第一章 三話

 地上とは全く異なる空気にビオスは幾らか息苦しさを感じていた。

 喉の粘膜が渇いて呼吸がしづらく、気道の壁が貼りつくような違和感。ただでさえ、先程まで空腹と疲労で倒れていたのだ。加えて、生きたままでの冥界入りは敵地に泥水を投げ込むようなもの。冥界という地に歓迎されていない様子であることは、体内に流れる血が全身を伝って教えてくれている。

「ビオス、具合い悪い?」

 繋いだ手が震えている。見れば、顔の血色も悪く足もおぼつかない様子だ。

「大丈夫? 少し休もうか」

「……っ、悪い……助かる……」

 砂の大地が広がる地上とは大きく変わり、冥界は土の壁と石が転がる世界。アヌビスはどうにか腰掛けられそうな場所にビオスを誘導して、彼の足を止めさせる。

「ごめんね、ビオス……苦しいよね……」

 恐らくこうなるだろうことを、わかっていなかったわけではない。しかし、あの場でビオスを放っておくこともできなかった。

 彼の呼吸が途切れる様子が、アヌビスの心臓を震わせる。

「……水とか、……ないか?」

 冥界入りをしてから実際に歩いた距離は大したものではないが、元より集積していたひどい倦怠感と疲労感。そこに加えられた喉への違和感に、食べるものはともかく、今はすぐさま喉を潤したい。ビオスはやっとの思いで口を開いた。

「少しだけ、ここで待っていて。この先に川があるんだ。水を汲んでくるよ」

 そう言って、何かよさそうな器がないかとアヌビスは周囲を見返した――ちょうどそのとき。

「アヌビス、止まりなさい」

 彼の動きを止める声が場に響いた。ぴくりと肩を震わせて、アヌビスはその声の在りかへと首を向ける。

「生きた人間を冥界に連れてくるなんて、一体どういう気なの?」

「……ハトホル、なんで」

「あなたは誰の乳で育ったのかしら。そんな耳飾りひとつで、私の目を誤魔化せると思ったの?」

 ハトホル――そう呼ばれた女性がアヌビスの前に立っていた。彼女もまた、彼と同じく神である。背中まで伸びた赤茶色の巻き髪が艶やかで美しい。

「……勝手なことをしてごめんなさい。でも、今は見逃してほしい」

 ともだちなんだ、眉を下げて言うアヌビスに、ハトホルは答える。

「王ではない私に、それを言われても困るわね」

「なら、どうして呼び止めたの? 冥界に人間を連れてきたこと、怒るんじゃないの?」

「そうね。本来なら地上に帰りなさいと言うところだけど、腹を空かせて、かつ苦しむ子どもを前にそれはできないわ」

 そう言うと、ハトホルは抱えていた水甕の中身を椀にひとつ注いだ。

「飲みなさい。楽になるから」

「ハトホル……!」

 差し出された椀の中には白く濁った液体が揺れている。ビオスは躊躇う様子もなく受け取ると、すぐさま口に含んだ。

 上の国では乳はとても貴重品で、滅多に飲むことができない。最後に飲んだのは、今よりもずっと小さかった頃だ。嬉しそうに部屋へ運んで来てくれた日の、母の顔が浮かんだ。

 飲み干した液体は、そのときの動物の乳の味に似ていた。

 思えば、ここは冥界――死した者が行く世界。ならば自分の母もどこかにいるのだろうか。もしかしたら、また会うことができるのではないか、なんて、そんなことを考えてしまった。

「ビオス、大丈夫?」

 アヌビスが心配そうに確認すれば、空になった椀を持つ手の震えが止まっている。ハトホルはふたりの様子を見て、それから一歩詰めるとビオスの頬を両手で包むように触れた。

「平気そうね。呼吸、落ち着いたでしょう?」

「……ああ、助かった。……これは、神が飲むものなのか? 乳のような味がした」

「私の乳よ。でも、誰が飲むものと決まりはないから安心なさい」

 神であろうが人間であろうが、与える相手に区別はないと彼女は言う。しかし、ここ冥界で死者に乳をくれたことはあっても、生者相手はさすがに初めてだと笑った。それを聞いて、アヌビスは申し訳なさそうに頭を垂れている。

「ありがとう、ハトホル」

「母性を司る女神として、当然のことをしただけよ」

「……母性?」

「ええ、私は普段地上にいるけれど、こうしてときどき冥界にも来るの。冥界へ向かう、迷子の死者を誘導する役も負っているわ」

 腹を空かせた者には乳を飲ませ、死者を冥界へと誘う。人間の生から死までを面倒見る――ハトホルとはそういった女神だ。

「だからね、あなたのように腹を空かせた子ともは放っておけないのよ」

 ハトホルはそのままビオスの瞳を覗き見た。

 オリーブグリーンは微かな淀みを見せていた。これは同じ神であるアヌビスですら気付くことのなかった色だ。その色に、彼女はビオスの未来を予測する。

「……オレに何か?」

「いいえ、綺麗な瞳の色ね。まるでナイルのようだわ」

「母親と同じ色なんだ。これだけは自分でも気に入ってる」

「……母親は?」

「死んだ、少し前に」

「そう、なら……運がよければ会えるかもしれないわね」

「……そうだと、いいな」

 ビオスの言葉を最後に、ハトホルはようやく彼から手を離す。それから次にアヌビスへと向き直った。

「あなたが人間をここへ連れてきた、それにはきっと理由があるのでしょう。ならば私はそれを聞かないし、咎めない」

「ありがとう、ハトホル」

 これは絶対にしてはいけないことだ。それはアヌビスもよく分かっている。オシリスやトトにでも知られたらきっと怒られる。けれどせめてビオスが大人になって、地上で一人でも生きていけるようになるまでは一緒にいたい。

 地上では神と人間は共存している。それなら例えここが冥界でも、場所が違うだけで同じことではないか。

 アヌビスの想いを感じ取ると、ハトホルは空間に黄金の箱をひとつ呼び出した。蓋に散りばめられた、たくさんの瑠璃色が特に美しいこれは、地上にある、自身の神殿に置いてあるもの。彼女はそれをビオスの手に持たせてやる。

「これは?」

「私の乳で作った菓子よ。冥界で生者が暮らすことは決して楽ではないでしょう。呼吸が苦しくなったら食べなさい」

「わかった、……ありがとう」

「それからアヌビス」

「はい」

「たまには地上に顔を出して、彼に外の空気を吸わせなさい。呪文はあなたしか知らないのだから。それと、道中危険がないようしっかり守るのよ」

「うん、わかってる」

 冥界をひと回りしたら地上に帰ると言ったハトホルと別れて、ふたりはもう一度歩きはじめた。目的地はアヌビスが生活をしている部屋だ。川を渡った、更に向こう。

 光はない。けれど土の壁に備えられたいくつかの灯りがふたりの進む道を映してくれる。アヌビスは暗闇からビオスを守るように、繋いだ手をずっと離さなかった。


 *


「どうした? 珍しい顔色をしているな」

 夜が更けて、神殿に戻ったハトホルを迎えたのは彼女の夫だった。ホルベヘデティという名の男神は、葡萄酒を注いだゴブレットを片手に、妻の艶やかな髪へ指を絡ませている。

「あら、いい色。私にも一杯頂ける?」

 ハトホルが言うなり、男はゴブレットを傾けると、口移しで彼女の中へ葡萄酒を送り込む。ハトホルはそれを飲み込むと、一度小さく息を吐いて冥界で起きたことを語った。

「アヌビスが、人間を冥界に連れてきたのよ」

「ほう、お前はそれを許可したのか」

「そうね……見逃した、といえばそうなるのかしら」

 妻の表情が変わらず浮かないことに、ホルベヘデティは言葉を詰める。

「何か見たのか?」

 問いに、ハトホルは一呼吸置いて答えた。

「……あの子は、そう長くないわ」

 ビオスが持つオリーブグリーンの瞳には淀みが見えた。このエジプトの世界において、それはつまり〝死〟を意味するもの。

「じきに死ぬ人間だから、自由を許したと?」

「違うわ……あの子が、初めて他人を友だちと呼んだの。自分自身で誰かを助けたいと思ったの。なら私はそれを見守りたいと、そう思っただけ」

 それに、アヌビスとビオス、ふたりの罪を咎めることができるのは地上の王であるオシリスのみ。古い神といえども、自分はそこまでの権力を持っていない。

 言いながらハトホルは夫から離れ、神殿の一番奥の部屋――寝室のベッドへと身体を沈めた。

「人間は皆、神の子ども……誰もが等しく神に愛されるべきなのに……」

 冥界で出会ったビオスの身形は、その出生地の悪さを見事に表していた。あれはオシリスが治める下の国の人間ではない、セトの国の者だ。もう今までに何人も見てきた。だが、ハトホルは気付く。上の国の死者が、冥界に暫く姿を現していないことに。

「ホル! あなた!」

 ハトホルは急ぎ夫を呼んだ。


 *


 壁一面を覆う大きな書架が見事だった。

 連れられたアヌビスの部屋はこぢんまりとしていて、神が暮らす家と言うからには豪華絢爛な様を想像していたが、しかし、反してその大きさは逆にビオスへ安心感を与えてくれた。

「お腹空いてるよね? パンは……昨日の残りでよければあるから、それ食べて」

 着くなり、机の上にある籠に入れられたパンをアヌビスは指差す。

「ああ、いや……それが減ってないんだ。あんなに空腹で死にそうだったのに、さっきもらった乳を飲んでから腹は一杯だ」

「それならよかった。そしたら着替えた方がいいね。それと、水浴びも」

 アヌビスは棚から白い衣を一枚引っ張り出した。それから水浴びができる場所を案内すると言って、ビオスの手を引く。

 川は部屋のすぐ裏にあった。着替えと手拭い代わりの布を渡されると、ビオスはすぐに汚れた衣服を脱ぎ落とす。おそるおそる、まず足首までを浸ければ、最初は少し冷たいと感じた水温だったけれど、それはすぐに心地よさを運んでくれた。両足を膝上辺りまで浸けて、腕と身体を洗う。

 水浴びをしたのはいつぶりだろうか。こんなにも、気持ちのよいものだったか。

 汚ならしくくすんだ全身の垢を落とすべく、彼は己の肌を強く擦った。

 水深は、一番深い場所で腰を隠す辺りのようだ。

「……生きてるんだなぁ、オレ」

 生きているのに、冥界にいて、冥界の川で身体を洗っているこの現状は、どう考えたって不思議でたまらない。

 ビオスは身体を水に預けた。四肢を水面に浮かせれば、天井は見えないくらいに遠かった。

「冥界の神に、オレは生かされたのか」

 こぼされた小さな声は、誰にも聞こえることなく、暗闇に吸い込まれていった。


 その後、水浴びから戻ったビオスは書架に並ぶ本を眺めていた。

「随分とすごいな。本、好きなのか?」

「トトが持ってきてくれるんだ。小さい頃ぼくは冥界から出られなくて、だから、毎日退屈しないようにって」

「トト?」

「知恵の神だよ。ぼくに、文字と言葉を教えてくれたの。あとは冥界で一緒にプシコスタジーしたり、地上では法や暦も司っていて……」

 そこまで言うと、突然アヌビスは瞳を輝かせる。

「この世界の文字はトトが創ったんだって!」

「へぇ……なんか、すごいな」

「うん! トトはすごいんだ! オシリスもゲブもラーの大爺ちゃんも、みんなトトを頼ってる」

 自慢げに話すアヌビスだが、それよりもビオスにはひとつ引っ掛かることがあった。

「なぁ……聞いてもいいか」

「なぁに?」

「いま、冥界から出られなかったって言ったか?」

 問いに、アヌビスの表情が曇る。

「ぼくは叔父上に嫌われてるんだ」

「叔父上? ……って、誰」

 聞いたところで、どうせ知らない神の名前だろう。しかしアヌビスから発せられた名に、ビオスの肩が震えた。

「……セト。きみがいた国の王だよ」

「セトが……叔父?」

「ぼくはオシリス神の子なんだ」

 オシリス――それはこの世界の人間であるならば誰もが知っている名だ。穏やかで優しく、心から民を愛する下の国を統治する神。

「オシリス王の……? ってことは、えっ、お前、王子なのか? じゃあなんで冥界にいるんだよ」

「王子かぁ……でも、ぼくの母はイシス女神じゃない。ネフティス女神の――叔父上の妻の子。えっと、だからつまり……」

「オシリス王とネフティス女神の……不義の子……?」

「そう。母上は叔父上の報復を怖れて、生まれたばかりのぼくを冥界に隠したんだ。それからずっと冥界で暮らしてる」

「そうだったのか……ああ、でも平気なのか? さっき地上にいただろ? あれはなんで」

「今は、少しだけなら大丈夫。もう赤ん坊じゃないし、実際昔の叔父上は優しかったし、なにかされたこと一度もないし」

 何よりトトが、地上という世界を知ることは大切だと言ってくれた。

 トトはアヌビスが一番尊敬する神だ。父母と離れて暮らすことになったアヌビスの師でありながら、また、誰よりも家族に近い存在であった。

「ぼくも地上に居場所はないけど、でも寂しくはなかったよ。トトもハトホルもいたから」

「そっか……恵まれてたんだな」

「うん、だからね、今度はぼくがきみを助ける番なんだ。ぼくはきみの、ともだちだから」

 アヌビスは嬉しそうに笑っている。神と友だちになったなんて、亡き母が知ったらさぞ驚くだろう。ビオスはこの冥界のどこかにいるだろう母を想った。

「なぁ、人間は死んだら冥界に来るんだよな?」

「そうだけど」

「それは、どのくらいの時間で? 迷うこともあるんだよな?」

「そこまでは、ぼくは分からない。ただ、迷子の死者がいれば、それはハトホルが連れてきてくれるから」

 冥界に来ることができないということはないと思う、アヌビスは答えた。

「……お母さんのこと?」

 そして、ビオスが下の国へ来たきっかけのひとつを思い出す。

「会いたい?」

「そりゃ、まあ……会えたらいいなとは思うけど」

「そっか……」

 可能性はゼロではない。真理の間であるプシコスタジーをする現場なら確実に死者を迎え入れる。けれど、さすがにそこへビオスを連れていくわけにはいかない。あの場にはゲブやトトもいて、死者の心臓を喰らうアメミトもいるのだ。ビオスの母親が生前どんな人間であったかアヌビスは知らない。だから、会えるといいね、なんてハトホルと同じ台詞を言うだけが精一杯だった。


 その日はアヌビスのベッドに並んで眠りについた。決して広いわけではないけれど、アヌビスがそうしたいと言ったから。ビオスは久しぶりに布団にくるまって――夢を見た。

 今よりもずっときらびやかな衣装に身を包んだアヌビスの姿。それはまさしく、神と呼ぶに相応しい、そんな様だ。

 冥界だろうか、暗闇に立つ彼の手には知らない杖が握られている。

 しかし、なぜか分からない。彼は泣いていた。上を向き、流す涙が頬を伝って足元へと落ちた。


 目が覚めたとき、夢の内容はすぐに忘れてしまったが、なんとなく喜びの感覚が胸に残っていて。その話をすると、アヌビスは笑いながら聞いてくれた。

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そして彼は神になる 藤川ウメ @chiharaume

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