第四章 ウージスパイン魔術大学校
1/ネウロパニエ -1 牧草地帯
「──で、この単語が〈車輪〉という意味でし」
「ふんふん」
〈車輪〉の冒頭の一文字を指差し、ヤーエルヘルに尋ねる。
「この文字単体ではなんて読むんだ?」
「〈ツァ〉、でしね」
「次の文字は?」
「〈ア〉、でし。その次は〈クン〉と読みましね」
三文字の単語を記憶に焼き付ける。
「……何度も確認して悪いんだけどさ。俺、〈車輪〉って言うとき、〈ツァアクン〉って発音してるんだよな?」
「はい、してましよ」
「そっか……」
読み書きの練習を始めてから、気が付いたことがあった。
俺の認識している発音と文字の表す発音とが一致しないのだ。
俺は〈シャリン〉と発音しているつもりなのに、周囲には〈ツァアクン〉と言っているように聞こえているらしい。
これの何が問題かと言うと、表記されている単語の読みまでは辛うじてわかっても、意味がまったく取れないのだ。
また、北方十三国共用語の表記は複雑である。
基本的な文字は十一種類しかないのだが、この文字を二つ組み合わせ一文字にすることで発音の仕方がまったく変わる。
補助記号が付属しても、また変わる。
文字の組み合わせ、補助記号の取り合わせによる総パターン数は優に三百を超えるが、そのうち実際に使用されるものは十分の一ほどに過ぎない。
日本語で言うと、〈あ゜〉と表記しても発音できないようなものだ。
また、英語と同じように、表記と発音とが一致しない場合も多く、それもまた複雑さを増す要因の一つとなっていた。
「せめて、日本語で引ける辞書があればな……」
揺れる騎竜車の中、単語と読み方、及びその意味をノートに書き付けながら、そう呟いた。
「ちょ、ちょっと、甘く見てた、……かも」
プルが、俺のノートを覗き込む。
「かたな、しゃべれるから、よ、読み書きも、すぐできると思ってたけど……」
「自動的に翻訳されてるんだろうな、たぶん」
読み書きのほうも頼むぜ、エル=タナエル。
まあ、さすがに贅沢と言うものか。
「ちっと、腰を据えて掛からないと難しそうだ」
「頑張ってくだし。あちしも、できる限りお手伝いしまし!」
「わ、わたしも、が、がんばりまっす……!」
「ああ、頼むわ」
辞書はなくとも、尋ねればすぐに答えてくれる講師が二人もいる。
あとは俺の努力次第だろう。
しかし、
「……下向いてたら酔ってきたな」
「わ、だ、だいじょうぶ? 無理しないで、ね」
「赤銅の街道と違って、揺れましもんね……」
御者台のヘレジナがこちらを振り返る。
「ならば、外を見るといい。気分転換にはなるだろう」
「お、なんかあるのか?」
「いや──」
ヘレジナが、いたずらっ子のように口角を上げる。
「何もない、と言うのが正しい」
「……?」
どういう意味だ。
ウージスパインに入ってから二時間ほど、しばらく森が続いていた。
虫が入らないよう閉め切っていた雨戸を持ち上げると、
「──おお!」
そこは、地平線まで伸びる果てのない牧草地だった。
「わあー……!」
「す、すごい……」
「あ、向こうに羊がいましよ!」
「ほ、ほんとだあ……!」
プルとヤーエルヘルが、子供のようにはしゃぐ。
微笑ましい。
俺は、御者台へと移動すると、ヘレジナの隣に腰を下ろした。
「どこまでも続く草原、か。こんなの初めて見るわ」
北海道あたりではありふれた光景なのかもしれないが、行ったことないし。
「絶景だが、問題も一つあってな」
「問題?」
「進んでいるのかいないのか、よくわからなくなってくる……」
「あー」
目印も何もないものな。
ウージスパインは、トートアネマに次いで、北方十三国で二番目の国土面積を誇る。
ラーイウラの五倍はあると言うのだから驚きだ。
「入国管理官によれば、この先にニャサという村があるそうだ。アインハネス―クルドゥワ経路と異なり、旅行者向けの施設が充実しているわけではないが、それでも宿くらいはあると言う。本日はそこで一泊することとしよう」
「はいよ、了解いたしました」
敬礼し、その流れで軽く伸びをする。
「ラーイウラが開かれれば、この街道も往来が激しくなるんだろうな」
「赤銅の街道とまでは行かずとも、多少は整備されるやもしれん。個人的には、地面から突き出ている石くらいは撤去してもらいたいところだ」
「あれ、踏むとガツンと揺れるんだよな……」
ヘレジナが俺の顔を覗き込む。
「どうだ、気分は良くなったか?」
「ああ、いい気分だ」
今日は、夏の前節十二日──元の世界で言えば七月に当たる。
道理で陽射しが鋭いはずだ。
吹き抜ける風が心地良いはずだ。
「──…………」
ふと、ネルのことを考える。
リィンヤンを出立してから、もう四日が経つ。
今頃は王城へ戻っただろうか。
寂しい思いはしていないだろうか。
ジグと、それからレイバルがいるから大丈夫だとは思うが、ヴェゼルには頻繁に王城を訪れてほしいものだ。
ネルは強い人だが、だからこそ無理をしてしまう。
彼女が我慢していることを見抜ける人が、いつも傍にいてくれればいいのだが。
「カタナ」
「んー……?」
「今、何を考えていたか、当ててやろう」
「──…………」
「ネルのことだな」
「え、こわ……」
なんで当たるんだよ。
「わからいでか。でれでれと鼻の下を伸ばしおってからに」
「いやいやいや、それは嘘だろ! めちゃめちゃセンチメンタルな回想だったって!」
「ふん、どうだか」
ヘレジナが不満げに鼻を鳴らす。
「お前が誰と恋仲になろうと勝手だがな」
「なってないが……」
結果的には、だが。
「……プルさまを悲しませることだけは、するな。それだけは言っておくぞ」
「──…………」
ふと、罪悪感がよぎる。
ほっぺにキスの約束、ネルの一件で有耶無耶になっちまったんだよな。
無事に皆を首輪から解き放ったのだし、してほしいのは山々なのだが、こちらからは切り出しにくいし、向こうからも言いづらいだろう。
こう、いい感じのきっかけはないものだろうか。
「なあ、ヘレジナ」
「なんだ」
「……いや、なんでもない」
よくよく考えなくとも、ヘレジナに相談できる内容ではなかった。
「ええい、言い掛けておいてなんなのだ! 気になるではないか!」
「悪い悪い」
客車へ通じる扉から、プルとヤーエルヘルが顔を出す。
「なに話してるんでしかー?」
「どうして空は青いのか議論してたんだよ」
「お前、一切の躊躇なくでたらめを……」
「で、でたらめ……」
「冗談と言ってくれ」
「でも、確かに、どうして青いのでしょう……」
「や、ヤーエルヘルも、知らない、……の?」
「それはな。太陽の光が空気中を進むときに、微細な塵などにぶつかって──」
学生時代に仕入れた知識を、誤魔化すように披露する。
心地よい夏空の下、騎竜車は往く。
ウージスパイン共和国最初の村、ニャサを目指して。
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