第59話 千里を越える

 壮麗な【アスディアナ宮殿】の奥にあるベアトリスの寝室の隣部屋は彼女の聖域とも呼べる場所だった。そこで彼女はメイドに紅茶を用意させ、午後の一時を寛いでいる。

 テーブルに用意された一客の磁器に淹れられた紅茶をベアトリスは正面を眺めながら口にしている。愛しい彼の人の為に用意された磁器は湯気を立て、その揺らめきと彼女が無言の会話を楽しんでいた。

 不意に、かちゃり……と音を立てて目の前に用意された磁器が割れた。

 吉兆では無いが、特にベアトリスが気にする程のことでも無い。しかし、形を保てなくなったそれから溢れ、失われていく液体が彼女に酷く何かを連想させた。


「タカユキの身に何かが起きたと言うのか……我ながら何と下らぬ夢想を抱くものよ……」


 ベアトリスが顔を右に向け、口を尖らせて息を吐く。気持ちを落ち着かせる為に行ったにも関らず、彼女の胸の中でわだかまりが少しずつ、少しずつ大きく成っていくのを感じる。

 虫の知らせ等では無い、時が経てば経つ程にベアトリスは確信に近づいていく。それは今生の義正と彼女の繋がりとも言える物なのかもしれない。


(義正……貴方が知らせてくれているの? 思い出してもくれないくせに……でも、良いの。貴方と繋がっていることが分かっただけでも嬉しいから……)


 ベアトリスは立ち上がると自らの魔力を解放する。複雑な紋様が周囲に浮かび上がり、世界のことわりを覆す為の術式が構築されていく。

 僭越とも越権とも言えるその行為の術式の名は【転移】。それは魔王無き現状において唯一の【爵一位王妃】である【明星のスルド】とその分身である傀儡のみが使用出来る時空を越える禁じられた術であった。

 当然、【爵二位淑妃】に過ぎないベアトリスが発動出切る筈(はず)も無く、その術式は成功する訳も無い。


「やはり、予の魔力程度で発動させることは叶わぬか……だが、それが何だと言うのだ?」


 ベアトリスは不敵に笑い、更に術式に魔力を込めていく。確かに【爵一位王妃】と【爵二位淑妃】の間には途轍もない壁が存在しているのかもしれない。しかし、越えられない壁等はこの世に存在しない。 何故ならば、壁と認識された時点でそれは有限に過ぎないのだから……


「タカユキ……そなたのせいだぞ……今一度、そなたが其(そ)の血をに分け与えてくれておれば、もこの命を賭けることなど無かったと言うに……本当に意地の悪い……」


(お願い……届いて……貴方の元に……私の命をあげる……今度こそ、死なさない……殺させない……生きて……そして、笑っていて……)


 ベアトリスの紅色の唇から一筋の血が垂れ、彼女は込められた魔力の制御に全神経を集中させる。少しでも間違えば、溢れる魔力の暴走により、この北の大地が灰燼かいじんと化すであろう。

 全身を苛む痛みもこの胸の苦しみに比べれば、如何いかほどのことがあろうか。義正の生まれ変わりに再び会う為に彼女の想いは遂に千里を越える。

 そして、部屋全体が眩い光に包まれ、その光が収まった時にはベアトリスの姿は何処どこかに消えていた。


◆◆◆


「早く、治療師を呼べ! 何をぐずぐずしておる!」


 屋敷の中では執事のジャスパーが召使達に指示を出している。自らの手首を深く切り裂いた隆之に応急処置を行い、急ぎ屋敷|迄(まで)彼を運んだジャスパーは予断を許さぬ主人の現状に焦りを覚えていた。

 隆之の傷は深く、大量の失血によって顔色はもはや、死人と変わらない。今生の【魔王ビス美酒ケス】に万が一のことがあれば、この屋敷の住人だけでなく、【スフィーリア】にいる人間全てが怒り狂った魔人に殺されても可笑しくは無い。

 寝台に隆之を横たえたジャスパーは椅子に座り、目をつむって神への祈りを捧げていた。


「タカユキ……そなたに何が起こったと言うのだ……」


 突如、ジャスパーの背後から若い女の声が聞こえた。驚いた彼が振り向いた先には一人の美しい女が呆然と立ちすくんでいる。

 女はその琥珀色の瞳から涙を流し、彼の主人をただ、眺めていた。

 突然の侵入者に対してジャスパーは咄嗟に対応出来ず、声を挙げる前にその女が軽く手を振るとジャスパーは虚ろな表情で黙って主人の部屋を後にした。


「タカユキ、誠に済まぬが、に今一度そなたの【魔王ビス美酒ケス】を授けて欲しい」


【転移魔法】を行い、魔力の完全に枯渇こかつしたベアトリスは隆之の眠る寝台に近づくと、左手首に巻かれた包帯の上から微かに溢れる【魔王ビス美酒ケス】をそっと、口に含んだ。

 既にベアトリスは【爵一位王妃】の証である【転移魔法】を使用していた為、今一度【魔王ビス美酒ケス】を口にすれば、【魔王】へと覚醒する恐れがあったが、彼女にはそうならない確信があった。


(王となれば、【魔王ビス美酒ケス】はその者の物となる。でも、貴方はどうあっても、私の元へは来てくれないのでしょう……)


 一瞬にしてベアトリスの魔力が回復し、彼女は隆之に治療を施し始める。

 従来の自然治癒力を高めるだけの【治療魔法】ではどうしようも無い傷口に対して、彼女は時の流れに干渉する。

 本来のあるべき姿を時を遡って実現させる【蘇生魔法】を隆之に施していった。しかし、傷口は見る見る内に癒されていくが、【魔王ビス美酒ケス】の失われた血までは【蘇生魔法】で回復させる事は彼女には叶わない。

 この場に居るのがベアトリスではなく、時の流れを支配する【明星のスルド】であるならば、彼を完全に蘇生させる事が出来たのかもしれないが、これが彼女の限界だった。


「ごめんなさい……貴方の誓いを破ることになるけど……これしか方法が無いの……」


 ベアトリスは隆之の上着を捲り、自らの左人差し指で右手首を軽くなぞる。右の手首から血が流れ、隆之の胸に広がっていった。

 彼女の血に宿る魔力が隆之の枷を外す鍵となり、塞き止められていた彼の魔力の出口が拡大されていく。

【爵一位王妃】の血を浴びた【魔王ビス美酒ケス】など前例の無き事、歴代の王に匹敵する魔力を秘めた存在が果たして【魔王】の物に収まる者なのかは現状では判断の仕様が無い。

 しかし、そのようなことはベアトリスに取っては瑣末なことに過ぎず、今の彼女にとって重要な事は愛しい人の冷えた身体を自らの温もりで温めることだった。

 静寂に包まれた隆之とベアトリスの二人だけの部屋に衣擦きぬずれの音がそっと、いろどりを添える。

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