a37 海の帰り



 一日目の夜から、二日目の夜もすぐに終わって二泊三日の海水浴旅行はあっという間に終わりを迎えた。


「あー、終わっちゃったねぇ」

 西日も傾きかけた、帰りの私鉄電車の駅の切符売り場で、みどりが言った。


「長かったようで、やっぱり長かった」


 それが七紀百色の正直な感想である。着替えなどの入った重い荷物は親たちの車に乗せて、先に帰ってもらった。


 百色は、帰りの手段は電車でと決めていた。親たちは苦笑いしていたが、ミニバンの車の中で女子に囲まれる男子の身にもなって貰いたい。延々と、前と横と後ろの女子たちから話しかけられるのだ。しかもよく分からない下らない話題で。そんな空間から逃げるためにも百色は帰りの手段には電車を選んだのだった。


「切符は乗り換えたい駅まで670円。ちょっとこんなに払うなら車でよかったじゃない」


 ……の筈だったのだが、百色が電車で帰る事を知ると、幼馴染みの四人の少女たちも漏れなく後を付いてきた。そんな悪夢を前にしても百色が車で帰ることを選ばなかったのは、一重に車を選んでもどうせコイツらは確実に付いて来るためである。


「そう思うなら、お前たちは車で帰ればよかったじゃないか」

「女の子に囲まれて帰るのがそんなにイヤなのッ?」

「嫌だね」

「どうせどっちを選んでも私たちに追い駆けられるハメになるんだから、おとなしく車に乗って帰ればいいのに」

「選択権ぐらい、おれにもくれ」

「だから私たちの方が大人しくついてきたじゃない?それで手打ちにしなさいよ。あ~、670円が勿体ない」


 欠伸あくびをかくように嫌味を言うミドリを無視して百色は自動券売機で切符を買った。


「お兄ちゃん。わたしの分も」


 ピンク色のワンピースを着た妹の七紀苺子いちごがお願いしてくる。


「……で、なんでお前まで来るんだ」

「だって、お兄ちゃんが電車で帰るなんていうから」


 拗ねたように口を尖らせて兄の百色を睨んでくる。どうせ車で帰っても苺子の場所などあるわけがないのに、電車にすると言った途端に「ついて行く」と言い出したのだ。

 何の心変わりかとも思ったが、おそらくそれを訊いても何も答えない頑固者なのでスルーすることに決めていた。


「イチゴはブラコンだね」

「だね」

「もーっ、わたしブラコンじゃないもんっ」


 年上の女子達に遊ばれる後輩の姿は見ていて実に微笑ましいものがあるが、言葉の裏では既に女の戦いが繰り広げられている事を百色は知らない。


「次の上り線は16時発だって。早く階段を上ってホームに行こう」


 購入した切符を持って昔懐かしい有人の改札口を抜けると階段を上って、上り線の方面の電車が発着するプラットホームに降りて行った。


 百色の街では当たり前となった地下鉄の駅ではない屋外の電車の駅舎。生温かい潮風が通り抜ける海水浴場近くの駅は、それでなくとも旅行気分を一層と強くさせる。

 この駅から、家に帰らなければならない。そう思うと、また一日貴重な夏休みが過ぎていく大人の段階が近づいてきている事を実感するのだった。


「これでまた夏休みが一日、減ったのか」

「そういう憂鬱になることは言わない」

「家に帰っても、かき氷とか食べてプールにも行けばいいでしょ」

「その中に宿題という文字は出てこないのか?」

「モモはやるの? 宿題?」

「夏休みの宿題は忘れるためにある」

「そんなこと言ってると担任のテラ先生に怒られるよ。あの先生ひと、怒ると怖いんだから」


 幼馴染みの女子の口から、あの先生ひと、と言われると、まさか教師に気があるのかと思わず勘ぐってしまう百色の心は非常に狭い。年の離れた先生と生徒だからといって恋愛感情が生まれないとは限らないのだ。

 百色はその様な色恋沙汰を考える自分の思考こそを捨てたかったのだが、周りにいる女子たちはそんな事も考えていないのだろう。今の百色には思いもつかないことだが、ここにいる女子たちは常に百色のことしか考えていない。それが例え他の男子の事を喋っていたとしても、心の芯の部分では、常に百色と結ばれた自分たちの姿しか考えていない女子達なのだった。


「ね。そう言えば今の内に聞いておきたいんだけどね?」


 二階の通路階段から駅の上り線のプラットホームに降りようとした時、ふと立ち止まった最後尾の小学五年生の苺子が、階段の途中で立ち止まった先輩の五人を見下ろす。


「保育園のころって覚えてる?」

「保育園のころ?」


 苺子の突然の言葉に首を傾げながら、時間の迫る階下のホームへと階段をゆっくりと降りだした面々が訝しんで顔を見合わせた。


「そう。保育園のころ。みんながよくウチに遊びにきてたでしょ?そ、それで、その時に……。

その時にね? よく、お兄ちゃんが誰かと一緒にウチの階段の下にある小部屋に閉じこもることがあったの」


……百色の足が……止まった。


「……で、でね? いつだったかな……。気になったわたしもその後を追い掛けたことがあって、お兄ちゃんともう一人、女の子の誰かの後を追って、いつもの階段下の部屋に行ったんだけど……」


 小学五年生の苺子がもの凄く言いにくそうに周囲を見回す。既に苺子以外の五人は上り線のホームのベンチに腰掛けて集まっていた。


「鍵がかかってて。どうしても開けられなくて。それでね? 聞こえたの。お兄ちゃんと、誰だったか忘れた女の子の声がして……」


 そして聞こえたのだ……。


「『もう、みんなには聞こえないからここでいいよ?』っていう声が聞こえてきたの……」


 その後に始まる、ピチャピチャと濡れていく音とゴソゴソと動く布の音の数々。苺子は恐る恐る、ベンチに集まる顔を見比べた。


「あれって一体……お兄ちゃんと誰だったの?」


 しかし、電車とともにやって来るその答えを知っている者は一人しかいなかった……。



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