第62話 歯車は回る
内側から感じる膨大な魔力の胎動を解き放てば、愛しい人をこの手に取り戻せる。彼は弱い自分が許せなかった。あの時、彼にこれだけの力があれば、愛しい妻は囚われる事も無く、あの何も無い平和な日常がずっと続いていたのだろう。
やがて、そこに子供が加わり、時に笑い、時に叱り、二人で慈しんで育んでいく当り前の未来が
たったそれだけのこと……
だが、それだけのことを彼は奪われた。忌々しい魔人の手によって彼の望む幸せは奪われ、使役され、屈辱に耐えて来た。
戦場に立ち、多くの罪も無い人をこの手に掛けもした。自らの幸福を取り戻す為に他者の幸福を奪う権利は誰にもありはしないことを彼も重々承知している。
彼が幸せになることは彼が殺した人達や残された人達は望みはしないだろう。
(それでも構わない。俺は……俺の進む未来を俺自身の手に取り戻したかっただけだ……それが罪と言うならば、甘んじて受け入れる。
喜怒哀楽が隆之の頭の中で浮かんでは消え、彼は何もかもを破壊したくなる衝動に駆られている。感情の高まりはそのまま魔力の奔流となり、周囲を震わせていた。
彼は
すぐ隣の部屋に愛しい妻が眠っている。
(エリーナ……長く眠ってたから疲れただろう……今、起こしてあげるから……一緒にヨルセンの村に帰ろう……もう、二度と君をこんな目に遭わせたりはしないよ……ヴァンも一緒だ……帰ったら、また皆で騒いでさ。一緒に踊ろうよ……)
溢れる涙で目の前が見えなくても、例え目を
ドアを開けば、季節の花に包まれた彼女はあの時と変わらぬままに眠っている。
どれだけ声を掛けても、どれだけ愛おしくても、触れることすら叶わなかった。
「ごめん……エリーナ……子供の名前はまだ決めてないんだ……」
隆之がドアを開き、そっと語りかける。しかし、其処(そこ)に居る筈の妻の姿が無い。
目の前には少年がいて、隆之に声を掛けてきた。
「やっと、起きたのかよ、兄ちゃん……」
目の前の少年はヴァンだった。
そう……エリーナが居ない……
「エリーナ姉ちゃんなら先に帰ってるよ……
呆然とする隆之を置いたままヴァンは話を止めようとはしない。
「兄ちゃんが寝ている間に仲間がエリーナ姉ちゃんを連れ出したんだ。もう、兄ちゃん達が苦しまなくて良いんだよ。一緒にヨルセンに帰ろうよ……兄ちゃん!」
目の前でヴァンが泣きながら隆之に話し掛けてくる。だが、ヴァンとは対照的に隆之の目は酷く冷めている。
(ヴァン、何を言ってんだよ……何を勝手にやってんだよ……仲間? 誰?)
「ヨルセンに戻ったら、オットー公爵様が俺達を保護してくれるって約束してくれたんだよ!」
(ヴァン……お前が言ったんだろう? 貴族が約束なんか守るもんかって……公爵様が俺達を守る? 貴族が? 信じられる訳無いだろう……)
「だから、帰ろう……
ヴァンが隆之に語りかける言葉が隆之の心の奥底に響いていく。力の無いヴァンが自らの出来る精一杯の事をして、自分達を救おうとしてくれた事実のみを隆之は受け止めた。
(馬鹿……本当に馬鹿だよ……そんなに傷ついて……そんな傷ついた君を見たらエリーナが悲しむだろう……ヴァン、君は利用されただけだよ……きっと、君が死んだとしても君を此処に送り出した貴族は気にもしないだろう……でも、君はやっぱり勇者なんだな……勝てないよ……)
下を向いたまま泣き続けるヴァンを隆之はそっと抱き寄せる。ヴァンのあるべき姿を思い浮かべ、莫大な魔力で以ってその刻まれし烙印を消していく。上級魔人の中でも【爵三位】以上の限られた者しか使えない【蘇生魔法】を隆之は発動させていた。
「ありがとう……ヴァン……本当に嬉しいよ……俺と一緒にヨルセンに帰ろう……君は何も心配しなくて良い……エリーナが先に待ってるんだろう……何も問題無いよ……」
隆之の言葉に対して、ヴァンは激しく首を振って叫ぶ。
「ごめんよ! 兄ちゃん! 俺、本当は分かってたんだ……こんなことしたって何の解決にもならないって! 兄ちゃん達が帰ってきても直ぐに連れ戻されるって分かってたんだ! また直ぐにあの化物共がやってくるに決まってるのに……今度は
ヴァンの
ヴァンが隆之を救う為にその身を奴隷としたことも、ヴァンを救う為に隆之が自らを傷付けたことも、隆之を救う為にベアトリスが起こした行動の全てが起こるべくして起こった事象であり、全ては必然だった。
「ヴァン……君の行動は無駄じゃあ無いよ……ヨルセンの村の皆が死ぬことも無い……歯車は既に動き始めたんだ……それは誰にも止められないよ……」
「でも……」
「大丈夫……邪魔をすると言うなら……シンクレアだろうが、クラリスだろうが、俺が必ず殺すから」
隆之はヴァンに微笑むと二人の身体が眩い光に包まれた。
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