第3話 世界の名
成人した男性が純粋な恐怖という感情を抱くことは現代社会において少ないと言える。日常生活の中で生存本能を刺激する体験はまず
よって、隆之が現在体験していることは非常に貴重なものであったかもしれない。本人は決して望んではいなかったが、誰も味わえない極限の「非日常」を彼は確かに味わっていた。
(何で俺なんだよ。俺でなくても他の奴で良いだろ。俺が何をしたって言うんだよ……)
訳の分からない物に自らが選ばれてしまったことで、彼の
【魔人】と言う得体の知れない何かにとって、彼自身が無限に【魔力】を提供するとスルドは言った。
想像の世界でしか聞いたことの魔力なんて物があると言われても、自覚も無い物を認めることは隆之には出来ない。
スルドの言葉から彼女自身は彼を飼うつもりは無いそうだが、それならば
その答えが【宝探し】とスルドは言う。
そんな下らない理由で
疑問は際限なく彼の脳裏を過ぎていくが、スルドが隆之の行動に対してどこまでを許容してくれるのか。その判断材料が隆之には無い為に彼はいつまでも寝台で苦悩する。
(心の動きで魔力が
スルドは思考と連動して動く隆之の魔力の流れに魅了され、機嫌よく彼に話し掛ける。
「【
スルドが言葉を掛けるだけで、隆之は大きく身を震わせる。顔色を蒼白にしているのは出血によるものではなく、彼女に対する恐れから来ているものだ。
震えを押さえつけようと両腕を交差させている彼の姿は彼女が久しく見ない脆弱な人間そのものと言えた。
「大丈夫だって……本気で殺すつもりなんてないんだから。でも、無礼を働いたらちょっとした
スルドが【
そんな表情を向けられたスルドは彼を
(駄目だよ……【
隆之の下腹部をナイフで裂いて、腸をゆっくりと巻き上げていけば、どれほど素敵な声で彼は鳴いてくれるであろうか。
スルドはその夢想を実現させることを何とか諦める。少し残念だが、致し方ない。
「うーん、どうやら今の君の状態では僕と会話を続けるのは無理かなあ? 君の魔力は思考と深く連動しているし、大まかな考えは僕にも分かるから。だから、勝手に僕の方で君の質問に答えさせて貰うことにするよ」
隆之はスルドの今の言葉に目を見開いて、驚きを
「【
幼い子どもに言い聞かせるかのようなスルドの口調は明らかに故意に行っているのであろう。しかし、隆之がその言葉遣いによって少しずつではあるが落ち着きを取り戻してきているのもこと実だった。
(どうしても少女にしか見えないのに、実際には違うのだろうな)
スルドは身長百四十cmに届くかどうかと言った所で、腰まで届く黒絹のような髪を伸ばし、白く透き通る肌をしている。
切れ長の瞳と整った眉こそ眉目秀麗と呼ぶに相応しく、小さな桜色の唇は可愛らしいと言うよりも
人形のような左右対称の顔の造形は隆之に美しさと不自然さを感じさせる。右目の泣き黒子がアクセントとなり、自然とそこに彼は目を奪われる。
今、気付いたことではあったが、目の前の女性は隆之の理想とする女性像だったのかもしれない。まるで神話に登場する完全な美女だったスルドをあの時の彼は少しでも間近で見てみたかったのであろう。
彼女はベールの無いウェディングドレスのような物を身に着けている。ドレスと言っても、
「
隆之は既にスルドの言葉を全て真実として受け入れることに決めている。疑っても、
これは彼の長所と言うよりは短所と言うべきであろう。
「うん、いいね。大分落ち着いてきたね。では、
今のスルドはなぞなぞを得意顔になって言ってくる隆之の甥に雰囲気が似ている。彼はこうした時には答えず、甥の問い掛けに対して分からないふりをしていた。
降参した時の甥の嬉しそうな顔が可愛く思えてならなかったからだ。
「ああっ! また僕を子供扱いしたね! でも良いや、今回も特別に許してあげるよ。答えは既に言っているけど、だから【宝探し】なんだよ。今までは絶対に手に入らなかった王の証が自分の物になるかもしれないんだ。皆、
スルドは話を途中で区切り、大人の女性へと姿を変える。威圧感が増した口調で
「元の日本とやらに戻してやるつもりはない。
悪意に満ち満ちた口調が隆之から希望を奪っていく。
(そっか、帰れないのか。父さん、母さん、ごめんな……)
視界は
「今、聞かせて欲しいことがあります……」
隆之の質問に大人の女性と化したスルドは意外だったのか、少し言葉に詰まった。
「ほう……今、そなたの方から質問してくるとは思わなかったのでな。良いぞ、申してみよ」
「この世界は何と呼ばれる世界なのですか?」
彼の質問に対して間を置いてからスルドは大きな声で笑って見せた。
美しい女性が大声で笑う姿を初めて目にした隆之は
彼女の笑い声が二人だけの空間に
笑い終わった後、スルドは目尻に溜まった涙を拭いながら、ようやく彼の質問に答えた。
「これは済まぬ……そなたは先程、こなたのことを現実と妄想の区別がつかぬ
スルドが切れ長の瞳を細めて言葉を続ける。
「世界は世界であろうに。他にどんな呼び方が在るというのだ? 他の呼び方が無い訳では無いが、
スルドは話し終えると隆之に近づいた。そして、腰を
愛おしい【
【傲慢クラリス】、【怠惰シンクレア】、【暴虐ベアトリス】、【聖女アナスタシア】、【欺瞞イリス】の誰かが今生の【
「ふう……長々と話してこなたも疲れた。【
スルドは長話に少しの疲労を覚え、隆之に告げた後に【深淵】へと姿を消して行った。彼女は久方ぶりの楽しい一時に良い夢を見られそうな気がしてならなった。
(人間を愛玩する【怠惰シンクレア】の趣味も他の者が言う程、悪くないのやも知れぬ……)
彼女が虚空に消えた後、一人残された隆之は呆然と彼女の消えた場所を見続けていた。
【深淵】の中でスルドはまた眠りに就く。そこで彼女は夢を見る。
その夢は一人の男が
もがき苦しんで、時の流れによって変えられていく様は
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