2/ハノンソル -2 皇巫女
「アイバカナト、大事はないか!」
「少なくとも、腰以外に痛むところはないかな。治癒の術が効いたみたい」
「ふふん。ユラさまは奇跡級の治癒術の使い手だからな! あんな刺し傷や打撲傷くらい──、あんな……」
ヘレジナが表情を曇らせる。
「……すまない。その傷は、私が負わせたものなのに」
なんと答えるべきか迷っていると、選択肢が現れた。
【桃】「ヘレジナのせいじゃない」
【桃】「こっちこそ、泣かせてごめん」
【桃】「誰かのために負った傷なら、勲章だよ」
【白】「そんなことより、お腹が空いたな」
今回、やたらと桃色の選択肢が多いな。
泣かせてしまったことに言及するのはユラに止められているし、ここは無難に白枠を選ぼう。
「そんなことより、お腹が空いたな……」
そう口にした瞬間、腹の虫がぐうと鳴いた。
当然だ。
丸一日、泉の水以外のものを口にしていないのだから。
「ごめんなさい、失念してた。ヘレジナ。パンと水、それから干し肉は残ってるかしら」
「はい、すこしだけなら」
ヘレジナが荷物を漁り、麻袋と革袋をひとつずつ取り出す。
「手持ちの食料はこれで最後ですが、ハノンで補給できますし、アイバカナトにすべて分け与えてしまってもよろしいかと」
「ええ、そのつもり」
「では」
ヘレジナが、麻袋から干し肉を取り出す。
そして、
「ほら、口を開けるがいい」
「は──」
どういう意味かと尋ねる前に、
「むぶ!」
干し肉が口に突っ込まれた。
保存のために擦り込まれた塩が、口の中の水分を無遠慮に奪っていく。
「水も飲むか」
「──…………」
こくりと頷き、たぷたぷと音を立てる革袋に手を伸ばす。
だが、俺の手が届く前に、ヘレジナが革袋の口紐をさっと解いてしまった。
そして、
「口に注ぐ。上を向け」
「ちょま!」
慌ててユラの膝枕から離脱する。
「水くらい、ひとりで飲めるって!」
ヘレジナが口を尖らせる。
「……ユラさまの膝から離れがたいのかと思って、気を遣ったのだがな」
選択肢が現れる。
【桃】「せっかくユラが膝枕してくれてたのに」
【白】「それより、水が欲しい」
【桃】「代わりにヘレジナが膝枕してくれ」
【白】「さすがに過保護すぎるよ」
また、桃色の枠が多い。
危機的状況にでも陥っていない限り、黄枠や赤枠は滅多に発生しないのかもしれない。
干し肉のせいで舌が痛むので、
「それより、水が欲しい。随分しょっぱいね、これ」
そう答えた。
世界が彩色される。
「干し肉は、すこしほぐしてから、パンに挟んで食べるといいと思う。そのまま水を口に含めば、塩気もちょうどよくなるから」
「パンと水の両面作戦で、ようやく鎮圧できるのか……」
一年くらい腐らずに保存できそうだ。
ユラの言葉に従いながら、空腹にまかせてパンと干し肉を次々口へと詰め込んでいく。
言われたとおりにしてもまだすこし塩辛いが、食べられないほどではない。
俺の食べっぷりを見て、ヘレジナが言う。
「すまんが、おかわりはないからな。だが、ハノンに着けば食事もできる。あと数時間はそれで持たせてくれ」
「だいりょーぶ、らいりょーぶ」
干し肉が固くてたくさん噛まなくてはいけないから、満腹中枢がすぐにギブアップしてしまいそうだし。
「──あ、ほうほう。ひほつだけ、ふいそびれてたほとがあっふえ」
「喋るなら、しっかり飲み込んでからにしろ。行儀が悪いぞ」
ヘレジナに言われた通り、口の中身を飲み下す。
「言いそびれてたことがあって」
「なあに?」
ユラが小首をかしげた。
「ユラも、ヘレジナも、たぶんルインラインもだけど──俺のこと、"アイバカナト・ナントカ"とか"ナントカ・アイバカナト"だと思ってない?」
ヘレジナが、目をまるくする。
「違うのか」
「違うんです。相葉が姓で、奏刀が名前。毎度フルネームで呼ばれると落ち着かないから、どちらか好きなほうで呼んでほしい」
「じゃあ、カナトで」
「私も、カナトと呼ぶことにしよう」
御者台へ通じる引き戸から、傾きかけた太陽が覗く。
ルインラインは肌寒いと言ったが、騎竜車内の蒸れた空気が入れ換えられて、逆に清々しいくらいだ。
「──…………」
しばしの思案ののち、ユラが意を決したように口を開く。
「……そうだね。わたしも、ちゃんと自己紹介をしないとね」
「ユラさま」
「いいの。恩人に名を名乗るのに、何を躊躇うことがありましょう」
ユラが佇まいを直す。
「──わたしの名は、ハルユラ=エル=ハラドナ。呼び方はユラのままで。そう呼ばれるの、気に入ってるから」
「ハラドナ……」
聞き覚えのある単語だった。
思い出そうとして、すぐ心当たりに辿り着く。
「パレ・ハラドナ?」
たしか、ユラたちの国の名前だ。
「その通りだ」
ヘレジナが、薄い胸を張りながら言う。
「ユラさまはパレ・ハラドナの皇族であり、運命の女神エル=タナエルから神託を授かることのできる唯一無二の"
「へえー」
「もう少し驚かんか!」
「偉いのはなんとなくわかってたし、偉さの基準がまだよくわからないし……」
「これだから別世界の人間は」
ぐちぐち。
「ヘレジナ」
「はい!」
ユラに名を呼ばれ、ヘレジナが姿勢を正す。
「わたしはずっと、対等な友人が欲しかった。共に笑い、共に泣き、共に時を過ごすことのできる友人が」
「──…………」
「だから、カナトには、わたしの本当の名を知ってほしくなかった。知れば、恐縮して、離れていってしまうと思ったから……」
ユラが、その顔に微笑みを湛えながら、こちらへと向き直る。
「でも、あなたは、変わらずにいてくれるんだね」
「……買いかぶりすぎだよ」
そんなに大層なものではない。
ユラが一国の皇族であるという事実を、上手く飲み込むことができなかっただけだ。
だが、それでも。
絞り出すような今の言葉を聞いてなお、ユラに対して他人行儀な態度が取れるほど、俺は無神経じゃない。
「──アイバ、カナトさん」
意を決したように、ユラが口を開く。
「わたしの──ハルユラ=エル=ハラドナではない、ただの"ユラ"の友達に、なってくれませんか」
世界から色が抜け落ち、選択肢が現れる。
だが、その内容に興味はなかった。
答えなんて、ひとつしかない。
俺は、ユラに右手を差し出し、言った。
「とっくに友達のつもりだよ、ユラ」
ユラが、儚げな笑顔を浮かべながら、両手で俺の右手を包み込む。
「──…………」
何故だろう。
一瞬、ユラがどこか遠くへ行ってしまうような気がして、俺はその手を強く握り締めた。
「カナトの話、聞かせてほしい。ハノンまでの短いあいだだけど、初めての友達のこと、もっと知っておきたいから」
「……ハノンまで?」
俺の疑問に、ヘレジナが答えた。
「ハノンから地竜窟までの道のりは、これまで以上に厳しいものになる。いくら機転が利くと言えど、ただの一般人に過ぎないカナトを、またぞろ危険に晒すわけには行かん」
「でも──」
「ふふん。だが、安心していいぞ。地竜窟からの帰途、我々は、カナトを拾って本国へと帰ることにした。ユラさまの御友人を放っていったりはせん。一週間ぶんの路銀は渡すが、賭場で増やそうなどとは間違っても考えないように」
「考えない、考えない」
たぶん。
「そうだ、これも聞いておかないと」
「なあに?」
ユラが、小首をかしげてみせる。
「その、地竜窟ってところへ行って、何をするのかなって」
「──…………」
躊躇うように目を逸らすユラを横目に、ヘレジナが答える。
「エル=タナエルより、神託があったのだ」
「神託……」
「地竜窟にて儀式を執り行うことで、パレ・ハラドナは永劫の繁栄を約束される──と」
「……永劫の、繁栄?」
なんだか、妙に胡散臭い。
「神託って、いつもそんな感じなの?」
恐らく、同じ疑問を抱いていたのだろう。
俺の言葉足らずな疑問の意図を、ヘレジナが正確に汲み取った。
「いや、普段はもう少し具体的なのだ。災害や天変地異、流行り病に紛争の火種。前皇帝の崩御も、ユラさまに下賜された預言のひとつだ。皇巫女の神託は決して外れない。どういった形かはわからんが、"永劫の繁栄"は実現するはずだ」
ヘレジナの言葉を聞いて、頭の中で繋がったことがあった。
「──そうか、漏れたのか」
「?」
ずっと気になっていたのだ。
ユラたちが、何故、あんなにも暗殺者を警戒していたのか。
「神託の内容が、パラキストリに漏れたのかなって。隣国が"永劫の繁栄"なんてものを実現してしまったら、自分たちがどうなるかわからないから」
「うん。我々もそう考えている。影の魔獣を放ったのも、パラキストリの魔獣使いだろう」
「魔獣使いなんてのもいるのか……」
「通常、魔獣使いが操れる魔獣は一体のみだ。それが十数体も同時に現れたのだから、組織立って我々を狙っているのは間違いない」
「ちょっと待って」
今、聞き捨てならない言葉があったような。
「……十数体も、同時に?」
「ああ。もっとも、私たちを襲った一体以外は、師匠が引きつけて倒してしまったようだが」
「──…………」
絶句する。
一体倒すだけで、あれほど苦労したって言うのに。
「ふふん。私の師匠はすごいだろう!」
ヘレジナが薄い胸を張ったとき、御者台からルインラインの声が届いた。
「──はてさて、そのすごい師匠のすごい弟子は、何匹退治できたんだったかのう」
「う」
「帰ったら鍛え直しだ。カナト殿も一緒にどうかね。ヘレジナより幾分か筋が良さそうだ」
「……考えさせてください」
俺からすれば、ヘレジナだって十二分に超人だ。
「──…………」
ぎゅ。
「?」
裾を掴まれて、ふと振り返る。
膨れっ面をしたユラが、不満げに俺を見つめていた。
「そんな話、あとでいいから」
「あ、ごめん……」
おい、なんだ、可愛いぞ。
「えーと、俺のことを話せばいいんだっけ」
「うん」
「……あんまり面白い話はできないけど、それでいいなら」
「いいよ」
困ったな。
何から話せばいいのだろう。
逡巡していると、ユラが俺に尋ねた。
「カナトには、家族はいるの?」
「いるよ。両親と、弟と、それから猫が一匹」
「ねこ」
「一瞬だったけど、覚えてるかな。スマホの壁紙にしてたんだけど……」
ヘレジナが口を挟む。
「すまほとは、あの板のことか?」
「そうそう」
「綺麗なねこだったね」
「そう、そうなんだよ。五年くらい前、お向かいの飼い猫が仔猫を産んだとき──」
本当の本当に、他愛のない話。
関西人に怒られそうなほどオチのない話ばかりが口をついて出る。
やがて、ふと不安になった。
「……ごめんな。口の上手い人なら、もっと面白く話せるんだろうけど」
きょとんとした表情で、ユラとヘレジナが顔を見合わせる。
「カナトは変なことを言うのね」
「変、って?」
「別世界の話だぞ。面白くないはずがない」
「それもあるけれど」
ユラが微笑を浮かべる。
「わたしは、カナトの話が聞きたいの。口の上手い人とやらに興味はないわ」
「──…………」
もしかすると、頬が赤くなっていたかもしれない。
それを誤魔化すように、すこしだけ早口でふたりに言った。
「俺にばっか話させて、ずるいぞ。俺だって、聞きたいことがたくさんあるんだ。ユラたちのこと。この世界のこと。魔法の話なんて、特に興味あるし」
「じゃあ、次はわたしが話すね」
「お願いします」
そんな会話を交わすうち、騎竜車で数時間の道中は、瞬く間に過ぎ去っていった。
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