第一章 二話
「きみを殺すことはできない」
それが神の答えだった。少年は顔色ひとつ変えずに、ただ短い息だけを吐き出す。それから一呼吸置いて、改めてアヌビスと向かい合う。
「どうせ死ぬなら早い方がいいかなって思ったんだけど、冥界の神様でも無理なのか?」
「……ぼくは、人の命を終わらせることが役割じゃないから」
「じゃあやっぱり、このままここで野垂れ死ぬってわけか」
起き上がらせていた背は諦めたように地に着いた。身体の両側へ落ちた腕が、無気力に音を立てて伸ばしていた影を消す。彼の表情が見えにくくなり、アヌビスは少年の脇腹付近まで距離を詰めた。その後で膝を折って、上から顔を覗き込む。
「きみは、どうしてそんなに死にたいの?」
オリーブグリーンの瞳に神の姿が映し出される。
頭ひとつぶん程度の距離、その近さに少年は驚いて思わず両目を見開いた。質問に一瞬だけ返答を探すように言葉を詰まらせて、それから負けじとまたアヌビスを睨みつける。
「じゃあ聞くけど、食べるものも金も仕事もなくて生きる意味があるのか? 神様は衣食住に困らないだろうけど、人間は違うんだよ。オレたちは、水が飲めないだけで簡単に死ぬんだ」
少年が発したこの言葉に、アヌビスの双眸が揺れた。
「……それは確かに、きみの言う通りだと思う」
冥界には赤ん坊や小さな子どももたくさんいた。魂は、この先もずっと生きたいと言っていた。成長して、大人になって、家族を作って、土地を繁栄させていく。それが人間という種であるのに、突然、病気や事故で命を絶たれてしまうのだ。
人間は脆い生き物だ。アヌビスはそれをよく知っている。けれど、だからこそ、この少年を見捨てることなどできなかった。
「……それなら、ぼくと一緒に行こう」
瞬間、少年の顔色が変わった。突然の言葉に、その意味を理解できない様子でいる。少年の表情の変化にアヌビスは気づいたが、気に止めず言葉を続けた。
「きみは死にたいんじゃない。生きたいんだ。……だって、そうじゃなきゃここまで歩いてなんてこないでょう?」
「……っ」
少年の瞳に薄く涙が滲んでいく。
だってアヌビスの言う通りなのだ。殺してくれと言った手前、本心を突かれてしまい、ああ、悔しいなと思ってしまう。少年は涙を見られないように、咄嗟に腕で両目をお覆い隠す。
「……一緒に、って……どこへ」
それから単純な問いかけをひとつ。冥界の神が暮らす場所が、果たして地上にあるのだろうか。けれど返ってきた答えは、人間である少年にとっては思いもつかないものだった。
「ここの下……だけど」
「……下って?」
「冥界だよ。地上に生きる場所がないのなら、ぼくと一緒に冥界で暮らせばいいんだ」
「……生きてる人間が、どうやって死者の世界で暮らすんだよ。やっぱりオレを殺して連れていくのか?」
どうにか涙を抑え込むと、少年は身体を再度起こして怪訝そうにアヌビスを見た。対するアヌビスは、自身を彩る手首から指へと繋がる金色に目を配って、そして。
「これを」
耳飾りをひとつ外した。それからすぐに、それを少年の右耳につけてやる。
「えっ、な、なんだよ!」
「ぼくはきみを殺さないし、死なせない」
「……はぁ? おまえ、さっきから何言ってんだ」
「ぼくは冥界でたくさんの死を見てる。……死って、理不尽なものがすごく多いんだ。だから、死にたいとか殺してほしいとか、そんなわがままできみを死なせるわけにはいかない」
先程互いに顔を合わせた瞬間の、おどおどした姿は見間違いだったのだろうか。それほどにアヌビスの言葉ははっきりと形を持って、彼が人間の死に携わる神であることを認識させる。
少年は自身の右耳へと手を動かして、指先で確認するようにそれを撫でた。
「……オレは人間だぞ、……いいのかよ、こんな」
「だからだよ。これがないと生者は冥界に入れないから」
「神に扮するってことか?」
「うん、まあ……そんなところ、かな」
右耳に揺れるのは、アヌビスの左耳にあるものと同じ黄金色。
これは神を象徴する色である。それを人間である自分が身に付けていることに、どうしたって戸惑いは隠せない。けれど――。
「お揃いだね」
アヌビスが笑うから、その思いは不思議と高揚感へと変わっていた。地上ではない場所で生きるということは、全くの未知の世界だから。それに、この神の傍ならもう少しだけ生きられる気がして。
汚れた少年を飾るたったひとつの黄金は、闇へと変わる大地の上で煌めいている。
「……きみの名前は?」
「……ビオス」
「ビオス……ビオスっていうんだね」
この少年を放っておけなかった。その彼の名をようやく知って、アヌビスの頬がまた緩む。
「ああ……アンタは……あーっと、悪い、何だったか?」
「ぼくの名前は、アヌビス」
「……そうだったな、アヌビス」
少年――ビオスもまたアヌビスに釣られて、長いこと強張らせていた顔の筋肉をようやく綻ばせていく。
アヌビスの脳内では、いつだったかトトから借りた本で読んだ物語の内容が思い出されていた。敵国に囚われた友を助ける、男同士の友情ものだ。彼らふたりの関係を、確か本の中ではこう呼んでいた。
「ともだち……」
「は? 何だよ、急に」
「うん、今からきみとぼくは、ともだちだ!」
「……ともだち?」
「そうだよ」
そう話すアヌビスの背後で、ふいにエラトマが、その背に呼びかけるようにして大きく吠えた。
気付けば、ビオスの背の向こうで沈む太陽は今や夕闇となり、ふたりの影を黒く侵食している。
「あっ、そうだ! 時間が!」
西の空色にアヌビスは慌てる表情を見せて。はぐれないようについてきてとビオスの前へ右手を差し出した。それを取って、彼は神の隣に立つ。
背丈はほぼ同じなのに、自分よりも随分と痩せた手だった。まともな食事も水分も摂れていなかったことがよく伝わってくる。骨に気持ち程度の肉がついたくらいの、ビオスの手をアヌビスは少しだけ力を込めて握る。それから冥界へ繋がる呪文を唱えて、数歩ぶん離れた場所で見守っていたアレティとエラトマへ首を向けた。
「行ってきます」
その声は、彼らが今までに聞いたことのない音だった。
ともだちを得たアヌビスの後ろ姿を、完全に消えるまで二匹は腰を地に下ろしたまま見つめていた。
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