死神の選択(2)


 やがて、平静を取り戻した美咲が戻ってきて、泣き崩れていた千早を支えた。松下は二人にお辞儀をして、廊下を歩き出す。病院の入り口には同僚の死神の渡会がいた。


「なにをしてるの? 早く持ち場に戻りなさい」

「持ち場……ね」


 渡会の悪気のない無機質な言葉が、ひどく滑稽に見えた。持ち場。それは、相沢真琴のそばであり、そんな言い方をすれば、彼女はこれでもかと言うほど悪態を突いてくるはずだ。


 その場所。それは松下の持ち場であり、松下がいるべき場所だ。でも、真琴の身体だけが止まっているこの場所に、なぜか松下は留まり続ける気にはなれなかった。


 ここに真琴はいない気がしたから。


「な、なによ?」

「なんでもない……お前こそ」

「私はエリア担当。あなたは、個人。相沢真琴の担当でしょ? 『死神は対象の半径5メートル以内から離れることを禁じている』。規則を忘れたわけじゃないわよね」

「そんなの……個々の死神の職業倫理に基づいてるだけで、守ってるなんてごく一部だよ。実際には、徘徊してる死神なんて、山ほどいる」


 それは、公然と知られているルールだ。破ったって、よほど真面目な他の死神に見つからなければ、お咎めなどはない。むしろ、そんなルールを頑なに18年間守り続けていた松下の方が珍しい存在なのだろう。


「……どうしちゃったの、松下君。以前からあなたが一番ルールに忠実だったじゃない」

「俺は……ルールに忠実だった訳じゃない。ルールを守ることで……逃げてたんだ」


 聡が……唯一の親友が死んで、それでも規則に則って彼の魂を取り出して天界へと運んだ。なぜそれをしたか。答えは決まっている。それは、自分という存在が死神だからだ。存在意義だからだ。魂を取り出して天界に導くと言う仕事を生業としている者だからだ。


 これが自分の仕事だと言うことで無理矢理納得させた。そして、自分を納得させるためには、自分はルールに忠実でなければならない。だから、松下はあえて自分の罪を報告した。自分を罰することで、自分の心を逃すために。


 でも、そんなものはもう……たくさんなんだ。


「渡会……もう、俺に構うな」

「……構うわよ。だって、あなたに……松下君にはこのままここにいて欲しい」

「……」


 そうつぶやいた渡会を通り過ぎて、松下は病院を去った。


 次の日、松下は真琴が通っていた学校に行った。教師が話しづらそうに、クラスメートたちに話して、若干動揺していた。昼休みは真琴の話題で持ちきりだったが、『みんなで千羽鶴を折ろう』なんて委員長らしき人が提案したり、千早が机に突っ伏して動かなかったりしていたが、クラスメートも普通に授業を受けて、基本的にはつつがなく日常は進んだ。


 この現実の世界も、怖いくらいに変わらなかった。真琴がいなくなったとしても、地球の自転が止まるわけでもない。太陽の光が来なくなるわけでもない。ただ、この世界に真琴の意識だけが存在しない状態で、それでもどうしようもなく世界は……生きていた。


 放課後、誰もいなくなった教室で、松下は浮遊していた。ここの位置で、普段は真琴とやり取りしていたが、今は閑散として夕焼けがさしている。


 夕焼けの校舎は、まるでそこが別の場所であるかのような錯覚を覚えた。いつもは、朝方と帰りがけにしか見ない景色だからだろうか。そのオレンジに染まった下駄箱が、なんだかすごく寂しそうに映る。駐輪場に自転車を置いて、中に入ると職員室だけに灯りがついていた。生徒たちがいないのに、なにをやっているのだろうか。軽音部の演奏がやけにうるさい。体育館からバスケのかけ声が響いている。


 やがて、松下は場所を変えて移動した。真琴がいつも歩いていた帰り道。太陽はこれ以上ないくらい照りつけていた。きっと、どんなことがあっても、変わることなくこの世界を照らしているのだろう。


 なかなか変わらない信号機を待っている間、それを眺めながら、なんだか酷く憎らしくなった。横断歩道横の信号機がなかなか青にならず、すごくイライラした。通行する車もまばらなのに、なんで等間隔でしか変わらないのか。


 真琴がどんな気持ちで時を刻んでいたのかもまったく考えもしないで、信号機はいつも通り等間隔でしか変わらない。もう行ってしまおうかと少し前のめりになってると、パパーッとクラクションを鳴らされた。やっと青になった信号機の電柱を蹴った。


 真琴の家に到着して、いつものようにギターとリュックを持って。たまに、母の美咲が早く帰ってきている時は、2人でこっそりと抜け出していたが、今は寝たきりの真琴につきっきりだから、そんな心配もない。


 駅前に到着して、ギターとリュックを下ろす。いつも通りの定位置で演奏を始めるが、そこには誰も集まってはこない。当然だ。自分は、ただギターが上手いだけの存在で、真琴のような弾けるような歌声はない。


 2時間ほど演奏をしたところで、ギターを持ってリュックを背負う。帰り道は、真琴が興奮状態で、とにかく落ち着かせようとするのに苦労した。彼女のいない帰り道は、こんなに静かなものなんだと思った。


 真琴の家に帰って、部屋を浮遊する。もう、ここにいる理由もない。いや、どこにいる理由もない。ただ、なんとなく松下はいつもの行動をトレースしていた。


「もうルールに縛られてもない……か」


 やっと、自分は自由になったのだ。渡会はきっと松下のルール無視の報告などしたりはしないだろう。自分が犯した罪だって、全力で誤魔化して生きていこう。最低限のルールだけ守って、今後は生活をしていこう。仕事は適当にこなして、行きたいところに行って、やりたいことをやるのだ。


 目を瞑ると、不意に真琴の笑顔が映る。それは、高画質カメラの写真なんかよりも鮮明だった。


「……消えろよ」


 もう、この世界にいないんだから。消えてくれ。もう立ち上がることも、歌うことも……笑うこともないのだから。頼むから。何度も何度もそう願った。それでも、彼女は一向に消えてくれない。むしろ、遥かに生き生きとした表情で、視界の奥へとい続ける。


 松下はパソコンで音楽を聴き始めた。しかし、それはいつも聞いていたそれじゃない。夢中になって聞いていたはずの名曲たちが、今では妙に冷めて聞こえる。


 またしても真琴が網膜に浮かんだので、慌てて楽しい動画を探した。楽しいものなんて、世の中には腐るほどある。見たくないものは見なければいい。だから……頼むから、消えてくれ。


 でも……なんでこんなに胸が……痛いのだろう。


 彼女が救われることはなかった。松下にできることはなかった。余命を告げて、余命通りに死ぬ存在。決められた期限を彼女とともに過ごせば終わるはずの仕事だ。今までずっとそうしてきたし、これからもずっとそうしていく。


 それなのに。


 ……そのはずなのに。


 不平等であることが平等であるなんて、なんて皮肉なんだろう。たまたま不平等に生まれた真琴が、不平等に死んでいく。それこそが、平等なんて……神という存在はイカれている。


 自分は理解したはずだった。理解したつもりだった。自分の存在意義を肯定してあきらめて。それでも、対象の気持ちに寄り添って、自分自身を偽って、偽善で固めて。


 なぜ、こんな気分なのだろう。なんで、自分の身体の大事な部分が持っていかれたような感覚に陥っているのだろうか。相沢真琴という存在がこの世界にいなくなるだけだ。自分の視界に……心から離れるだけだ。


 松下は真琴の死神だ。それ以上でもそれ以下でもない。親友の千早の方が、きっと自分より悲しんでいるのだろう。母親の美咲の方が人生に絶望しているのだろう。彼女たちと同じような顔で同じようにするのは、きっと許されないのだろう。でも、だからといって自分の空いた胸の風穴が埋まるわけでもない。周囲がどんなに彼女の死を悼んでいるかなんて、なんの足しにもならなかった。


「ははっ……なんだこれ」


 やがてそれも耐えられなくなり、自分の心臓に手を当てた。そして、実体化して本棚を片っ端から探った。


「なにか……なにか……」


 はちきれそうな胸の痛みを抑えるために、必死に脳内を埋めようとした。息苦し過ぎて、もう息もまともに吸えないと思った。激しい動悸だけが、突き刺さるような痛さが、どうしようもないこの空虚が襲ってきて、そうせずにはいられなかった。


 やがて、パラパラとブルーレイディスクが落ちてきた。そこには、タイトルが書かれていた。


 一行目は母親の美咲宛。


 二行目は親友の千早宛。


 そして、三行目は……松下宛と書かれていた。


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