小狐と幸せの綿毛

葵月詞菜

第1話 小狐と幸せの綿毛

 長い長い残暑がようやく落ち着いてきた気がする。気付くと日が暮れるのはあっという間で、吹き抜ける風がヒヤリと涼しくなったような気がする。


「昼間はまだ日差しがあると暑いくらいなんだけどなー」


 とある土曜の午後、初音はつねはお使いの帰り道、ゆっくり土手を歩いていた。左手に見える河川敷では、少年たちが野球をしていたり、親子連れがボール遊びをしたりしていた。

 本日は晴天、日差しがあって暖かい。ぽかぽかした空気の中にいると、歩いているのに瞼が落ちて来そうだった。


「おーい、ふらふらしてると転げ落ちるぞ」


 後ろから聞こえた声にはっとして振り返ると、そこには昔馴染みの青年が当たり前のように立っていた。

 普段すぐには会えない場所にいる彼の姿に、初音はついに白昼夢でも見ているのかと思った。だが、彼は呆れたように初音を見下ろし、彼女の頬を軽く摘んだ。


「寝惚けてんのか?」


 微かな痛覚が初音を現実に引き戻す。一気に眠気が吹っとんだ。


「……え、本物!?」

「オレの偽物がいるのか?」

「え、いや、えっと、だって……キリちゃんがこんなとこいるなんて」


 思えばこの八霧やぎりという青年はいつも神出鬼没だ。連絡をしても返答があるとは限らないし、待ち望んでいる時に来ないし、逆に思ってもみないところで当然のように現れる――今この時のように。


「大学はどうしたの」

「もう後期の授業はゼミしかないから。ちょっとこっちに用があって戻って来てたんだ」


 だったらなぜ初音に一報をくれなかったのだろう。いつものこととはいえ、恨めしい気持ちにならざるを得ない。


「で、初音はおつかいの帰りか? 何を買ったんや?」

「うわ!」


 独特のイントネーションの言葉とともに、八霧の後ろからひょっこり出て来た小さな獣。

 思わず声を上げてしまった初音は、見覚えのあるその不思議な動物をまじまじと見た。

 小狐だ。――ただし、二足歩行で目の前に立ち、コートのような衣服に身を包み、毛糸で編んだ小さな鞄を斜め掛けにしていた。


「また来たの、きつねさん!」

「おう、夏のお祭り以来やなあ。元気しとったか?」


 まるで友人のように話しかけてくる小狐に違和感を抱かなくなっている自分が少し不思議だった。もしかしてやっぱり白昼夢を見ているのだろうか。

(いやいやいやいや)

 今度は自分で頬をつねってみる。どうやら夢ではないらしい。


「どないしたんや、初音?」


 初音の動作に小首を傾げる小狐はますます人間臭い。

(もういいや……)

 どうせ考えてもこの小狐のことは分からないのだろうと諦める。

 だがここに小狐と八霧が一緒にいることは、何か理由があるのだろう。元々この小狐と出会ったきっかけも八霧を介してのことであった。


「で、キリちゃんときつねさんはここで何をしてるの? どこかに行くとこ?」

「いや、オレたちは河川敷に用があって」

「河川敷に?」

「あ、キリ、あっちにあるで!」


 小狐が少し先の方を前足で指す。つられて視線を向けると、広場の向こうに白い海が見えた。

 太陽の光の下で、ススキが風に揺れていた。さわさわさわと、波立つ音が微かに耳を打つ。

 小狐は途端に目を輝かせて、タッタと駆けだしてしまった。

 八霧が苦笑しながら後を追って歩き出したので、初音も何となく並んで歩く。


「きつねさん楽しそうだね」

「全くだな。なんかススキが見たいって言って急に現れたんだよな」

「私にとってはキリちゃんが神出鬼没だけど、キリちゃんにとってはきつねさんが神出鬼没なんだね」

「あはは。オレのことはおいといて、確かにあいつはそうだな」


 八霧の方も、まるで小狐を昔からの友人のように言う。彼にとっては初音も小狐も等しい存在なのかもしれない。


「それにしても何でススキ?」

「さあなあ」


 八霧とともにススキの海の前を目の前にする。小狐はすっぽりとその海の中に沈んでしまって姿が見えない。


「あ、あの辺だな」

「何で分かるの!?」


 八霧には小狐がどこにいるか分かったらしい。堤防を滑り降りてススキの中に飛び込んでいく。初音は一瞬どうしようか迷ったものの、彼の後ろを追いかけた。

 八霧を見失わないように、彼の服の裾をそっと握る。背の高いススキの穂の間をサクサクと進んで行く八霧の足は迷いがない。すぐに小狐の元に辿り着いた。


「キリ、あったで!」


 小狐がキラキラした目で言う。八霧がすぐそばにしゃがみこみ、初音もその傍に寄った。

 ススキの中に紛れるようにして、背の低い綿毛の植物が生えていた。


「これは? ……たんぽぽの綿毛?」


 そう、見た目はたんぽぽの綿毛に似ている。だがたんぽぽの綿毛はこの季節だったろうか? そして、色が独特だった。


「何これ、レインボー?」


 ススキをかき分けて日の光があたると、その綿毛の植物は虹色に輝いたのだ。白っぽく見えていた綿毛も虹色に光を反射している。


「何なんだこれ」


 八霧が改めて小狐に問うと、小さな獣はえっへんと胸を張った。


「幸せの種や!」

「……」


 初音と八霧は思わず顔を見合わせた。どういう意味だろう。


「この植物は希少でな、多くはススキの中に紛れたごく一部に生息してるんや。綿毛になる前に見付けたらそれは用途多様な甘味にも薬にもなる。わいたちの世界では『幸せの種』言われてるんや」

「はあ」

「毎年綿毛は自然と飛んで行って拡散されるんやけど、それが着地した土地で無事に根付く確率は低くてなあ。でも、見つけた誰かがふうっと吹いてやるとちゃんと根付いて育つ言われてるんや」

「へえ」


 初音にはただのレインボーに光る綿毛にしか見えない。八霧を見てきく。


「キリちゃんは知ってた?」

「知るわけないだろ」

「だよね」


 小狐は嬉しそうに綿毛を見つめている。どうやらこの狐にとっては間違いなく「幸せの種」のようだ。

 少しして、小狐はその綿毛の植物の茎を折ってこちらに向けた。初音分と八霧の分、二本あった。


「ほんでな、人間がこれを吹いて飛ばすとさらに良い言われとるんや。その人間から、人間の世界で生き抜く力を得られるんかもしれへんなあ。というわけで、ほい」


 思わず一本受け取ってしまった。困ったように八霧を見ると、彼は興味深そうに茎を回しながら虹色に光る綿毛を見つめていた。


「あと、幸せを祈りながら吹くと、二人にも良いことがあるかもしれへんな。……知らんけど」

「知らないって何!」


 小狐はあははと笑って誤魔化した。本当か嘘かは分からない。


「ねえキリちゃん、本当かなあ? ってもう吹いてる!?」


 見れば八霧はすでにふうっと綿毛を飛ばしていた。半分ほどの綿毛が虹色に輝きながら空に舞っていく。


「おおー、ホントたんぽぽの綿毛みたいだなー。何か懐かしい」


 しかも案外楽しんでいるようだ。初音は八霧と、飛んで行く綿毛と、自分の手元で吹き飛ばされるのを待っている丸い綿毛を見比べた。

(このまま持っていても仕方ないし……)

 初音は息を吸い、綿毛にふうっと吹きかけた。音もなく綿毛が空に舞い、虹色に輝く。

 まるで虹の欠片がキラキラと飛んでいくようだった。

 折角なので、良いことがありますように、幸せがやってきますようにと祈っておく。


「よっしゃ! これできっと大丈夫や!」


 何が大丈夫なのか謎だが、小狐が満面の笑みを浮かべて言うので黙っていた。


「じゃあわいはもう行くわ! 付き合うてくれておおきに!」


 小狐はあっさりそれだけ言うと、さっさとススキの中に消えて行ってしまった。


「え、ちょ、待っ……」

「はいはい、またなー」


 突然すぎて呆気にとられる初音をよそに、八霧は慣れたように手を振っている。


「……ねえキリちゃん、一体何だったの」

「さあなあ」


 八霧は小さく笑い、ススキの白い海を見渡した。


「まああいつらが言う『幸せの種』が上手いこと拡散されて根付いてくれたならそれでいいんじゃないの。オレたちにはどんなメリットがあるのか知らねえけど」

「うん、まあ、ただ綿毛を飛ばすくらい何でもないんだけどね」


(まあこれできつねさんたちが幸せになるならいいか)

 納得したとは言い難いものの、無理矢理そう思うことにする。


「そういえばキリちゃんはちゃんと幸せを祈ったの?」

「んー。とりあえず無事に卒論が書き終わりますように、って」

「それ普通に個人の願い事だよね?」

「オレの幸せには繋がるよ」

「そうだね……」


 もうツッコむ気も失せて話を畳むことにする。


「さて、初音はお使いの帰りだったっけ? お前のことだからお菓子も買ってるんじゃないかなあと推理する」

「! ……当たり、だけど」

「じゃあおやつタイムにしようか」


 良い年をした大学生が女子高生のおやつにたかるとは一体どんな了見なんだろう。


「飲み物はキリちゃんの奢りね!」

「はいはい」


 また八霧の服の裾を掴みながら、ススキの間を抜けていく。

 散歩は予定よりもだいぶ長くなってしまった。


 それから約半年後、初音の元に『良いこと』がやってくるのだが、それはまた別の話である。 

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小狐と幸せの綿毛 葵月詞菜 @kotosa3

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