第57話 仕組まれた競売

魔王ビス美酒ケス】様の使いとは言え、シンクレア様が奴隷に謁見の栄誉を賜ることはございません。御所望の金貨はこちらに用意してありますので、お引取りを……」


 侍女の一人に慇懃無礼に体良くシンクレアの館を追い出されたジャスパーはシンクレアに謁見をすることは出来なかったが、主に命じられた金額に倍する金貨の援助を受けることを成功させたのに満足している。

 彼は部下数人に金貨を会場まで運ばせ、彼自身は部下達より一足早く奴隷市が開催されている広場に戻って来ていた。


(一体、この時間で何が起こったと言うのだ……)


 彼が広場に戻ると、広場は群集の熱気に包まれ、一人の小汚い少年に天井知らずの高値が付けられている最中であった。

 既に金額は金貨にして八百枚を超えており、これは奴隷市で奴隷一人に付けられる値段では無い。名の有る芸術家の作品に固執する二人がどちらも折れること無く、無限に値を吊り上げているとしか彼には思えなかった。

 呆然ぼうぜんと広場を眺めると、彼の主人が値を更に吊り上げていく。


「お止め下さい……タカユキ様……」


 ぽつりと零した声は歓声に掻き消され、主人の耳に届くことは無い。しかし、それも意味の無いこと。

 彼の主人がこの競売を降りることは有り得ない。


 ──ジャスパーが広場に戻る一時間──


 隆之の金貨二百枚の値に会場全体が言葉を失い、司会役の女奴隷であるミーシャも余りの金額の大きさに咄嗟に対応が出来ないでいた。


「【魔王ビス美酒ケス】様……今、何とおっしゃったのですか?」


「聞こえなかったのか? 金貨二百枚でその子を買うと言ったのだ!」


 隆之の怒りも顕わにした口調にミーシャが恐縮するも、直ぐに持ち前の空元気を取り戻して会場を盛り上げようと声を張り上げた。


「何とっ! この少年に金貨二百枚の値が付きましたあぁぁぁ! これは勿論、今までの高額落札価格の記録更新となる事は言うまでもありません! では、金貨二百枚で落札とさせて……」


「金貨三百!」


 突如として上がった女性の声に隆之は思わず、その方向に振り向いた。

 そこには傭兵らしき女性が意地の悪い笑みを浮かべて立っている。

 その女性がゆっくりと隆之に近づき、声を掛けてきた。


「あんた馬鹿だね……自分が何が何でもあの奴隷を欲しがっていることをあんな分かり易い形で教えるなんてねえ。良い儲け話になりそうだから、私にも一口乗せてくれないかい。なあに、私が落札した後でゆっくりと商談をすれば良い話だろ? おやおや、怖い顔だねえ。でも、良いのかい? のんびりしてたら、私が落札しちまうよ?」


 こうして隆之とレティシアの一騎打ちが始まった。しかし、この奴隷の出品者がカタールである以上は隆之には所詮しょせん勝ち目の無い戦いであり、仕組まれた出来レースに気付けない隆之は値を青天井に吊り上げていった。


(へえ……どうやらコイツがあの坊やに御執心なのは間違いが無いようだねえ……でも、未だ針に喰い付いただけだから、何とも言えないか……)


 レティシアは右の人差し指で紅を差した唇をなぞりながら、冷静に隆之を分析していた。


「おおっと、遂に金貨千二百枚を超えました。ああぁぁぁ、どうしたことか! 【魔王ビス美酒ケス】様の声が上がらない!」


 隆之は更に声を上げようとしたが、その腕をジャスパーが必死に掴み、視線を落として首を横に振る。


「では、そちらの女性が金貨千二百枚で落札となりました! おめでとうございまーす!」


 ミーシャの声によって、隆之の目の前が暗くなっていく。群集の歓声は頂点を極め、彼らは初めて憎むべき裏切り者である【魔王まおう美酒びしゅ】に土を付けたレティシアに惜しみの無い拍手喝采を送っていた。


何故なぜだ? 何故なぜ……俺から皆奪っていく……駄目だ……駄目だ……ヴァンが……ヴァンが……頼むからもう止めてくれ)


 落札したレティシアはミーシャに金貨の詰まったずっしりと重い皮袋を手渡し、傷ついたヴァンを引き摺るように首輪に繋がれた鎖を引いていく。


「頼む! その子だけは譲ってくれ! この通りだ!」


 隆之は必死にレティシアに頭を下げて懇願する。

 彼にとってのあの素晴らしき日々を取り戻す為に必要な人が今欠けようとしている。鎖に繋がれ、傷付いたヴァンの姿が隆之の胸を締め付けていった。


「だから言ったろ。ゆっくりと商談すれば良いって……金貨五千枚でコイツを譲ってやるよ。金が出来たら、ライオネルのジゼルの街にある【大鷲の紋章】まで来な。そうしたら、相手にしてやるよ」


 レティシアは失笑を浮かべ、隆之に有り得ない条件を提示する。


「分かった……金貨五千枚だな……」


 隆之が何事も無く応じる。そして、彼がおもむろにナイフを取り出し、その刃を左手に当てて一気に引き抜いた。


「旦那様?」


 ジャスパーが止める間も無く、隆之は手首を深く切り裂いた。大量の鮮血が迸り、その魔力の結晶が形となっていく。

 悲鳴を上げて、隆之を治療しようとするジャスパーを払いのけ、隆之はレティシアにその【ビスケス】を差し出す。


「今生の【魔王ビス美酒ケス】が命を賭けて差し出す一品だ……【怠惰シンクレア】なり、【傲慢クラリス】なりに持って行け……途方も無い金と交換してくれるだろうよ……これが俺に差し出せる全てだ……忌々しいこの呪われた【魔王ビス美酒ケス】だけがな……」


 隆之の鼻息は荒く、脂汗をかきながらも彼はレティシアを睨み付ける事を止め様とはしない。突然の隆之の凶行に群集は唯、その場に立ち尽くす事しか出来はしなかった。

 レティシアはその魔力結晶を冷淡に取り扱うも、それを道具袋にしまう。大量出血によって意識を失いかけながらも隆之はレティシアが受け取るのを見届け、それを確認すると、安堵した表情で前方に倒れ込んだ。


「気に入ったよ、タカユキ……アンタから貰ったこの【魔王ビス美酒ケス】は大事に使わせて貰う事にするよ」


 隆之の召使達が彼に治療を施し、急いで屋敷へと連れて行くのを眺めながら、レティシアがそう呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る