第13話 ルチア・シュヴァリエ
少しだけ、ルチア・シュヴァリエの生い立ちを話そう。
彼女の父親は
その枢機卿が、とある娼婦を大層気に入って、身請けしたのが始まりだ。
その娼婦は
普通、枢機卿ほどの地位のある者は直接娼館には行かず、使いをよこして自分の邸宅なり、都合の良い場所に呼ぶものだが、変わり者の枢機卿は噂を聞いて娼館にいき、一晩中遊んだかと思うと、そのまま身請けして共に連れ帰ってしまったのだ。
それ故に、噂話は尾ひれも背びれもついてしまった。
法帝と違い、枢機卿は所帯を持つ事を禁じられていない。
もちろん彼にも妻と子があった。
そんな中に妾ではなく第二夫人として扱うようにと美しい娼婦を拾ってきた事で、もちろんながら
その娼婦だったルチアの母と、枢機卿の父の間にルチアが生まれる頃には、第一夫人との関係も悪いように出来上がってしまっていた。既に3人の子があった第一夫人の元へ枢機卿は足を運ばず、第二夫人を寵愛した事がますます2人の関係を悪化させた。
ルチアが物事がわかる頃には、日々苛烈さを増していくいじめに、母親はすっかり生きる気力を無くしていた。
娼婦であった母は、それを理由に蔑まれ使用人にも蔑ろにされていたのだ。
それでも父親が帰ってくれば、母の表情もいくらかやわらぐし、嫌がらせも息をひそめるので嬉しかった。
しかし他国との交渉でしばらく父が留守にした時にルチアの母にとって耐えがたい事が起こった。
「
第一夫人である、ミガットは鼻を摘んでそう言った。
「このいやらしい娼館向けの髪色も、気分を害するわね。湯あみもしてなくて汚らしいし、切りなさい」
ミガットが使用人に、ぴっぴっと人差し指を動かして指示すれば、使用人はハサミを持ちルチアの母、ティアロマの薄いピンク色の髪を持った。
「奥様おやめください‥」
ティアロマは力なく言った。振り払う力が残っていないのは、先ほどまでミガットに鞭で叩かれていたからだ。
「早く切って!!」
ミガットの怒鳴り声に、使用人はビクッと体を縮こませた。そして慌てて、掴んだ束をざくりと切った。
ルチアはこういう時に近づく事を禁じられている。ミガットの標的にならないように、隅で小さくなっていないといけないのだ。
震えるルチアは机の下でネズミのように丸まって、ギュッと目を瞑っていた。
「なんとか言いなさいよ!売女ごときがどうして私と同等なのよ!」
ミガットが鞭打つ音が響く。
ルチアは耳を塞いだ。恐怖でどうにかなりそうだ、早く終わって欲しい、母を傷つけないで欲しい。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、母の言いつけ通り必死に小さくなっていた。
「‥‥いいこと思いついたわ、今までどうして気付かなかったのかしら。不貞行為をさせて離縁させればいいんじゃない。売女は普段から使用人をすぐに誘惑するものね」
ミガットは、門の護衛の男を呼べと使用人に言った。
門の男は正確にはこの屋敷の使用人ではなく、ほとんど奴隷に近い男で、ミガットに借金があるため長らくただ働きをしている。
とても品がいいとは言えない性格をしている男だ。
「奥様、お呼びで?」
「今すぐこの女を
ルチアにはその意味がわからなかった。
ただ卑下た笑みを浮かべた門番の男が、母親を害するつもりだという事だけはよくわかった。
母はぐったりして動かない。
「いいんですか?!北町のティアロマってったら
「くだらない、早くおし」
そこからは地獄だった。
悲鳴を上げる母を押さえつけ、門番は「サイコーかよ」「夢みたいだ」とぶつぶつ言っていた。
ミガットの満足そうな高揚感のある笑みと、使用人の好奇の視線。
だんだんと力なくしていく母が、ずっと涙を流して天井を見ていた。
ルチアは目も耳も塞いで、じっと耐えた。自分も母も殺されるのではと恐怖しながら。
やめておかあさまが死んじゃう。
ルチアは誰か助けて、と祈る。
どうすることもできない時間が終わって、使用人も皆が離れの部屋を出て行った。
「あ‥おかあ‥」
ルチアが机の下から這い出ると、母は力なく笑う。
そしてルチアを抱きしめ
「怖かったね、大丈夫よもう大丈夫、私のかわいいカナリア‥」
母の目には深すぎる絶望が住んでいた。
「おかあさま、ルチアがおかあさまをまもる‥」
「ルチア、大丈夫よ。用意をしたらお出かけしましょうか」
ルチアとティアロマは、父から贈られたばかりの服を着た。ティアロマは不揃いになってしまった髪を隠すため普段はしないベールをつけた。神官用だったのだが、まとめることも出来ないざんばら髪では出かけられない。
ルチアの荷物を詰めたトランクと、父への手紙。けれど母の荷物がないことに、ルチアは気付かなかった。
「ためらわずに、旦那様にお話ししていれば、こんな事にはならなかったのかしら‥」
母の呟きは冷たい冬の風に消えた。
「ルチア、お父様がここにきたらお手紙を渡してすぐ読んでもらって頂戴ね、必ずよ」
「おかあさまは?」
「私は行かなくては‥元気でね、私のかわいいカナリア‥愛してるわ‥ずっと」
ティアロマはルチアの頬にキスして、それから唇にもした。
痛いほど強く抱きしめてから立ち上がり「よろしくお願いします」と孤児院のシスターに会釈し、それきり戻ることは無かった。
以前からルチアのためにも枢機卿邸から離れる事を考えていたが、ティアロマは孤児であるために帰る実家もなくためらっていた。
しかしその日の出来事は大きな転機となり、ティアロマに消すことのできない絶望と屈辱を与えた。
結果として邸宅を飛び出しルチアを教会の孤児院に渡した後、枢機卿に合わせる顔もないと自身は冬の川に身を投げたのだ。
父親が帰った時には、全て終わった後だった。
ルチアが持たされた手紙には、何も言えずにいたルチアの母の痛みが書かれていた。
枢機卿はその手紙を読んで初めて、己の家の中で何が起きていたかを知り、後悔し、2度と腕に抱くことのできない美しい妻を想った。
「おとうさま、ルチアはあのうちに帰るのですか?」
孤児院の面談室で、震えた手で手紙を持ち、俯く枢機卿はルチアの声に顔を上げた。
隣には不安を宿しながらも、こちらを気遣う優しい銀色の目がある。母親譲りの美しい顔に、自分と同じ銀の髪色と銀の瞳。愛しい人との愛しい我が子だ。
ルチアを抱きしめ、彼は泣いていた。己の不甲斐なさに泣いていた。2人があの家でどれほど辛い時を過ごしたか、想像するだけで胸が裂かれるようだった。
「すまない、すまない、すまないルチア。父さんが護らなければならないお前たちを護ることもできず、国民のために‥国民を護るために仕事をしているなどと、なんとばかな‥っっ!」
「大丈夫‥おとうさま‥きっと大丈夫ですよ‥」
ルチアの手が枢機卿の背をさすった。
それにハッとした彼は、「あぁ‥」と咽び泣いていた。
彼女の背をそうやって、母がさすってやったのだろう。そうされてきたからルチアはそうするのだ。
食事も出されず部屋に閉じ込められた時もあったと書かれていた、食べ残しを盛られている時もあったと書かれていた。
それが恨みつらみを書いた遺書ではなく、ルチアを家に戻さないで欲しいという嘆願書である事は明らかだった。
「ルチア、よく耐えた。頑張ったな。もう安心していい、お前はあの家には戻らず、神官になるんだ。6歳になって女学院に入れば、寮に住めるし絶対にミガットは手出しできない。私とも毎日会える‥それまでは孤児院に居るんだ。後1年だ、1年経てばルチアは女学院に入れる」
「ルチアはおとうさまとおなじ、教会のお仕事をするのですね?」
ルチアが嬉しそうに微笑んだ。花が咲いたような笑顔にまた、枢機卿は涙を流す。
「まあ、おとうさまのおなかのなかには、泣き虫がすんでいるのですね、よしよし泣かないで私のかわいいカナリア、ぜんぶだいじょうぶよ〜」
「ルチア、すまない。ほんとうにすまない‥」
ティアロマとルチアが、邸宅から逃げ出した日の事は一切手紙に書かれていない。
手紙は以前から準備していたもので、その日に書いたものでない事と、ティアロマは枢機卿をとても愛していた。それ故に知られたくなかったからだ。
ミガットは彼女に最大の侮辱と辱めを与える事に成功したことになる。
数年後、枢機卿だった父は法帝となった。
事件のすぐ後に正式に後継となったので、所帯を持つ事が許されない法帝となる準備として、ミガットとは離縁となり、3人の子もルチアも籍を外されている。
父が法帝となった事でルチアは枢機卿に一足も二足も飛んで就任した。
もともといつかは枢機卿になるであろうと言われていた彼女が、10代で枢機卿になった事にあからさまな不満は出なかったが「娘だからやっぱり」とは囁かれていた。しかし別段珍しい事でもなく、法帝が枢機卿を指名する以上人選の偏りはいつもの事なのだ。
ルチアにとって、数年間はとても穏やかな日々だった。過去の記憶が時折深い影を作るが、人生で最も静かな時だったと言える。
しかし突然に法帝が倒れ、枢機卿の中で争いが起こり、暗殺騒ぎまでおきた。側付きの神官が数人処分保留で勾留されている。
その間にも法帝は、みるみる弱り起きている時間も少なくなっていく。
「ルチア、お前はわたしを恨んでいるだろう‥」
「感謝こそすれ、恨むことなどありません」
「愚鈍なわたしは何も気付いていなかった‥私が‥気付いていれば‥」
「聖下、ありがとうございます。私はもうよく覚えておりませんが、母はいつも聖下に感謝しておりましたよ」
覚えていないなど、嘘だった。
判然としすぎるほどに記憶は明瞭で、震えて縮こまっていた床や机の足の感触も、ミガットが怒りに任せふるう鞭の音も、何もかも全て覚えている。思い出すととてつもない吐き気とめまいをともなうので、ルチアはいつも「覚えていない」と自分に言い聞かせる。
胸をかきむしりたくなるような恐怖を、呼び起こさせないための自衛だ。
「ああ、ティアロマ、ルチア、すまない、すまない‥」
法帝の譫言のような謝罪は、日を追うごとに増えていった。
「‥‥ティアロマ、来‥て‥くれた、のか‥帰りが、遅くなって‥すまない‥‥」
見舞っても眠っている日が増え、何日か話をできない日が続いた後、数日ぶりに目を開けている父に会えたと思ったらそう言った。
それは父の最後の言葉だった。
それ以降、話をすることは叶わず、ルチアは父の体がすっかり痩せ、ベッドに寝かされていてもその厚みはほとんどない事に気付いた。
本当に死んでしまうのか、この世界で自分だけの光の糸、それもたったの一本しかない糸が失われるような不安の中、いつのまにか他者の手によって父は事切れていた。
その時の叫び出したい衝動も、泣きじゃくりたい衝動も何もかもゴクリと腹の底に飲み込んで、ルチアは前を向くしかなかった。
そしてサーリアの聖堂で円形の祭壇へと歩き出したルチアは、既に祭壇を準備していた神官たちに感謝を述べ、自分の側付きの神官が差し出したサーリアの杖を手に取った。
擦りの入った銀色の杖は、ルチアの身長よりも頭二つ分は長い。先端に青い魔石があることからも、治癒術士の杖である事がわかる。
魔石はベルのものより随分大きく、魔石の台となる装飾も華美であった。
「お待たせを‥致しました」
ルチアは祭壇で待っていた2人の男性にそう言った。彼らも枢機卿で、ルチアと同じベルベットで濃紺の法衣を着て、同じ襷をかけている。
刺繍はルチアと違う銀色だった。金の糸が法帝の後継であることの証らしい。
「話は粗方ききました」
赤茶色い髪で、腰の曲がった老人が言った。
「バッシェルン卿の事があったので、アドテーラ卿にも聖騎士と部屋で待機してもらっています」
こちらは青い髪で、先ほどの老人よりはもう少し歳若い老人だった。
「お手数をおかけいたしまして、ありがとう存じます。お知恵をお借りしなくてはならない事が、多くございますが、先ずは国を脅かす魔物を排しましょう」
ルチアが銀の杖を祭壇の丸く小さな建物、サーリアの神殿に向かって掲げるように向けた。
それに合わせて、他の枢機卿もルチアと同じ杖を反対側から御簾に向かって掲げる。
「我はサーリアを護る枢機卿ルチア・シュヴァリエ」
ルチアの持つ杖の魔石が光る。
「我はサーリアを護る枢機卿イスマイル・カルカーター」
老人の枢機卿が言うと、今度は彼の杖の先端も光る。
「我はサーリアを護る枢機卿オスバルド・ソメンテ」
次は青い髪の老人が言う。彼の杖の魔石も同じように光る。
『それは揺蕩う水のように我らサーリアの民を慈しむ女神の吐息』
3人の声が揃う。
魔石がさらに光を増した。
『それは強く、それは鋭く、それは我らの敵を貫く』
銀の杖の魔石から光が伸びて真っ直ぐに御簾の中をさした。
『美しき女神よ、サーリアの母なる女神よ、我らがこの法術を使う事をお赦しください。我らの敵を排すため、我らの民を護るため、豊穣と癒しの女神サーリアの名を抱く国を護るため、我らが亡き法帝に代わり赦しを乞います。我らの傲慢さをお許しださい。癒しを司る我らが命を奪う事をお赦しください』
長々と赦しを乞うた後、枢機卿の3人は返事を待つように御簾を見つめていた。
その小さな神殿の中から、ザァっと風が吹いて、ルチアの髪がなびいた。
《赦します》
確かに聞こえた。
とても不思議な声だった。女性の声だったが、子供から老人まで全ての声に聞こえた。
そして枢機卿の3人は互いに頷き合って最後の言葉を唱えた。
『デステッロ』
カッと、眩しすぎる光が小さな神殿から真っ直ぐ聖堂の天井に向かって伸びた。
啓太は先ほどまで祭壇の出来事に目を奪われていたが、あまりの明るさにぎゅっと瞼を閉じていた、反射的に。
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