明治の感染病大流行と外国の圧力

井上みなと

第1話 明治のコレラ大流行と外国の圧力

 幕末から明治の時代。

 コレラは特効薬もなく、罹るとすぐ死んでしまう恐ろしい病気だった。


 幕末志士たちが活躍する安政、文久の頃にも流行したが、明治に入って最初の大流行は明治12年である。


 こういうときに「政府は何をやっていたのか!」となると思うのだが、政府も事前に手を打っていなかったわけではない。


 明治政府は明治10年に起こった清国厦門のコレラ大流行をきちんと把握して、対策を行うことにしていた。


 内務省が船の入港する神奈川、兵庫、長崎に伝染病専門病院を設置し、入港する船の乗組員たちを検査して、コレラの人はそのまま港そばの病院に入院させることにしたのである。


 ところが英国公使パークスの反対で、この水際対策は中止され、長崎・横浜にコレラが侵入してしまった。

 

 西南戦争に行った帰りにコレラにかかってしまい、故郷の地を踏むこともないまま亡くなってしまった人たちが、今も横須賀の官修墓地に眠っている。

 

 内務省は外国の反対に負けず、横浜と神戸に消毒所を設置した。


 そして、明治11年。

 大流行が起きる前のこと。


「検疫規則を作りました。どうぞ、ご協力をお願いします」


 コレラが外国から入ってきて大流行しないよう、明治政府は各国公使を招き、医師も交えた共同会議を開いて、検疫をお願いした。


 しかし、それに反対したのがまたもイギリスのパークス公使だった。


「このような規則にイギリス人が従う必要はない」


 日本在住であろうと、我々はイギリスの法の元に生きているのだとパークスは突っぱねた。


「お待ちください、これは日本国民だけの問題ではありません。横浜、神戸には外国人居留地もあり、多くの外国人の生命にも関わる問題ですので……」


 明治政府側は必死に説得したが、聞き入れられなかった。


 その翌年。


 最悪な形でこの問題が浮かび上がる。


「我が国のへスペリア号を即時解放せよ!」


 ドイツ公使アイゼンデッヘルは日本側に強硬に要求した。


 へスペリア号はコレラが大流行していた清から来た船で、日本側は一度、神戸港の外に停泊させて、検疫場のある横須賀に向かって欲しいとお願いした。

 

 ところがドイツ公使は横須賀の検疫場に自国の軍医を向かわせ、問題ないと言い出したのだ。


「独自に検査しところ大丈夫だった。我々は横浜に向かう」

 

 寺島宗則外務卿はもちろん止めた。

 

 だが、へスペリア号は砲艦ウルフを護衛にして、横須賀を出発し、横浜に強硬入港してしまったのである。


 この年のコレラ罹患者は16万人。

 そして、10万人以上が亡くなった。


 まだ、日本の人口が3400万人くらいの時代に、これだけの死者が出てしまった。


 もちろんへスペリア号だけが感染拡大の原因ではないだろう。


 当時の衛生状況、足りない医療従事者、教育が行き届かないため患者と接触してしまい、知識が無くまじないにすがる人々なども感染が広がる原因に上げられる。


 しかし、へスペリア号の検疫無視を見て、日本人は気付いた。


【ああ、これが国の立場が弱いということなのだ】


 領事裁判権とか不平等条約とか難しいことはよくわからない。


 でも、伝染病が日本に入ってしまうかもしれないから検査してくださいとお願いしても、外国人は日本人の言うことなど聞くものかと無視する。


 その結果、自分の大切な人たちが亡くなってしまう。


 これは大変なことだ。

 これは危険なことだ。


 よくわからないけれど、日本は外国の言いなりにならないよう条約を改めなければならない。

 

 日本という国は強い文明国なのだ、お前らが無視していい存在では日本は無いのだと、外国に示さなければならない。


 自分と自分の周りの人たちを守るために。


 コレラが拡散されたことにより、人々の中に政治意識という種が蒔かれた。


 この後、日本各地に政治運動が広がっていくことになる。


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明治の感染病大流行と外国の圧力 井上みなと @inoueminato

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