a40 旅館の少女



 駅の構内から外の道に出ると、一緒に電車から降りた少女もその後をついてきた。駅の改札口は海とは反対側の山に囲まれた街側に向いており、この街の景観がよく分かった。海沿いのこの駅では波の音が聞こえきて、汐の臭いも漂ってくる。百色の住む街では絶対に味わえない貴重な観光地ならではの光景だ。そこから右手へと続く線路沿いの大通りの歩道を東へと歩き、宿がある筈の岸壁沿いに出れる脇道を探しながら下り坂になっている道を降りていった。

 右側に沿ってつづく線路越しのフェンスのおかげでよく見えない海の姿は、すこし残念だと思ったが、今はとにかく早く宿に向かうことが先決だった。


「やっぱり七紀百色くんですよね?」


 後ろを付いてくる少女から、もう一度名前で呼びかけられたが百色は無視をした。百色は、この初めて会ったはずの背後の少女のことを何も知らない。水色のワンピースと白い帽子。手には荷物も何も無く白い両手を後ろで組んで微笑みながら歩いている。


「なんでわたしが君の名前を知ってるのか、教えてあげましょうか?」


 クスクスと忍び笑いを漏らしながら後を付いて来る少女の顔を、見る気にはなれなかった。今は、手に持った宿の位置が書かれたメモを頼りに道を歩くことに集中する。

 傾いた西陽にしびが山肌に隠れて、周囲に青い陰が広がる世界に入った。赤い光の差す海の煌めきが見えて、自分たちは青い世界の陸地の中を歩いている。

 風が涼しくなってきた。白い入道雲も見えている。


「そっちじゃなくて、こっちです」


 周囲をキョロキョロと見回しながら歩いている途中で、少女は指を差しながら道に迷い始めた百色を呼び止めた。

 振り返ると背後の少女は、山陰の青い日影の世界の中で、指を差した脇道の奥へと歩いていく。


「こっちですよ。早く」


 曲がった角からまた顔を出してきて、それでもまだ後を付いてこようとしない百色に一緒に来いと促す。


「宿に行くんでしょ? こっちですから。案内してあげます」


 笑いながら手招きされても、百色は訝しんだまま動かなかった。少女の姿が消えるまで立っていようと心に決める。


「ちょっと、そんなにわたしが怪しいですか?」


 百色は黙ったまま答えない。


「じゃあ好きにしてください。わたしは先に行きますから」


 丁寧なのか馴れ馴れしいのかよく分からない言葉遣いで、見知らぬ少女は右手の角を曲がると、その先へと消えていく。やっと静かになれた。百色はそう思って。自分の行動に戻っていった。

 メモに書かれてある宿の場所。

 それを見ながら、先ほど少女が曲がった角とはまた少し離れた別の脇道の曲がり角を右へと曲がった。方角からして海沿いの方角になるだろう。

 港と岸壁がある南の方角。

 地理的感覚を頼りに、曲がった角の先をまっすぐ歩くと突き当りを抜けて視界がひらけた。目に飛び込んできたのは港の景観だった。

 翼を広げて風に乗るカモメと岸壁沿いに停泊して波に揺れている漁船の数々。宿の方向は海を見て右手側、先程少女が曲がった道に逆戻りして突き当たりそうな案配だった。


 嫌な予感がする百色は妙な敗北感を覚えながら、顔を顰めて港沿いの道を今度は西へと向かって歩きだした。左側の漁港っぽさがコンクリートの岸壁からなくなると、すぐに目の前には緑の生い茂る小高い山がそびえていた。

 歩いている道の先は、目の前の緑が生い茂る小山の下を貫く車道沿いのトンネルと海沿いから遠回りする周遊の歩道とに分かれており、疲れていた百色は迷わずトンネルの道を選んで歩いた。暗がりの赤い照明で照らされたトンネルの道を抜けると、波の音がする砂浜の海岸線に出た。

 美しい曲線を描いた砂浜の海岸の夕焼け。

 見惚れた百色は海岸線沿いの道を歩いていくと、いつの間にか左手に広がっていた美しい浜辺の海岸線は終わり、再び灰色のコンクリートの岸壁に風景が変わっていくと、気付けば西端にある道が絶たれる寸前まで辿り着いていた。緑が迫った山を目前とした山影まで来ると、ようやく目当ての宿の看板を見つける事が出来た。


 旅館「浜鳥」

 お世辞にも新しいとは言えないヒビが所々に入った白い建物の廃れた雰囲気の旅館だった。四階ほどある旅館の一階にある入り口に入ると、やはりどこかで見た人影がロビーのソファで座っていた。


「ほら。やっぱり言ったとおりでしょ」


 ソファから立ち上がって百色に顔を向けてきたのは、脇道で分かれたあの少女だった。


「いらっしゃいませ。お名前をお願いします」


 慣れたように、おもてなしの言葉を放った少女がフロントの内側へと回り込むと、宿の接客を始めて百色の名前を視線で伺っている。


「今日ここで泊まる予約をした……七紀百色です」

「七紀百色様……。一名様ですね。二泊のご予定で間違いございませんか?それではお部屋の鍵はこちらです。場所は三階ですのでそちらのエレベーターをご利用ください」


 丁寧な口調で案内されて、百色は背後にあるエレベータの入り口を見た。残念ながら百色はエレベーターよりも階段で上がる派である。三階に行くときは常に階段を使おう。そう思ってバッグを担ぎ直した時。

 やはり百色は、フロントの少女に呼び止められた。


「お夕食はまたわたくしどもがお運びします。六時でよろしかったですね。それまでごゆるりとおくつろぎください」


 丁寧に言われて、女難の相を感じた百色は盛大に顔を顰めた。



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