a16 女のワナ
チャイムが鳴った。授業が終わったことを知らせる、いつもの鐘の音だ。
「さー放課だ。放課」
やっと
放課。
この地域では授業と授業のあいだに入る休み時間を「放課」と呼んでおり、中学ではその放課の時間は10分と決められていた。その事もあってか小学校を卒業したばかりの新一年生にはこれが実に不評だった。
「小学校までは放課って10分と20分の交互だったのになぁ~」
「あ、やっぱりー? ウチの小学校でもそうだったぜー」
同じ市内の小学校であれば、それは当然なのだが、中学生であればそんな些末な理屈などどうでもいい。要は
「ところで次の
「理科だよ。今日は実験するって言ってたから特殊理科室にゴーだ」
「うげぇ、
同感~、とF組の教室にいる全員がウンウンと頷く。この七紀百色が通う中学校、八ヶ丘中学校では理科室は全部で二室あり、一つが一般理科室と呼ばれ、もう一つが特殊理科室と呼ばれていた。
今日はそのうちの特殊理科室での実験が予定されていた。
「さ、早く行かないと」
「ぇへえ?」
黒板を消し終わり、教科書とノートを重ね合わせた分厚いページの縁を机でトントンと整えている涙雫を見て、百色は惚けた返事をしてしまった。
「ぇへえ? じゃ、ないから。今日はわたしたちが日直でしょ。ということはわたしたち二人が実験の用意をしなくちゃいけないの。それがわかったら、ほら早く特理と特理の準備室の鍵、職員室から取って来て」
「いや、それって理科委員の仕事じゃないの? その為にこの前、クラスで色んな委員を決めたんじゃなかったっけ?」
四月はとにかく決め事が多い。班決めに掃除当番に委員会に部活にクラブ活動。しかし生徒会は新一年生にはあまり関係がない為に二学期から参加なのが唯一の救いである。
「各委員の仕事は、全学年合同の委員会がある時に集合することと、授業中に必要なものが出た時に駆り出される時だけ! それぐらい知ってるでしょ! メンドくさい授業の準備は基本的に全部、日替わりで回される日直の仕事なの! わかる?」
片手に持った日直の証しである学級日誌をパンパン叩いて迫ってきた、学級委員長でもある雫の目は据わっている。
「……わ、わかりました……」
「ん、よろしい……っ」
「よーよー、お二人さん。お二人さんの仲はこんな感じでよござんすかぁ?」
男子生徒の一人が笑って、黒板の右端の角を指さす。からかい好きの男子が指を差した場所は決まって日直の名前が書かれているお決まりの場所だ。男子と女子の名前が一名ずつ。隣り合ってまるで夫婦のように書かれてしまう場所。そこには七紀百色と涙雫の連名の間に、誰もが知っている相合い傘の
「……ちょ、ちょっと川島くん、そのラクガキ消してよっ」
「ははーん、そんなムキになっちゃって怪しいなぁ。やっぱ涙ってさー、七紀のことが好きなんだろーぉ?」
笑う男子に睨んだ目を向け、抗議しようとする雫を見て、百色は逆に首をかしげた。
「それ違うよ」
「ハ?」
「涙雫じゃなくて七紀雫だ。そこは間違えないでよ」
自然と真面目に言って、教室の全てを沈黙させる。
「な、七紀……雫……?」
「そうだよ。相合い傘なんだからそうなるでしょ?」
平然とそう言って、理科の教科書とノートを持って立ち上がった。
「鍵、取ってくればいいの?」
「う、うん」
「じゃあ取ってくるから特理の前で待ってて」
「ぁ……、ま、待って。やっぱりわたしも一緒に行くから」
クラスメートの呆然とした視線を受けたまま教室を出ていこうとする百色に、雫も急いでついて行く。
「な、七紀雫って本気で言ってるの?」
「あれ? ひょっとして涙百色のほうがよかった?」
「そ、そうじゃなくてっ。ちょっと、またヘンな噂がたっちゃうじゃない」
「ヘンな噂って、ぼくには、もうそんな噂しかないと思うんだけど」
廊下を歩きながら、心当たりがありすぎる思考を回転させつつ頭を掻いてみせる。
「わたしには、ヘンな噂なんてまだないんだけど!」
「イヤだったら後で訂正か否定すればいいよ。ぼくも合わせておくから」
男女の痴話ゲンカを繰り返しながら進む廊下を曲がった階段から一階の階段まで降りていき、下駄箱を通り過ぎると職員室の前までいく。
「失礼しまぁーす」
「失礼します」
仲良く二人で職員室に入り、教員たちの机とイスを掻いくぐって教室の鍵が並んでいる壁に備え付けられたキーフックの一つから特殊理科室の鍵と対になった準備室の鍵も取る。
「なんだ? 特理か?」
「はい。実験があるんです」
「そうか。きょうは1-Fが使うのか。理科の寺賀先生には伝えておくからね」
「ぉ、お願いします」
教員の一人から声を掛けられて軽く会釈で返すと職員室を出た。し、失礼しました、とおそるおそるドアを閉めて、深く息を吐く。
「ねぇ……顔……」
「うん。覚えられてたね……」
二年か三年生の教員に百色と雫の顔を見られただけで1-Fの生徒だとバレてしまった。四百人以上の生徒を抱えるこの学校で、これはこれで驚異的なことだと言わざるを得ない。
「わたしたちのクラス、まだそんなに問題なんて起こしてないでしょ?」
「そうだよねぇ。なんで覚えられてんだろ?」
腑に落ちない二人が、下駄箱と階段前を横切り理科室のある一階の奥の廊下に進んでいくと、そこで雫が立ち止まった。
「ね、そういえば来週からゴールデンウィークが始まるよね。暇?」
「え?」
百色も立ち止まると、後ろの雫へと振り返る。それを見て、雫もまたさらに聞いてきた。
「七紀くん、ゴールデンウィークは暇?」
「ヒ、暇だけど?」
裏返った声で百色が答えると、雫はそれを確かめるようにゆっくり頷く。
「じゃあ今度……泊まりにこない?」
二人だけの時間が止まった。
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