荒れ野に咲く花を見よ

兵藤晴佳

第1話

「じゃあ、しっかりやるようにね、せんくん!」

 いつも通りの無邪気な声で電話が切れて、僕はスマホを手にその場で立ち尽くした。

 春休みが明ければ高校2年生になるのに、やっぱり名字で佐賀井さがい君とは呼ばれない。

 小学1年生のとき、よく面倒を見てくれた6年生の和地雁わち かり姉さんからは、10年経っても未だに「仙くん」と呼ばれている

「ちょっと、かりねえ……それはないよ」

 中部地方の山奥から、東北地方の海辺までやってきて、目の前にあるのは見渡す限り砂地の荒れ野だった。

「まさか、こんなところとは……」

 台風で増水した河口から海水が流れ込んだ、塩害の土地らしい。

 最寄りの駅から車で送ってくれた男の人が、運転席から下りてきた。

「雁……じゃない、和地わちさん、何だって?」

 ツナギ姿の逞しいこの人は、波羅輿修理はらこし しゅりさんという。

 何でも、今、大学院で生物学を専攻している雁姉の先輩なのだという。

「あ、いえ……」

 さっき尻を叩いた一言は、口にするのもつらかった。

 こっちは、つい先週、ふられた身だからだ。

 もちろん、波羅輿さんはそんな事なんか知らない。

「えっと、佐賀井仙さがい せん君だっけ? 和地さんの話だと……」

 僕はその話とは正反対の、勉強も力仕事もできない帰宅部の低空児だった。

 告白したって、ふられるのが当然だった。

 だから、聞いてなかったふりをする。

「ええ、幼馴染なんです、6つくらい離れた」

 雁姉は地元を離れて遠くの大学に通っていたが、忘れることはできなかった。

「隣に住んでたんです、僕の家の」

 いつも、長い髪を揺らして笑っていた雁姉は、何かあるたびに相談に乗ってくれた。

 最初は女の人だって意識はなかったけど、中学、高校の制服姿で出るとこ出てくると、そうもいかない。

 そして帰ってきた雁姉は、すごくきれいな大人の女性になっていた。

「俺も話は聞いたよ、何かものすごくやる気になってるって」 

 確かに僕は、ダメな自分から立ち直ろうとしていた。

 春休みに届いた1年生の成績表は、ほとんど留年寸前の有様だったのだ。

告白してふられても、慰めとか励ましとか、何か言葉をかけてもらえるだけでよかった。

 それで変われると思ったのだが、現実は甘くなかった。

 波羅輿さんの電話が鳴る。

「あ、和地さん? ああ、しっかり鍛えて帰すよ」

 何をしゃべったか、だいたい分かる。

 僕をふった雁姉からは、厳しいお叱りの言葉だけしかなかったのだ。

 曰く、昔から、努力が続かないのには呆れていた、と。

 それでも、言われるままにこんなところまで来たのにはわけがある。

 電話を切った波羅輿さんは首を傾げた。

「何のこと? 帰ってきたら、もう一回だけ話を聞くって」

 週が明けて突然かかってきた電話で、期待する僕に雁姉が告げたのもその一言だった。

 波羅輿さんの下で働いて、別人に生まれ変わった僕を見てもらう。

 それが、僕の最後の望みだった。


 そして、次の日。

 松葉杖をついた波羅輿さんは、僕に一掴みの花の種を渡してこう言った。

「これなら、できるだろう?」

 それは、他のことは何一つできないという意味でもある。

「この辺りにはもう、僕の他には誰も住んでいない。僕が蘇らせるしかないんだ」

 真剣な眼差しに、僕の心はずきんと痛む。

 波羅輿さんが松葉杖を突いているのは、僕のせいだ。

「すみません、寝ぼけていて……」

 この朝、僕はいきなり朝寝坊をして、雁姉のモーニングコールでドヤされた。

トラックが入らない道へ農業機械をリヤカーで運んで耕地に下ろす時、頭の寝ぼけていた僕は手を滑らせた。

 重い機械の下敷きになった僕を助け出そうとして、波羅輿さんは足を挫いてしまったのだった。

「この種は、痩せた土地でも明日には芽を出す。まず、雑草しか生えないこの土地を、花でいっぱいにしよう」

 そこへまた絶妙のタイミングで雁姉から電話がかかってくる。

 波羅輿さんは首を横に振ったが、あの無邪気な声で様子を聞かれると、隠し事なんかできない。

「何てことしたの、仙くん!」

 悲鳴と共に、電話は切れた。代わりに波羅輿さんの手元のスマホが鳴る。

 聞こえてくる仲睦まじい会話から逃げるように、僕は種を撒きに出た。


  

 でも、次の日、その種は芽を出していなかった。 

 波羅輿さんは何も聞かないで、掘っ立て小屋みたいな家の戸口でジャガイモを剥いていた。

 代わりに、雁姉から電話がかかってきた。

「種はどこに撒いた?」

 既に何が起こったのか察しているかのように尋ねてきた。

「それが……」

 僕は言葉を選びながら、出来事だけを正直に、しかしくどくどと話した。

 雁姉は怒る気力も失せたらしい。昔のような穏やかな、しかし以前とは違う冷静さで話を要約した。

「道端に撒いちゃったのね、面倒臭くて」

 というか、やっていられなかったのだ。雁姉と他の男との仲を取り持ちに来たみたいで。

 そんな理由は言えなかったが、雁姉は代わりに、種が芽を出さない原因を教えてくれた。

「鳥が来て食べちゃったの、それだけのこと」

 ちゃんと土のあるところに撒きなさい、の一言を残して、電話は切れた。

 僕は事情を告げずに、波羅輿さんから次の種を受け取った。


 だが、その次の日も、種は芽を出さなかった。

 やっぱり、波羅輿さんは何も聞かない。僕が落とした機械の調子が悪いらしく、一心にドライバーを振るう。

 自分の失敗が惨めで、雁姉から電話がかかってこないように祈るしかなかった。

 もともと神頼みをするほど苦しい思いをしたこともないのに、それがどこに届くはずもない。

「どこに撒いた?」

 たしなめるような口調だった。どうやら、電話に出たときの声で、何があったか察しがついたみたいだった。

「土はあったよ」

「石は?」

 そういえば、たくさんあった気がする。

「いけないの?」

「その分、土が少ないじゃない」

 言われてみればその通りだった。

「ちゃんと探したの? 場所」

「それは……」

 探さなかった。失敗続きの自分が格好悪くて、早く仕事を片付けようと思ったのだ。

 深い溜息が聞こえて、僕の気持ちはどこまでも落ち込んでいった。

 お互い、しばらく黙り込んだところで、雁姉は厳しい声で言った。

「土が浅いから夜中に芽を出したと思う。でも、日が昇ったら焼けちゃうわ。で、根がないから枯れちゃったの」

 小学生のころのように優しく教えてはもらえない。

 まるで先生に叱られているみたいだった。

「土のあるところ、ちゃんと探してね。面倒臭がらずに」

 そこで電話は切れた。

 代わりに、機械のあたりで電話が鳴る。

 雁姉が心配しているのは、たぶん、波羅輿さんなのだ。


 雁姉から事情を聞いているはずなのに、波羅輿さんは僕を咎めもしないで、また種をくれた。

 今度こそ、失敗は許されない。僕は土の深い場所を探して歩いた。

 そして、次の日。

 小さな芽が、他の草の間から見えていた。

 真っ先に電話したのは、雁姉だった。

「そう! じゃあ、ちゃんと見守ってね。育たなかったら、意味がないわ」

 あの無邪気な声が返ってきた。

 報告に戻ると、波羅輿さんは庭仕事の手を止めて、楽しそうに電話で話していた。

 たぶん、相手は雁姉だ。

 声をかけそびれて、その日はそのまま終わってしまった。

 ところが、次の朝のことだった。

 出たはずの芽は、元の場所には見当たらなかった。

 そこでタイミングよく、雁姉から電話がかかってくる。

 僕のうろたえっぷりは、最初の一声で伝わっていた。

「どうしてそこに撒いたの?」

「他の草も生えてたから」

 電話の向こうで、諦めきったような声が聞こえてきた。

「考える手間を省いちゃダメ。他の草が邪魔で、伸びられなかったのよ」

 それっきり、電話は切れた。


 僕も、自分を諦めることにした。

 波羅輿さんに、帰りたいと言ったら即答された。

「君がそう言うなら」

 最初から期待してなかったと言われたみたいで、僕の目の奥はじんと痛んだ。

 もともと少ない荷物をまとめていると、雁姉からの電話が入った。

「帰るんだって?」

 お疲れ様、とでも言うかのような優しい声だった。

 それがかえって悔しくて、僕もついひねくれたことを言ってしまった。

「僕が頑張ったって無駄だって、分かったから」

 ふうん、という寂しそうな声が聞こえた。

「そうなんだよね。仙君、子どもの頃から……あの気持ち、結構、真剣に聞こえたのに」

 僕は自分で電話を切った。また、波羅輿さんの電話が鳴る。

 それを邪魔したくて、僕は最後のお願いをした。

「もう一度だけください、あの種」


 春休みの最後の日が来た。明日は、また学校に行かなくてはならない。

僕は、挫いた足の治った波羅輿さんと、塩害の荒れ野を眺めていた。

 そのあちこちには、ぽつぽつと小さな花が咲いている。

 波羅輿さんが、ほっとしたように言った。

「よく探したね、育つ場所を」

「何日も歩きましたから」

 自信たっぷりに答えると、力強い答えが返ってきた。

「この花は実を結んで、これから何百倍にも増える」

 そこでまた、電話が鳴った。雁姉からだった。

「じゃあ、私、また向こうに行くからよろしく」

 言うだけ言って、電話は切れた。

 波羅輿さんの電話が鳴るかと思ったが、それっきりだった。

 代わりに、くすくす笑う声が聞こえた。

「和地は昔っからこうだ。大変だね、お互い」

「お互い?」

 聞き返すと、波羅輿さんは肩をすくめた。

「俺も告白してふられたのさ。一昨年だったかな」

 研究一筋だった波羅輿さんの、初めての恋だったらしい。

 この荒れ野にやってきたのは、そこで心が折れたからだという。

「考えてみれば、これが俺の弱点だったのかな」

 僕を車に乗せて送りながら、波羅輿さんは大真面目に言った。

「和地も俺をふっておいて、様子だけは君を山車に知ろうとしたんだろう」

 僕も波羅輿さんも、まとめて雁姉の掌で転がされていたわけだ。

「どうする? 俺はここを元に戻したら、研究の道に戻るけど」

 最寄りの駅で僕が下りると、波羅輿さんは僕をまっすぐに見て尋ねた。

 どういうつもりかは、何となく分かった。

「その頃には、もう先回りしてます」 

 僕は、ちょっと胸を張って答えてみせた。

 そうするしかない気がした。雁姉を見返してやるには。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

荒れ野に咲く花を見よ 兵藤晴佳 @hyoudo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ