Ⅰ 海の人

限りなく遠くまで続く海。

空と海の境界が光に遮られて曖昧になっている。

「ねえ、おとうさん。あの先まで行ったことあるの」

「行ったことある人は知っているよ」

「海の人なの」

「小さな木の船を漕いでいって」

「空との境を越えて見えなくなった」

「もう帰ってこないと思った」

「でも、次の日戻ってきたんだ」

「空の境の先に何があったのか、聞いたの」

「聞いてみたけど、何もなかったって」

「何もなかったんだ」

「空と海と雲しか見えなかったって」

「そうなんだ」

「その人は、まだいるの」

「どうだろう。お父さんがまだ子どものころの話だから」

「生きていたら、すごいお爺さんだよ」

「会ってみたいなあ」

アヤノは父に笑顔でそう言った。


「おじいさんは海の人ですか」

白髪で顔が白い髭で覆われた老人に、アヤノはそう尋ねた。

コンクリートが剥き出しになった狭い部屋の隅で

老人は缶詰のスープを啜っていた。

スプーンには油がこびりついて、

怪しい光を放っていた。

老人が力なくうなずいたようにアヤノには思えた。

「海の向こうに何があるか知ってますか」

老人に近づいて、アヤノはそう尋ねる。

老人の唇がかすかに動いた。

というより、老人の口のまわりの髭が

震えたように、アヤノには見えた。

「島だ。小鳥の島」

「そうなんだ」

アヤノは、ポケットに入っているパンを老人に渡した。

「堅いから、スープにつけて、柔らかくして」

老人はスープの缶を置いて、パンを受け取ると

アヤノを見て、小さく首を下げた。


「アヤノが勝手にそう思っただけじゃないのか」

青年はパンをちぎりながら、アヤノにそう言う。

「違うよ、あの人は間違いなく海の人だよ」

「お父さんが言っていたのと、同じ服を着てて」

「どんな服なんだい」

「厚い布でできた白い服」

「そんな服を着た爺さんなら、そこら中にいるぞ」

「このスープは、その爺さんがくれたのかい」

「そうだよ」

「いくらでも持って行っていいって」

「本当か」

「まあ、そこにあったスープ自体」

「爺さんのものとは限らないからな」

青年は下げていた布製のカバンから布切れを出して

アヤノの前で広げて、テーブルに置く。

「何なの、それは」

「地図だよ」

「だいぶ古そうだね」

アヤノは身を乗り出して、地図を見る。

「相変わらず、探検してるの」

「古い書物のある部屋を見つけたんだ」

「そこにあった箱に入ってた」

「スープ、こぼさないで」

アヤノは青年に、

手に持っている缶を奥の棚に置くように目で合図する。

「大丈夫だよ」

スープ缶を棚に置いてきた青年は、

指で地図に書かれた丸い印を示した。

「ここが、僕らが住んでいる街だ」

「何もないじゃない」

「この時代にはね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る