第一章 パラキストリ連邦
1/流転の森 -1 選択肢
──こぽり。
口から漏れた歪な泡が、瞬間ごとに形を変えながら、上へ上へと昇っていく。
対して俺の肉体は、水の冷たさに指先を痺れさせながら、下へ下へと落ちていった。
死ぬのだろう。
構わなかった。
ヒーローなんかになりたかったわけじゃない。
ただの気まぐれだ。
既に腹をくくっていた俺は、呼吸のできない苦しみに喘ぎながらも、肉体が意識を手放すのを待っていた。
だが、それは訪れなかった。
気が付けば、俺の目の前に、二行の文章が浮かび上がっていた。
【青】再び始める
【黒】終わる
その文字列は慎ましげな装飾の施された枠に囲まれている。
枠の色は、前者が青、後者が黒だ。
馬鹿馬鹿しい。
俺は、とうに死んだのだ。
無に帰す覚悟はできている。
「──…………」
ふと。
多忙のせいで五年も帰れなかった実家が脳裏をよぎった。
嗚呼──
もう一度だけ。
もう一度だけ、帰りたい。
両親に会いたい。
小学生の頃のように肩でも揉んでやれば、喜んでくれるだろうか。
妹に会いたい。
たとえウザがられても、服の一着も買ってやればすぐに機嫌をよくするさ。
仕事を辞めて、実家に帰って、腰を曲げながら米を作るのも悪くないだろ。
二つの選択肢へと向き直る。
そして、青い枠へと右手を伸ばした。
幻のように実体のないそれは容易に崩れ落ち、光の粒となって周囲を満たし始める。
「はは」
思わず自虐の笑みがこぼれた。
死を目前にして、ようやくわかるんだな。
俺は、まだ生きたかったんだ。
やがて、意識までもが白に染まり──
「──がぼッ!」
鼻と喉にツンとした痛みが走った。
気管に水が入ったのだ。
「げほッ! ごほ、ごホッ! ごぽ、ふぶ……ッ!」
背中を丸め、思いきり咳き込む。
涙と水とで滲む視界で周囲を確認し、気付く。
俺が飛び込んだ川じゃない。
土色の濁流とは対極の、透明度の高い清らかな水。
それがこんこんと湧き出るさまは、名のある景勝地のような美しさだ。
泉の片側には低い崖が反り立っており、草木が視界を遮るため、この泉がどの程度の大きさなのかここからでは判別できなかった。
「……ここ、は」
正直に言って混乱していた。
五体満足で目を覚ましたことは幸いだ。
だが、ここはどこだ。
前髪から垂れ落ちる水滴のくすぐったさも、
濡れて肌に貼り付いたワイシャツの不快さも、
焼けつくような気管の痛みも、
そのすべてが生々しく、これが現実であると嫌でも思い知らされた。
「どっこら、しょ──っと」
我ながらオッサンくさい掛け声と共に、泉から突き出した手頃な岩に腰掛ける。
俺は、何故か、自分のスーツの上着を手に持っていた。
水を吸って、やたらと重い。
無理矢理絞るも、大して水気は切れなかった。
溜め息をひとつ吐き、途方に暮れる。
「どーすっかなー……」
状況が現実離れし過ぎて理解が追いついていない。
何故俺は生きているのか。
ここはどこなのか。
仮に夢だとすれば、先程死にかけたことと、今生きていること、どちらがそうなのか。
疑問だけがぐるぐる回るが、答えは見つからない。
──ぱしゃ。
「ん?」
不自然な水音に、そちらへと視線を向ける。
魚でも跳ねただろうか。
そう思ったのだが、違った。
岩壁の陰から、自分の体を隠すようにして、白髪の少女の顔が覗いていたのだ。
年の頃なら中学生か高校生。
恐らく外国人だろう。
距離があるにも関わらず一目で確信できるほどの美少女が、太めの眉をひそめてこちらを睨んでいた。
睨んでいる理由は、すぐにわかった。
「ど」
「ど?」
「どろぼー! どろぼーです!」
「……は?」
「どろぼーかつ覗きです! に、二重の意味で重犯罪です! ヘレジナ! ヘレジナあ!」
少女が最後に叫んだのは、誰かの名前だろうか。
「ま、待った! 俺は泥棒でも覗きでもない! つーか、なんでそうなるんだよ!」
「だ、だ、だって、わたしの服!」
少女が指差したのは、絞りに絞ってギュウギュウになったスーツの上着だった。
「これは俺のスーツ!」
「ヘレジナー! ど、どろぼーが、お前のものは俺のものだって!」
「もともと俺ンだよ! 待て、今広げてみせるか──」
ら。
そう言い掛けた瞬間、
──世界から色が抜け落ちた。
そして、俺の眼前に、二つの選択肢が並ぶ。
【赤】上着を広げる
【白】伏せる
「これ……」
つい先程も見たものだ。
ただ、装飾の施された枠の色だけが異なっている。
「──……?」
気付く。
少女の声がピタリと止まっていた。
水面を伝わる波紋が、スロー映像のように、ゆっくり、ゆっくりと広がっていく。
時間の流れが遅くなっていた。
「選べ、ってことか……?」
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