a41 夏の海



 朝の海は、青い空に負けないぐらいに透き通って輝いていた。

 旅館で朝食を摂り終えた百色は、宿に荷物を置いたまま目の前にある岸壁の海辺まで来ていた。コンクリートの無機質な角で切り立った灰色の岸壁の端では所々に船を係留するための地面からフック状に突き出た係船柱ボラードがある。

 漁港というワケではないこの岸壁一帯は、船が一つも係留されていない区域のようだった。ただ灰色の岸壁が陸地に沿って続く海辺の風景。


「砂浜なら東に行けばありますよ」


 バランスを取るように両手を広げて岸壁スレスレの端を歩く背後の少女の言葉で、振り返る。

 少女はさらに微笑みを浮かべて聞いてきた。


「海に泳ぎに来たんじゃないんですか?」


 少女のそんなありきたりな問いには、逆に疑問で返答する。


「仕事はいいんですか?」

「仕事?」

「宿で。働いてるんじゃないんですか?」


 言うと、意外に思ったのか少女は、ふふふッと笑う。


「わたしまだ中学生ですよ。中学生で働くもなにもないでしょ」


 話していた敬語が急に終わった。おそらくここからは敬語なしの普段の会話で始まる。


「あの宿は、祖母たちの手伝いでやってるだけです」

「手伝い?」


 馴れ馴れしい割に敬語はまだ礼儀として続けるのかと驚きながら百色が訊くと、少女はコクンと頷く。


「同じ年頃の男の子が宿に来そうだったらわたしに教えてくれるっていう約束で手伝ってるの」


 上目づかいに言葉と感情を放ってくる少女の顔が、下心を感じさせた。


「通ってる学校て人数少ないんですか?」

「一年生は全部で50人ぐらいかな」


 それは少ない。クラスの男子に飽きているのだろうか。


「七紀君のところは?」


 七紀君と呼ばれたので反射的にしかめっ面をした。その事に関しては特に罪悪感も感じてない。


「あ~、スゴイ顔されちゃった。でも、あと一泊、ウチに泊まってくれるんだったら敬語はそろそろやめたいな。これから残り一日一緒にいるんだし、わたしたちもう友達でしょ?」

「いままでに泊まった子にも、そんな事を言ってきたんですか?」

「家族旅行の子にこんな事は言わないって。七紀君は一人旅みたいだったから言ったの」

「中学生の一人旅なんて……、珍しいと言えば珍しいか……」

「そうだよ。だから何しに来たんだろうって不思議に思ったの。宿を出て別に他へ遠出するわけでもないし。こんな近場でウロウロしてるだけだし」


 歩く百色の後をついてくる少女が、不貞腐れたように地面を蹴る。


「海を見に来たんですよ」

「え?」

「海を見に来たんです。それだけです」

「海を?」

「そう」


「なら泳ぐとかは?」

「泳ぐ?」

「そうよ。海に来たらまずは泳ぐでしょ?」

「それはもうやったんで、今日は見てるだけがいいんです。今日は一日中ずっと海を見てたい」

「うわ、ヘンなのー」


 少女のしかめっ面を見て、そう言われるとは思っていた。


「七紀くんが泳ぐんだったら、わたしも一緒に泳ごうかなって思ってたのにな……」


 やはりそれが狙いだったのか……。

 百色は、なるべく反応せずに防波堤の先へと歩いていく。


「もしかして七紀君て……すでに女の子と海水浴に行ったりした?」


 核心を突いてくるカンの鋭い女子の問いには、極力耳を貸さないようにした。


「何人?」


 どうやら少女の心の中では決定らしい。


「何人と行ったの?」

「……」

「一人?」

「……」

「二人?」

「……」

「三人?」

「……」

「じゃあ四人だ」

「……」

「ふーん、四人かぁ」


 なんで五人目は聞かないのか。

 黙ったまま内心で驚く百色を無視して、少女は歩いていた防波堤より一段高い、小さな細い灯台のある海側の段差の上を階段で上がると両腕を広げた。


「四人の女の子と海水浴に行ってれば、そりゃあ一人にもなりたくなるかもね」


 少女が男子の心を分かったように言う。

 百色も防波堤の先まで来ると、大の字に腕や足を広げて海を眺めたまま立つ少女を眩しく見ながら同じ場所に上がろうとした。防波堤の一段高い段差に上がった途端に逃げていくフナ虫の大群にビビりながらも、思った通り岸壁の先にあるこの防波堤の上から望む海の景色は絶景だった。


「今日は釣りする人もいないから、いいかもしれない」

「そうなの?」

「うん。今日はこの時間、潮の流れが海に向かうから魚も岸壁近くにはいられないの」


 やはり地元の子は海に詳しい。そう思いながら百色は防波堤の焼けた熱い地面に腰を下ろした。


「海を眺めるだけなのが、そんなに面白い?」


 よく分からない少女が呆れて言う。

 それでも百色は、青い海と青い空と白い入道雲の立ち上る眩しい夏の景色を眺めたかった。焼ける日射しの中で、涼しい潮風が伝う汗を冷たく乾かしている。防波堤の岸壁に当たる波がチャプチャプと音を立てている。


 海に飛び込めば、海面に着地して海の上を歩けるのではないかと思いたくなるぐらいの青と白と熱の夏の風景。百色は……それが夢だった。海に着地し、海の上を歩いて向こう岸へと難なく渡る魔法の力を得ること。

 なぜ?人は海に入ると海の中へと沈んでいってしまうのか? 海に来ると、百色はいつもそんな事ばかりを考えるようになっていた。とくに近くに少女や女子がいる時などはより頻繁に強く考えるようになってしまう。

 それには理由があった。

 将来、女子はだれかの子供を産む為に男と裸での生殖行為をする。男が女に求めている行為をだ。しかしそれをしたからといって、得られるモノなど『妊娠』ぐらいのものだった。

 そこで百色は、いつも考えてしまうのだ。本当に百色という今の男である自分は……女の子に自分の子を妊娠して欲しいから女子にそんな事がしたいのか?と。


 その問いに出す答えは、いつも「否」だった。


 百色は、周囲の女子に自分の子供を宿して欲しいから近づこうと思ったことなど一度も無い。ただ自分の気分が良くなるような気がするから、女子の身体に触れていると男である自分の気持ちが高まる感じがするからただ単に女子という存在が気になって意識するのだ。

 ただそれだけの身勝手な理由で……男は女子に近づいて裸の行為をしようとしている。


「……なんか違うんですよね……」

「……え?」

「なんか違うんですよ。ぼくたちが求めてるモノって……」


 男は女と特別な行為をしたいと確かに思っているが、それは決して女に『妊娠』させたいからという理由では断じてない。女の妊娠は男にとっては邪魔なモノだ。

 それ以外のもっと他の男性ジブンに得られる魔法の様な何か結果を求めて、男は女の裸を求めている。


 そうとしか考えられない百色は、それを女子との快楽かんけいなしで得たいと望んでいたのだった。



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