1/流転の森 -6 影の魔獣
「ッ!」
影の頭部を横断するように切れ目が走り、ラグビーボールのような形に見開かれる。
それは、目だった。
一ツ目の怪物と化した影が、徐々に厚みを帯びていく。
「──ヘレジナ! プルの影!」
「え──」
プルが己の影を見ようと振り返る前に、ヘレジナは既に動いていた。
「疾ッ!」
腰の鞘から抜き放つ一連の動作でそのまま短剣を投擲し、影の目を地面に縫い止める。
その瞬間、プルの影から厚みが失われ、即座に元の大きさへと立ち戻った。
「影の魔獣! 夜を渡ってきたのか!」
ぎい、ぎい。
ぎい、ぎい。
壊れた蝶番のような音が周囲にこだまする。
「わ、わ、ふぎゃ!」
プルがその場に尻餅をつく。
パンツが見えたが、今はそれどころではない。
「今のが魔獣か?」
そう尋ねながらも、プルの影の異常を見逃さないよう注視する。
「プルさま、お怪我は!」
「だ、だいじょうぶ、……でっす! それより、ま、魔獣は、まだわたしの影のなかに──」
言葉を紡ぎながら、プルが右手を腰の後ろに回す。
そして、
影に刺さった短剣を抜き、
その刃先で自らの喉を刺し貫こうと──
「プル!」
小脇に抱えていたスーツの上着を放り捨て、慌ててプルの手首を掴む。
だが、元来の腕力か、それとも魔獣によって強化されているのか、彼女の腕は頑として動かなかった。
「く、……ッ!」
空いた左腕で、胸を思いきり突き飛ばされる。
転ぶことこそなかったが、数歩の距離ができてしまった。
プルが、ゆらりと立ち上がる。
「プルさま、お気を確かに!」
ふらふらと頭を前後に振りながら、プルが苦しげにうめく。
「──か、から、……だの、自由が……」
ぎい、ぎい。
ぎい、ぎい。
無機質なその鳴き声に愉悦が混じっているように感じられるのは、恐らく気のせいではないだろう。
そのとき、世界が漂白され、選択肢が眼前に現れた。
【黄】プルから短剣を奪う
【赤】逃げる
【赤】プルに体当たりをする
【黄】様子を見る
色を失った世界で、俺はただただ呆然とする。
黄。
赤。
赤。
黄。
冗談じゃない。
どれひとつとして安全な選択肢がない。
どの選択肢を選んだとしても、俺は何らかのリスクを負わなければならないのだ。
赤枠の選択肢は論外だ。
選ぶことを想像しただけで怖気が走る。
俺の無意識が本能的に危険を察知しているのだろう。
選び得るのは黄枠の選択肢のみ。
すなわち、
プルから短剣を奪おうと試みるか、
あるいは一度様子を窺うか。
前者については一度試した。
だが、あの膂力に立ち向かって容易に短剣を奪えるとは思えない。
後者はどうだ。
状況が進めば進むほど事態は悪化していくように思う。
なら、迅速に行動したほうがいいんじゃないか?
思考が堂々巡りを繰り返す。
前者を選ぶべきか、後者を選ぶべきか。
わからない。
何もかも、わからない。
心中で頭を抱えていると、
──す、と。
【黄】プルから短剣を奪う
この選択肢が掻き消えた。
「……は?」
俺の口から間抜けな声が漏れる。
何故消えた。
どこへ消えた。
色のない世界を見渡すと、理由はすぐに知れた。
プルに巣食う魔獣が、今まさに、ヘレジナへ向けて短剣を投擲するところだったからだ。
短剣を持っていなければ、短剣を奪うことはできない。
自明の理だった。
つい忘れていた。
選択肢を選んでいる最中も、ゆっくりと、しかし確実に時間は流れていくのだ。
タイミングを逸すれば、また選択肢を失うだろう。
短剣を奪えなくなった以上、様子を見る以外に道はない。
「……わかった。様子を見る」
そう呟くと、光の粒となった選択肢が、世界を彩色していった。
様子を見る。
そう決意した肉体は、今や完全に動きを止めていた。
「避け、……てッ!」
プルに取り憑いた魔獣が勢いよく投げ放った短剣を、ヘレジナが指二本であっさりと受け止める。
「心配めさるな! このヘレジナ=エーデルマン、短剣の百本や二百本など、へいちゃらのへーですとも!」
「ち、違うの!」
プルが悲痛な叫び声を上げる。
「い、い、いま、短剣の影に潜んで──」
ぎい、と。
魔獣の鳴き声がした。
プルではない。
ヘレジナの足元からだった。
見れば、ヘレジナの影が厚みを帯び始めている。
ぎい、ぎい。
ぎい、ぎい。
笑っている。
俺にはそうとしか聞こえなかった。
「──カタナ」
プルへ向けて短剣を腰だめに構えながら、ヘレジナが口を開く。
「できるなら、私を殺せ。できないのなら、プルさまを連れて逃げろ。私に背を向けて二度と振り返るな。ヘレジナ=エーデルマンの旅路はここで終わる」
ヘレジナが気丈な笑みを浮かべる。
「師匠と合流するまで、プルさまを慰めてあげてほしい。プルさまは、とてもお優しい方だから……」
「ヘレ、……ジナ……?」
ヘレジナの言葉を理解したくないのか、プルが呆然と立ち尽くす。
「──さあ、行け! いつまでも耐えられはしない!」
「……ッ」
ギリ、と。
俺の奥歯が軋む。
なんでだよ。
どうしてこうなった?
異世界転移にチート能力、ここまで揃ってこのざまか。
あれらは所詮、創作物だ。
現実は現実、分不相応な夢を見てはならない。
結局、俺は何も成せないのか。
小賢しいアイディアひとつで感謝されて、いい気分に浸っていただけか。
鵜堂 形無という人間は、
所詮、
この程度なのか。
「──…………」
口の端が無意識に持ち上がる。
そうだよ。
その程度の人間なんだよ、俺は。
ブラック企業から逃げ切れず、そもそも逃げるなんて選択すら浮かばないまま、ただただ七年間も棒に振った。
安月給からは正体不明の控除が差し引かれ、貯金もできずに日々を食い繋いでいただけ。
月に一度の休日は、明日からの一ヶ月を耐え抜くために寝て過ごすしかない。
大した奴隷根性だな、おい。
「はは……」
目の前に選択肢が現れる。
【赤】立ち向かう
【赤】一人で逃げる
【赤】プルを逃がす
【黄】プルと二人で逃げる
ほら、選択肢も言ってるぜ。
言い訳ができて万々歳じゃないか。
ヘレジナの頼みを聞いて、さっさと逃げ出してしまえばいい。
たかだか出会って数時間の女のことなんて、気にする必要はないだろう?
「──…………」
俺は、プルの手を引っ掴んだ。
「かたな……?」
「舌噛むぞ」
「あっ──」
ヘレジナに背を向け、光球の反対側へと駆け出す。
幾度も背後を振り返るプルに苛立ちを覚えながらも高台を駆け下りる。
その最中、右肩に、強く殴られたような衝撃が走った。
「ぐ、う……ッ!」
短剣だ。
ヘレジナの投げ放った短剣が肩に突き刺さったのだ。
だが、立ち止まる余裕はなかった。
逃げて、
逃げて、
逃げて、
高台の下の茂みに身を隠す。
「か、かたな! ヘレジナが!」
「……ヘレジナが?」
痛みをこらえて、へらへらと笑ってみせる。
プルはまだ、俺の負傷に気付いていない。
「た、助けに戻らないと……!」
「ヘレジナ、……の、覚悟を、無為にするのか?」
「だって!」
痛い。
痛い。
痛い。
右肩が熱い。
右肘がくすぐったい。
人肌より熱い液体が、指の先から垂れ落ちている。
だが、これはきっと罰だ。
ヘレジナを見捨てる俺への、罰だ。
「ルインラ、……インが、来る。彼を、待つべきじゃあ、ないか……?」
「──…………」
俺の言葉は正論だ。
プルには反論できない。
それがわかっていた。
わかっていて、そう告げた。
「……う、……ああ……」
プルが、その双眸から涙をこぼす。
自らの無力を、自らが背負う業を、俺と同じように目の当たりにしたからだ。
嗚呼、なんて浅ましい。
俺は仲間が欲しかったんだ。
人間という存在の底の底で、共に罪と後悔とを舐める誰かを求めていたのだ。
「ああ、……あああ、あああああ……──」
プルの慟哭を聞きながら、俺は昏い喜びに浸っていた。
俺たちは同じだ。
情けなくて、くだらなくて、一人では歩くことすらできない。
そんな、人の出来損ないだ。
──そう思っていた。
「……はッ、ぐ、……──ッ!」
プルが歯を食い縛り、立ち上がる。
溢れる涙を親指で跳ね飛ばし、高台の頂上を睨みつけて。
慌てて制止する。
「ま、待て! 何するつもりだ!」
「ヘレジナを、助けに行く」
「無理だ! わかってるだろ!」
「……わかってる」
プルが俺に笑ってみせる。
乾いた笑いでも、誤魔化すような笑顔でも、すべてを諦めた微笑みでもない。
「それでも、行くんだ」
彼女の表情にあったのは、決意。
それ一つのみだった。
俺は、
不覚にも、
そんな彼女のことを眩しいと思ってしまった。
「馬ッ、鹿……、野郎……!」
行くな。
俺を置いて行くな。
最低なやつのまま、俺の隣にいてくれ。
どこまでも自分勝手な叫びは、しかし、本当に勇気ある人間に届きはしない。
プルが駆け出す。
ヘレジナの元へ。
俺は、
俺は、その背中を──
【黄】このままプルを見送る
【赤】プルを追う
【黄】プルの足を掴む
【黄】様子を見る
選択肢を精査しないまま、俺は反射的に手を伸ばした。
プルの足を問答無用で掴む。
「ふぎゃん!?」
プルが顔面から草むらに突っ込み、パンツが丸出しになった。
だが、そんなことはどうでもいい。
「どうして。どうして、躊躇なく戻れる? どうして──」
お前には勇気があって、俺にはないんだ。
「たた……」
プルが鼻をさすりながら、こちらを振り返る。
「だって、大切、だから……」
プルの瞳は、どこまでもまっすぐだった。
「ヘレジナは、家族だから」
「……──ああ」
脳裏をよぎる、両親と妹の顔。
そうか。
そうなのかもしれない。
家族のためなら、俺だって、命を賭けられるかもしれないな。
「……なあ、プル」
「はい」
「俺もさ。お前みたいに、カッコよくなれるかな……」
「……?」
プルが小首をかしげてみせる。
「かたなは、もう、かっこいいよ。わたしたちを助けてくれた、から」
「──…………」
そうか。
こんな俺なんかでも、プルにはそう見えていたのか。
「……ははっ」
漏れたのは諦観の笑みじゃない。
だったら。
俺のことをカッコいいと言ってくれる人が、一人でもいるのなら。
「──諦めるわけに行かなくなったじゃねえか!」
「かたな!」
左手で頬を張り、気合いを入れ直す。
俺の小賢しい脳味噌がようやく回転を始めた。
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