それら5本の塔を柱として、硝子張りのドームが建っている。内部は吹き抜けの庭園だ。
人の気配は皆無。
それでも彼女が夕陽を見たくなったのは、あの夢の所為だろうか。
微風に身を震わせ、彼女はマフラーに深く顔を埋めた。
静寂を破ったのはスマートフォンの着信音だ。
「華絵さん? ――うん、講義は終わったよ。これから帰り。今日はご飯作っておこうか?」
スマートフォンから落ち着いた女性の声が漏れ聞こえてくる。
「あはは、りょーかい」
通話を切って夕陽に背を向けたその時――。
風を切る音が真横を通り抜けた。
最初に目に入ったのは細身の剣。夕焼けを吸ってなお漆黒の。
持ち主は今朝出会った少女だった。黒髪がはらはらとなびく。
星は息が詰まって動けなくなる。――不意に既視感を覚える。思い出す事はできないが、これと似た状況を以前にも経験している。
「――アナタは?」
星がぽつりと訊ねる。
屋上は高いフェンスに囲まれている。だから、星が目を疑うのも無理はない。少女は文学科棟の屋上から文字通り空中を飛んできたのだ。
「早く、ここから離れろ」
少女は星に背を向けたまま告げる。
張り詰めたような警告。
彼女がその意味を理解する早く、巨大な破壊音が轟いた。
「ち……っ」
石造りの床を穿って現れたのは背丈が3メートルを超える、おそらくヒト型の何か。
断言し切れないのは、巨躯の周囲を赤い霧が陽炎のように揺らめいていて、シルエットがはっきりしないからだ。
陽炎の巨人は細長い棒を構えた。先端が鋭い、逆光で赤黒く艶めくそれは――槍だ。
再び舌打ちする少女。
相対する陽炎の巨人は、その影の奥で、笑みを浮かべたような気がした。
少女と巨人は同時に踏み込む。高速で交わされる剣戟と鍔迫り合いの音。少女は絶対的な体格差をものともせず、巨人繰り出す一突きを正面から弾き返す。
闘う二人の隙を突いて身を隠すのは不可能ではないだろう。しかし、間違いなく目の前で繰り広げられている光景に、星は心此処にあらずと言った様子で立ち尽くしている。
左側から迫る槍の一撃を刀身で軽く受け流し、黒の少女は間合いを詰める。一瞬で巨躯の懐に入り込んだ。
「せあああっ」
裂帛の一閃が陽炎を切り裂く、が――――。
振り向き様、少女は毒づいた。
「……躱された、か」
陽炎の巨人は後方に跳んで、既に十分な距離を取っている。その体格からは想像できない俊敏な動きだ。
巨人は重心を落とし刺突の構えを取る。
それを見た黒の少女は剣を腰だめに構える。
「貴様、唯の寡黙ではないだろう。答えてもらうぞ。父の命を受けて『コレ』を回収しに来たのか?」
「――――――――」
沈黙こそが答えと言わんばかりに、巨人は石畳を割り砕くほどの踏み込みで加速。それは超重量級の突進となる。
黒の少女は予期していたのだろう、油断なく黒剣を構え直す。
だが、槍の切っ先は少女でなく、――――星に向いていた。
次の瞬間、黒髪が散った。
「くーちゃん!」
吹き飛ばされた勢いのままに、少女の身体は屋上の高いフェンスを突き破って落下した。
金属質な高い音を鳴らして、黒剣がフェンスの側に落ちる。
穴の空いたフェンスと星の間に巨人が立っていた。
もしも、あの瞬間に割って入った少女が突進の方向を逸らしていなければ、屋上から転落していたのは星の方だ。
巨人は遥か頭上から彼女を一瞥する。陽炎に紛れて視線も表情も読めないのにそれは理解出来る。刹那の間に氷崎星を捉えたのは紛れも無い『死』そのものだ。
「さて、お前は何だ?」
男とも女とも判断つかない声音。台詞とは裏腹に欠片程の興味も感じられなかった。
「氷崎星。ちゃんと覚えといてくださいね」
彼女は一歩足を開いて、腰を落とす。
帽子やリュックを置いてきたのは結果的に正解だった。少なくとも多少身軽になれる。
槍の先端が血のように閃いた。その光が真横に裂かれれば、間違いなく殺される。それは彼女が一番理解している事だろう。
星は相手を見据え、さらに姿勢を低くする。
重量感のある金属音。全身に揺らめく陽炎の中、ガントレットとグリーブだけが実体感を残している。
槍が動き出すより一瞬早く、星は走り出す。
秒と満たぬ間に彼女の立っていた石畳が抉り取られる。
向かうは穴の空いたフェンスの下。身を低くし滑り込むようにして、黒剣を拾う。
遠目に見た通り、鍔や柄も全てのパーツが純色の黒だ。重さも握り心地も不思議と手に馴染む。
休む間も無く二撃目が飛んでくる。頭上からの重い一撃。だが、今度は徒手ではない。柄に対して切っ先を滑り込ませて逸らす。先刻少女がやったように。
両の手から痺れが伝わって来る。中高と続けた剣道で経験した打ち合いの比ではない程の激しい衝撃が彼女を襲う。それでも、耐え切った。
星は手のひらから全身に、強烈な熱が広がっていく感覚を知覚していた。竹刀を握っていた頃には感じた事のない、身体が黒剣の一部になったような一体感だ。
巨人は面白そうに陽炎を歪めて、刺突の構えを取る。
先刻あの少女が紙のように吹き飛ばされた攻撃だ。星の力量ではこれを受け切れないだろう。
――ならば、躱し続けるまで。
巨体が飛び込んでくる。踏み切りだけで石畳を穿つ勢いだ。
それを横に飛んで避ける。目算では、十二分に余裕のはずだった。
しかし――。
「がっ……ぁ!」
ジャケットごと左肩を裂かれ、血が滴る。
何故――そう考える間もなく唐突に、異様な脱力感に襲われる。流れた血で柄が滑り、剣を取り落としてしまう。
左手に力が入らない。
貧血にでもなったかのように体がふらつく。意識が浮き上がるような気持ちの悪い感覚に、堪らず膝を付く。
すぐ側で煉瓦を踏みしめるざらついた音がする。
この状態では、次を避ける事は叶うまい。
しかし、彼女は立ち上がる。覚束ない足取りであっても、瞳に宿る闘志はまだ消えていなかった。
「ふむ?」
陽炎の巨人が首を傾げる。明確に言葉を発するのはこれが二度目か。
そして、同時に下される容赦のない連撃。
左足への一閃を背後に躱せば、右足を掠める。次の狙いは頭。身を捩って回避したつもりが、どういう訳か内腿を切り裂かれている。理不尽で不可解な事象が立て続けに起こっている。そして槍が身体に触れる度、力を吸われていくような脱力感に襲われるのだ。
足を削がれた星はついに捉えられ、脇腹を抉られてしまう。
「……ぎっ、ぃ……、ああ……っ!」
喉の奥から苦悶の声が漏れる。
だが、今度は膝を付かずに持ち堪える。傷は浅くないものの、決して致命傷ではない。
攻撃動作はぎりぎりだが目で追えている。視線は無理でも、槍の軌跡は読んで回避しているはずなのに、結果だけが何故か一致しない。
星は相手への警戒を怠らず、荒くなった呼吸を整えるために息を深く吐いた。
足元に血溜まりができている。
「――ちょっとズルしてるっぽいっすねぇ」
「随分と足掻く。愚かなれど、見苦しくあれど、儚いものだよ」
星は震える唇を噛み、少年のように笑い掛ける。
「名前、覚えてくれる気になりました?」
不意に巨人が槍を突き出す。これが答えだと言わんばかりに。
星は殆ど力の入らない右足に鞭を打って石畳を蹴り、最小限の動作で身体を左に運ぶ。
身体一つ分ずらせば避けられる。さっきからそういう間合いで回避を試みて、失敗してきた。
――ならば、と。
傾きかけた身体を左足で強く踏ん張って支える。
真っ直ぐ心臓を狙った攻撃に対して身体半分ずらしただけである。知覚している通りなら、右肩を深く切り刻まれるだろう。
しかし――いや、やはりというべきか。結果はそうならない。
星の左肩から、チェック柄のウールが舞い上がる。それは、マフラーの一部だ。
星の視覚情報によれば確実に槍が右肩を貫通しているのだが、現実は血の一滴も流れていなかった。
異常な現象に吐き気を覚える。しかし、僥倖にもまだ生きている。
巨人は初めて、感情らしい感情を表現するかのように、大仰に肩を竦めて見せる。
「勘が良いじゃないか」
「なんとなく。ずっと、騙されてる気がしてたんですよね」
「はははははは」
――笑った。
くぐもった抑揚の無い音、しかし間違いなく目の前の巨人から発せられた哄笑だ。
「憐れなり。抵抗しなければ、もっと楽に死ねたものを」
赤黒い陽炎の奥に一瞬だけ眼光が覗く。そこに刻み込まれるは、文字を象ったような複雑な印。
巨人が無造作に槍を振りかぶる。夕陽の中にあってなお深く艶やかな紅が、星の首を目掛けて振り払われる。
星の読み通りなら、視認できる槍の軌跡を意図的に錯覚させられるという絡繰だ。だが、今の星には仕掛けを打ち破る手段も、あの超重量級の突進を回避する手段もない。
それ以前に、今この瞬間の危機を凌がなければ後がない。先程と同じ手は確実に通用しまい。
せめてもう一度、黒剣を――。
刹那、上空から一閃。
「っあああ!」
横薙ぎに払われた槍に対して、黒の少女が割って入る。
細身の直剣を垂直に立てて持ち堪えている。黒剣と対を為すかのような純白の鍔から伸びる鈍色の剣身。
少女は星に厳しい視線を向ける。
「早く、逃げろ!」
「でも、その怪我……っ」
「どうでもいい、この程度すぐ治る。……っ、ぐ」
先程に比べて剣を支える力が弱い。
当たり前だ。一度は7階の高さから地上まで落下しているのだ。動けるのが、そして自身より遥かに巨大な相手と渡り合っているのが不思議なくらい、少女は全身に重傷を負っている。頭から血を滴らせ、白かったワンピースもあちこちが破れ煤けていた。
「急げ。はっきり言う、君は邪魔だ」
髪が乱れて表情は窺えなかったが、拒絶の意思は明確に伝わる。
「健気よな。余程その娘が大事と見える」
巨人はそう呟くと、槍を引いて背後に跳び上がり、屋上と学舎内を繋ぐ唯一の出口である半球状の建物の上に着地した。
「しかし、所詮は獅子身中の虫。己の宿業すらも知らぬ半端モノだ」
不意に陽炎が噴き出すように、揺らめきながら周囲の空間を侵食していく。
それは屋上を、総合学科棟を覆い隠すように広がる。
忽ち景色が赤色に染まった。
***続く***
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