第63話 連理の枝

「ロックウェル! やばい! 起きろ!」


【ライオネル王国】へと向かう馬車の中でレティシアが焦燥に駆られていた。遠く離れた【スフィーリア】で莫大な魔力の波動を感じた彼女はロックウェルを叩き起こす。

 夜中に叩き起こされたロックウェルは寝ぼけ眼でダルそうにしている。


(冗談じゃあないよ……クラリスが遂に魔王に覚醒しやがった! あの【魔王まおう美酒びしゅ】は見た目二十代半ばだったから、これから二十年以上もの間、魔王が君臨するってのかい! カタールのあにさんを先に帰していて正解だったね……)


「何だよ……何がやばいってんだ?」


 事態を理解せずに能天気に話し掛けるロックウェルに激しい苛立ちを感じながらもレティシアは一直線にこちらに向かってくる魔力の波動に備える。


(【転移】かい……懐かしいけど、今の私じゃあ逆立ちしたって無理だねえ……何だってクラリスがこの娘に執着してるのかは分からないけど、そんなことを考えている場合じゃあない。さっさとこの場から逃げないと……)


 幌の付いた馬車の荷台の中に光が溢れ、次の瞬間には二人の男が目の前に立っていた。一人は彼らが一緒に連れて来た少年であり、もう一人はこの依頼のもう一人の目標だった。

 計画ではこの娘の身柄を餌に交渉の場を設け、その場で攫うはずだった【魔王まおう美酒びしゅ】が目の前にいる。だが、目の前の【魔王まおう美酒びしゅ】は数日前とは明らかに違う。

 溢れる金色の魔力の奔流が波打つようにその身体から溢れている。


「アンタ……何者だい……」


 乾いた喉を潤す為にレティシアは唾を飲み込み、【魔力障壁】に包まれて眠る娘を見つめたまま黙っている男に語り掛けた。

 レティシアの問い掛けに男はゆっくりと顔を上げる。


「少し、黙っていてくれないか? ヴァンに免じて後ほど話は聞く。今は先にすることがある。邪魔をするなら容赦はしない……」


 ぞくりとする視線にレティシアは寒気を覚え、ロックウェルは固まったままで動こうともしない。それはこの場において自らの命が自分の手を離れていることを意味していた。


「俺は……単なる人間だよ……弱い惨めな魔人の餌に過ぎない……奪われても何も出来ない……でも、ちっぽけな人間だって守る者がある……譲れない物がある……この力だって俺が勝ち得た物じゃあない……俺は弱いから……俺では勝ち得ないから……与えられた力だろうと利用するよ……それで大切な人が帰ってきてくれるなら……それで今度こそ大切な人達を守れるなら……起きて……エリーナ……もう二度と君を離さない……」


 男は独白しながらその右手から魔力を放っている。強大な【魔力障壁】にひび割れが生じ、耳障りな音を立てている。

 やがて、男の魔力に耐えられなくなった【魔力障壁】がレティシアの目の前で音を立てて割れ、閉じ込められていた娘が遂にその牢獄より解き放たれた。


◆◆◆


 夜深く、辺りは闇に覆われた森の近くの街道に一台の馬車が停まっていた。

 先程までは月と星の下で大人しくしていた一匹の蛾が馬車から溢れる光に誘われて、ひらひらと馬車の周りを飛び交っている。

 力強くも悲しい光は膨らんでは萎み、まるで閉じ込められし少女の歌う調しらべのよう……

 馬車の中で深き眠りから覚めた少女は自分を優しく抱きしめる愛しい夫に告げる。


「お帰りなさい……あなた……ありがとうございます……」


「お帰り……エリーナ……ありがとう……」


 二人が交わした言葉はこれだけだった。

 失われた幸せを再び手に入れることが出来たことに感謝を……

 今まで、少女は夢を見ていた。自分は夫の傍にいるはずなのに、声を掛けることが出来ず、少女に出来ることは見つめることだけだった。

 夫が傷付いても、嘆(なげ)いても、自分にはどうすることも出来なかった。何時いつでも壁に遮られ、慰めることも叶わない。

 ようやく、夫の苦しみを取り除くことが叶う。やっと、二人で歩むことが出来る。それが少女には嬉しい。

 夫の髪に少しだけ白い物が混じり、隣で泣いている少年は信じられないくらい大きくなった。

 きっと、少女の周りは目まぐるしい変化を遂げているのであろう。


 聞きたいことは沢山あるけど、話したいことも沢山あるけど、今はあの故郷に帰りたい。

 また、この人と二人で畑を耕し、採れた物を食べて、皆で笑い、皆で踊りたい。

 あの小川のせせらぎの冷たさを感じてみたい。春風が運ぶ花の香りに包まれたい。

 春も……夏も……秋も……冬も……巡る季節をまた二人で過ごしたい。

 ああ……自分は何と欲深いのか……

 この人と過ごす場所こそがまほろばと言うのに……

 この人に再び会えたら泣かないと決めていたのに……

 絶対に泣かないと決めていたのに……

 どうしてだろう……駄目……涙で貴方の顔が見えない……


「お願い……タカユキ……ヨルセンに帰りたい……皆に会いたい……もう二度と離さないで……もう耐えられないの……」


 エリーナが隆之を強く抱き締める。昂ぶった感情は彼女にはどうしようも無く、涙が溢れては止まらない。隆之の瞳からも涙が溢れた。


「ああ……エリーナ……三人で一緒にヨルセンに帰ろう。もう二度と君を離さないから……もう二度と君を悲しませないから……」


 隆之の言葉の終わりと同時に光が放たれ、レティシアとロックウェルの目の前で三人の姿が消えていった。


◆◆◆


 隆之達が消え去り、光源の無くなった馬車の中でレティシアは大きく息を吐いた。


「一体なんだったんだよ、あいつは?」


 脂汗をかきながらロックウェルがレティシアに問う。彼は魔人と対峙した経験があるが、先程の男はそれとは比べ物にならない存在であることが彼にも理解出来ていた。男は自分が弱い人間であると言ってはいたが、自分と同じ人間は間違ってもいきなり現れたり、消えたり等はしない。

 レティシアは馬車の奥にある私物入れから酒を取り出し、乱暴に蓋を開けると一気に飲み干してからロックウェルの問いに答えだす。


「【魔王まおう美酒びしゅ】さ……アンタも分かってるだろう……無限とも言われるその魔力の枷が解き放たれた正真正銘の化物さ。人間は勿論、上級魔人の手にだって余るね、アレは……考えてみれば、皮肉な話さ。【魔王まおう美酒びしゅ】によって生み出される【魔王】なんて奴も結局は【魔王まおう美酒びしゅ】のおこぼれを頂戴しているに過ぎなかったってことだよ」


 レティシアの言葉にロックウェルは愕然とする。


「魔王よりも強大な存在が生まれてしまった訳か……」


「そんなに心配することじゃないよ…… 【魔王まおう美酒びしゅ】も言っていただろう……自分は人間だって。少なくとも、こちらからアイツの大切な物に手を出さない限りは大人しいだろうよ。眠っている竜みたいなもんさ。しかも、お腹の満たされている竜さ。叩き起こされない限りは決して、怒ったりなんかはしないよ」


 空になった皮袋を乱暴に放り投げてからレティシアは言葉を続ける。


「まあ、人間って奴は竜が何時かは起きるかも知れない不安に耐えられないんだろうけどね……きっと、眠っている竜の尾っぽを好き好んで踏みつけてくれるだろうさ……」


 レティシアの言葉には人間に対しての多分の皮肉が込められている。

 レティシアは迷い込んだ一匹の蛾を優しくそっと拾い上げ、月と星の照らす夜へと解き放った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る