1/流転の森 -終 光の花園
逃げて、
逃げて、
逃げて、
高台の下の茂みに身を隠す。
「アイバカナト! ヘレジナが!」
「……あの魔獣は、ユラを狙ってる。違う?」
「違わない、けど……!」
「さっきから思ってたんだ。影の魔獣は夜を渡ってきた。なら、どうして、魔法で光を出すまで襲ってこなかったのか」
「──…………」
「たぶんだけど、夜じゃ駄目なんだ。切り離された影に入らないと、操れない。そういう性質なんだと思う」
「……わたしたちも、同じ結論」
「そし──、て、ユラが狙われてるのなら、こっちに来る、かも、と、思った……ん、だけど……」
すう、と。
意識が遠くなる。
「……アイバカナト?」
右肩が熱い。
右肘がくすぐったい。
人肌ほどの液体が、指の先から地面へ垂れ落ちている。
だが、ここは暗がりだ。
ユラは、まだ、気がついていない。
時間がないことを考えると、僥倖だった。
左手で頬を張って気合を入れ直し、言葉を続ける。
「……あの魔獣、意外と頭がいいみたいだ。あそこで待てばユラが戻ってくるって、ちゃんとわかってる。だからこそ、ヘレジナを殺すことはないと思う。ユラが戻ってきたとき、ユラを殺す術がないから」
「──…………」
「ユラ。あの魔法の光、ここから消せる?」
「……ごめんなさい。触れれば消せるんだけど、ルインラインを呼ぶために目一杯高く投げちゃったから……」
「そっか……」
八方塞がりだ、と思った。
頭がぼーっとして、考えがまとまらない。
血を流しすぎたのかもしれない。
そんなとき、眼前に選択肢が現れた。
【黄】「ヘレジナを置いて逃げよう」
【桃】「さっき、魔獣の投げた短剣が肩に刺さったみたい」
【青】「光の球って、同時に作れたりしないかな」
【黄】「このまま朝を待とう」
青枠。
青枠だ。
俺は、心中でほっと胸を撫で下ろした。
これで事態を好転させることができる。
青枠の選択肢を選ぶことを決意すると、世界の速度が元に戻った。
「……ユラ。光の球って、同時に作れない?」
「同時に?」
「うん」
「わたしの
「なら、好都合だ」
ふらりと立ち上がる。
「……俺、が、ヘレジナのところへ行ったら、光の球をたくさん作ってほしい。多ければ多いほど、いい」
「どうするの?」
「影の魔獣を、全方位から照らす」
「──……!」
ユラの瞳に理解の色が灯る。
「どうなるか予測がつかない。でも──やる価値は、ある……と、思う」
ユラが、こくんと頷く。
いい子だ。
「俺が魔獣の気を引く。ユラは、気づかれないように、後から、──づッ!」
「アイバカナト、もしかして、怪我──」
「ユラ」
ユラの言葉を遮る。
「後から、来てほしい」
「……わかった」
ふらりと立ち上がり、高台へと足を向ける。
短剣が刺さったままの肩が、じくじくと痛む。
血の気が引いて、視界が遠くなる。
最初に黄枠の選択肢を選んだときは、魔獣がヘレジナの影に入り込んだ。
ヘレジナは、俺たち三名の中で、最も身体能力に秀でている。
飛車角を取られたようなものだ。
「ふッ、は、ふう……」
なるべく右肩を動かさないように努力しながら、整備されていない坂道を登っていく。
二度目の黄枠が導いたものは、言うまでもない。
命に別状はないのだとしても、痛いものは痛いのだ。
黄枠の選択肢でこのありさまなのだから、赤枠ともなれば、致命傷を覚悟しなければなるまい。
なんとか高台の頂上付近まで辿り着くと、ヘレジナが目をまるくした。
「──アイ、バ、カナ……ト! 何故、戻ってきた……!」
「男の子だから、かな」
「ばか……ッ!」
ヘレジナの体に触手のように絡みついた影が、触れた場所を黒化していく。
否。
黒く染め上げているのではない。
ヘレジナから色を吸い上げ、彼女自身に成り代わろうとしているのだと直感する。
「怪我──してるの、に、どうして、来る……! ユラさまを置いてまで、どうして……!」
選択肢が現れる。
【桃】「ユラが泣くのは見たくない」
【桃】「ヘレジナは俺が助け出してみせる」
【桃】「ふたりとも助けると決めたんだ」
【白】「自分でもよくわからない」
「……決めたんだ」
肩に突き刺さった短剣の柄に、手探りで触れる。
そして、
「ぐッ、う、ああああああああああああああああああッ!」
つぷ。
激痛を叫び声で誤魔化しながら、短剣を抜き放つ。
「──はッ、はあッ、はあッ、はー……」
血に濡れた短剣を左手で構え、自分自身に発破をかける。
「ふたりとも助けると決めた! ふたりとも守ると決めた! 文句があるならあとで聞く!」
そう言い捨て、ヘレジナへ向けて吶喊する。
狙うは足元、影の本体だ。
なかば転がるようにして、ヘレジナの足元へと短剣を振りかぶる。
次の瞬間、
「ぐぶッ」
潰れた蛙のような声を漏らしながら、俺は宙を舞っていた。
どこか冷静な自分が状況を分析する。
短剣が影に刺さる直前、ヘレジナの爪先が俺のあごにめり込んだ。
そのまま蹴り上げられた俺は、空中で綺麗に一回転し、受け身を取ることもできず地面に倒れ伏したのだ。
「アイバカナト……ッ!」
蹴り抜かれたあごが痛い。
負担の掛かった首が痛い。
頭蓋の内側で、脳が悲鳴を上げている。
こんなに痛いのなら、
こんなに苦しいのなら、
何もかもを打ち捨てて、尻尾を巻いて逃げてしまえばいい。
【白】逃げる
【黄】逃げない
「──はッ」
思わず鼻で笑う。
ふざけた選択肢だ。
「逃げて、たまるか……」
痛みも、
苦しみも、
出血も、
恐怖も、
すべて無視して立ち上がる。
「やめろ……。やめ、て、くれ……」
ヘレジナの頬を、涙が伝う。
「私に、お前を、殺させないでくれ……!」
鳩尾に衝撃。
「──がッ、ほ!」
肺を満たしていた空気が、一瞬ですべて吐き出された。
崩折れる自分を支えるために、短剣を地面に突き立てる。
「はッ、げホッ、はっ、はあ……ッ!」
ぎい、ぎい。
ぎい、ぎい。
影の魔獣が、俺を嘲笑う。
いいさ。
笑ってろよ。
側頭部を蹴り飛ばされ、左耳が聞こえなくなる。
肩の傷口を踏みにじられ、激痛に身悶えする。
何かの弾みで口の中に入った砂粒が、じゃりじゃりと不快だった。
「──……!」
目を硬く閉じ、辛そうに歯を食いしばるヘレジナの姿を見て、痛感する。
俺は、無力だ。
もし俺が異世界から来た勇者か何かであれば、きっと、ヘレジナを泣かせることなんてなかった。
影の魔獣なんて一太刀で両断していたに違いない。
大の字に寝転がり、真夏の太陽じみた光球を網膜に焼き付かせながら、思う。
俺は勇者じゃない。
自分の未来が限定的にわかるようになったとしても、村人Aが、ちょっとすごい村人Aになっただけの話だ。
俺は世界の脇役で、主役はどこか別にいる。
そいつに村の名前を告げられれば、俺はそれだけで満足なのだ。
「──まあ、村人Aにしては、頑張った……、かな」
それは、
まるで、
光の
蛍のような無数の光が高台をひらひらと埋め尽くし、やがて、一斉に花開く。
まるで、電球の中にいるような光量だった。
無数の光球が世界から影を奪い──
黒板を鉄の棒で思いきり引っ掻くような音が、周囲に轟いた。
影がなければ存在し得ないのなら、影をなくしてしまえばいい。
我ながら、単純な発想だ。
影は、光の中では存在できない。
俺は確信する。
影の魔獣は、断末魔を残し、消えた。
「はッ、は、ふう……」
すっかり安心しきって上体を起こしたとき、ひどく小さな黒い塊が、こちらへ飛来してくることに気がついた。
あれはなんだろう。
不用意にもその正体を確認しようとした瞬間、
「──口を閉じるといい。体内とて影は影だ」
聞き覚えのない男性の声に、俺は思わず口を閉じた。
背後から腕が伸び、黒い影をあっさりと掴み取る。
「生憎と、火葬の用意しかなくてな」
男性の手が、燃え上がる。
閃光と炎に包まれた魔獣は、悲鳴すらなくこの世から消え去った。
「──…………」
今度こそ、終わった。
本当に終わったのだ。
張り詰めていた糸が、ぷつんと途切れる。
「詰めこそ甘いが、素晴らしい機転だ。なにより恩もある。ハルユラ殿とヘレジナを導いていただいたこと、誠に感謝する。儂の名は、ルイン──」
男性の自己紹介をすべて聞くことなく、俺の意識は暗転した。
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