2日目
第8話 Jane Doe
もう朝が来た。
名も知らぬ彼女は朝焼けの中、帰って行った。
名残惜しそうに……
好意的に考えれば、俺と話したそうに……
違う……妄想だ……
そんな事は……
今まで俺が散々してきたヤツだ……
勝手な思い込み……気持ち悪い……
それでも俺は自分に腹が立った。
一声でも掛けれない、自身の意気地無さに。
……
……
頭を振る……ダメだ!目の前の仕事を終わらせろ。
俺は彼女が来て、ほったらかしだった売上金の集計を始める。
考えてみれば、売上金を放り出したまま彼女の相手をしていたのだ……誉められた事ではない。
もう一度、売上を数え直す....札の間から硬貨が落ちる……120円……合ってる……勘違いだった。
売上げから明日……いや今日の釣銭と売上を作り金庫に収める。
そして顧客データが入ったPCをシャットダウンした。
PCの無停電装置が機能しているのを確認して、ヘルメットを片手に休憩室を出た。
売場を最短距離で勝手口まで歩き出て施錠し、勝手口横のSECOMのセキュリティを掛ける。
既に日が登りかけた冷たい早朝の外気を浴びる。
しばらく店舗外側を歩いて、ガチッとした造りの無人の返却BOXに着いた。
マスターキーを放り込み閉じる。
……ようやく帰れる……
従業員駐車場まで歩く。彼女の姿を想い描く……
俺より高い身長……
スラリとした脚……
小さい胸……
男性用の服装は華奢な彼女の肩には合ってなくて、手首で余っていた……
そんな事を想い……
あのチャンスを逃した俺の不甲斐なさは、悔やんでも悔やみきれない……
こんな事だから、俺は今でも『ドーテイ』なんだろう。
うつむきながら、バイクまで辿り着く。
HONDA製の250ccの単気筒バイクGB250クラブマン……クラシカルな細い車体が寂しげに立っている。
カフェレーサー然としたNortonぽい黒と金色のLINEが引かれたタンクと細いシングルシート。
今、俺が生きている90年代でクラシカルなバイクなら、YAMAHAのSR400が代表格だろう……周りの友人もカフェレーサーにカスタムしたSR400に乗って、儀式のキックスタートをどれだけスマートにこなせるかを俺に話した。御満悦だった。
俺のはセルが有るので親指1本有ればエンジンが掛かる。
こんな落ち込んだ気分の時はそれが有り難かった。
バイクに鍵を挿し込む。
寒い冬の屋外で1日放置した相棒は少々機嫌が悪く……エンジンの掛かりが悪い。
それでも、チョークを引いてセルを押すと、何事も無くエンジンが掛かった。
ホンの少しスロットルを捻り、エンジン回転数を上げる……しばらく我慢、相棒が目覚める迄。
そう正に相棒……最初、俺の趣味は音楽・映画・本だと言っていたが、まぁ、趣味と言えばバイクも趣味か?
唯一のアウトドアな趣味……だけど俺は基本的に通勤手段としてバイクを活用しており、カスタムの類いもしていない……だから趣味と言われれば語弊があるのかも……まぁ、どっちでも良い。
…… ……
そしてスロットルから手を離す……
チョークを戻す……
回転数が落ちたが、アイドリングは安定している。
そうなる事は分かっている……
コイツの事なら手に取る様に判るんだ……
暖機している間にヘルメットを被る……グローブを嵌める……
考えなくても全自動で作業は進む。
俺がグローブを着け終わる頃には、コイツの原動機は暖まって、既にいつでも走り出せる。
それも俺には判ってる。
彼女の事も、コイツ位、理解出来れば良いのに……
歯切れのよい排気音を小さく響かせて、俺の横で「早く走ろうぜ」と言っている様に微かに震えている。
コイツの馬力は多気筒のバイクには及ばないが、30馬力程度あり、思いの外高回転まで回るエンジンだった。
軽くて非力だが良く走る……軽量級ボクサーの様なバイク。
重くてパワフルなクルーザーの対極に居るバイク。
相棒に跨がる。
俺の股の下でコイツは生きている……その振動を感じる。
バイクは自動車とは違う……全く……共に走るんだ。
乗っているんじゃなく……一緒に走っている……俺はそう想う。
Nからgearを1に入れて、クラッチを少し繋ぐ……車体が動き出す。相棒の走りたくてウズウズしているのを感じる。
スパッとクラッチを繋ぎ……車体は滑り出す。
今年の晩夏に変えたばかりのタイヤは路面をしっかり蹴り、車体を進める。単気筒の断続的な加速……心地好い。
先程までの沈んだ気持ちも少しだけ晴れる。
今日は休みだ……このまま、出掛けよう。
眠気が出てくるには寒過ぎる。
いつもの俺のお気に入りの場所……早朝の交通量の少ないN市内を走り……伊賀市に入る。
信号機の少ない道を選んで走る。
エンジンの振動がまるで心臓の鼓動の様……
久しぶりの赤信号で停まる。
ドコドコドコドコドコ……相棒はスタンバイ状態「俺はいつでも飛び出せるぜ!!!」と言っているみたい。
俺は何処までも走れる様な気持ちになる。
コイツを只の機械では無く……相棒と感じる。
爽快……
軽自動車も持っているのだが、こんな感覚はバイクだけだ。
……
信号が赤から青に変わる。
クラッチを繋ぎ、スロットルを捻る……
俺に呼応する様にリアタイヤにトラクションが掛かり飛び出す。
太陽が気温を上げるが、バイクで走る俺の身体は風を浴びて冷える……それでも、仄かに背中に暖かさを感じて俺は道沿いの自動販売機の前で停まる。
暖かい珈琲を買う……正確にはコーヒー飲料だが……ブラックが飲めない俺は専らカフェオレ……ダサい……良い大人が……甘々な砂糖とミルクタップリのホットカフェオレ。
カフェレーサーに乗っていても、お洒落な喫茶店にバイクで乗り付ける勇気はない。
独りが良い。
冷めないように、ジーンズの尻のポケットに差し込んでまた走る。正面に入れておくと走行風であっという間に冷めるんだ。
鉄橋を渡り、川を左に観ながら走る……しばらくすると川岸を利用したキャンプ場が見えてくる。
砂利の駐車場に乗り入れてバイクを停める。
平日の早朝ゆえに客の居ないキャンプ場。
設備を使わないなら、入場は自由だった。
いつもの小高い丘まで歩く。
冬とはいえ、バイクを走らせていた時とはうって変わって日差しが暖かい。
丘に立ち……缶コーヒーを両手で掴む……暖かい。
缶のプルトップを起こす。
甘く苦いカフェオレの薫り。
徹夜で色々な事を体験した俺の腹は既に減っていて、甘いカフェオレは胃袋に染み渡る。
カフェオレを早々に飲み干して空缶をゴミ箱に落下。
バイクへ向かう。
休憩したいより、コイツと走りたい気持ちが上回る。いつもそうだ。
まだ原動機は暖かい。
グローブ越しにエンジンに触れ、寒さをまぎらわせる。
もうチョークは必要ない。
セル1発で起きる。
最初から絶好調……準備運動が終わった。
「行こうぜ!!!」相棒が言う。
俺の汚いアパートに向かう途中に気持ちいいカーブの続く山道がある。
わざわざ遠回りしてそこに向かう……いつものコース。
俺は走り出す……帰ったら寝よう。
貴重な休日だ。仕事の事は忘れて……
そして名無しの彼女の姿を想像する。
もう一度会いたい。もし会えるなら……
店に居れば……来てくれるかもしれない。
甘い期待……カフェオレ並みの。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます