【番外編】七海さん頑張る

 僕が七海に告白の苦い思い出を話してから少し経ったある日、不思議な提案を七海からされた。


 ちょうど休みの日だったので、どこかにデートに行こうかなとか思っていたんだけれども、七海から丁重にお断りされてしまったのだ。


 お断りされたことにショックを受けていると、七海はちょっとだけ頬を染めて僕に告げてきたのだ。


 それは『18時頃に一人で家まで来て欲しい。鍵は開けてるから、ただいまと言って入ってきてね』というものだ。


 それだけで、それ以上は質問しても答えてくれなかった。どころか、質問するほどに頬を染めるのだ。


 いったいどういうことだろうと、その提案を少しだけ不思議に思ったんだけど……ただいまと言う事自体には特に抵抗感を感じなかった。


 以前に夕食をお世話になっていた時に、最初の頃はお邪魔しますと言っていたのが、後半はただいまと言うようになっていたからだ。


 もしかしたら先日の件で、僕を元気づけようと何かしてくれているのかもしれないな。


 昼は何かしらの準備をしていて、だから18時に家に来てという事なのかもしれない。そう考えるとしっくりくる。


 ……もしもそうであるなら、七海の心遣いがとてもありがたいと感じる


 いや、これはあくまでも僕の予想だ。案外、ただの夕食のお誘いだけの可能性もある。それでも期待してしまう自分がいるのも確かだ。


 そうだな……手ぶらで行くのもなんだし。なんかお菓子でも買ってお邪魔しようかな。僕の小遣いなら、ロールケーキとかが無難だろうか。


 なんか最近は常に二人で一緒だったから、こういうバラバラに何かをするのは久しぶりで少しだけ楽しい。


 お土産を選ぶ時に七海が喜んでくれるかどうか、期待と緊張が入り混じった感覚を覚えるけどそれが少しだけ心地いい。


 喜んでくれると良いな。


「そんなわけで、彼女の家に行くまでちょっと暇なんですよ」


『なんですよって、久々に一人で繋げてきたと思ったら惚気かい?』


『相変わらずお二人は糖度高いですねぇ……。聞きましたよ、二人でベッドの上で一緒に寝たんですって?』


『何それ僕知らない?! ちょっと、詳しく聞かせてくれないかな?』


 僕は今、久しぶりに一人でバロンさん、ピーチさんと話をしている。ピーチさんはどうやら先日の話を知っているようで、ちょっとだけ照れくさい。


「いやぁ、なんか眠くなっちゃって二人で寝たんですよ。変なことはしてないですよ」


『キャニオン君、高校生だよね? 添い寝だけで済むってどういう精神力? 僕が君の年なら妻に対して我慢なんてできないんだけど……』


『私もそんな状況になったらたぶん襲い掛かっちゃいますよ。シチミちゃんよく我慢できましたねぇ』


『ピーチちゃん?! そっち側?!』


 ピーチさんがとんでもないことを言い出したので、僕もバロンさんも驚く。ピーチさん、けっこう肉食系? 大人しい系だと思ってたんだけど。


 しかし、七海はピーチさんに僕と一緒に寝たことを言っていたのか。女同士の秘密の会話ってことかな?


 なんだかんだ、この二人が仲良くなってくれて嬉しいや。


「えっと、まぁそれは置いといて……」


『いや、詳しく聞きたいんだけど』


『まぁいいじゃないですかバロンさん。これからキャニオンさんはシチミちゃんの家に行くんですから、それも含めて後日に報告会で』


「え……ピーチさん……もしかして何があるか知ってる?」


『えっと……何も知らないですよ? でもほら、お二人が一緒にいて……何もないはず無いじゃないですか』


 ちょっと言葉に詰まりながらも、ピーチさんは笑いながら楽しそうな声を上げる。


 うーん……なんか知ってそうな態度に違和感があるけど、きっと教えてくれないだろうな。まぁ、たぶん何か特別なもてなしをしてくれるんだと思っておこう。


 それから僕等は久しぶりに雑談をしながらゲームを進めるのだけど、ほとんどが雑談メインだった。雑談と言うか……三人で恋バナと言うか。


 バロンさんは最近、奥さんとの仲がとても良好であり、そろそろ単身赴任も終わるから一緒に暮らせるのがとても楽しみらしい。


 ピーチさんは最近とても仲の良い女の子の友達ができたそうだ。それは友達の話なんだけど……。なんだろうか、惚気を聞かされてる気分になってしまった。


「友達の話だよね?」


『友達ですよ? とっても大好きなお友達です! 今日はうちでお泊り会するんですよ!!』


 楽しそうにそういうので、それ以上はつっこまなかった。まぁ、この年頃は友情を疑似恋愛にする子もいるというし、逆に女性同士でも恋愛は成立するのだから余計なことは言わない。鉄則である。


 そんな話をしているうちに……七海との約束の時間が近づいてきていた。そろそろ出かけたらちょうどいいかな?


「二人ともありがとうございました。僕はそろそろ出かけますね」


『行ってらっしゃい。戦果報告を楽しみにしているよ』


『行ってらっしゃい。楽しんできてくださいねぇー。私もお泊りの準備しようかなぁ』


 会話をそこで終了し、僕は七海の家に買ってきたロールケーキを手にして向かう。一人で七海の家に向かうというのはとても久しぶりな気がする。


 今から向かうよとメッセージを送ると、すぐに既読が付いて『待ってる。ちゃんとただいまって言ってね?』との念押しまで来たほどだ。


 だからこそ、色々と考える。


 今日は何をしてくれるのだろうかとか、七海は手土産を喜んでくれるだろかとか、緊張とワクワクした気持ちが僕の中で同居していた。


 そして、あっという間に七海の家の前に到着する。考え事をしているとあっという間だ。それが楽しいことならなおさら……。


 さて、鍵は開いててただいまって言わなきゃいけないんだっけか。念を押されてたし、それは忘れないようにしないと。


 何度もお邪魔した場所なのに、妙に緊張して僕は玄関の扉を開ける。そして……。


「ただいま、七海」


 緊張からか少しだけ声が大きくなってしまった。聞こえたとは思うけど……変に思われてないかな?


 そんなことを考えていると、奥からパタパタと小走りで僕に近づいてくる七海の姿が見えた。


 髪をシュシュで一つに縛り、薄い若草色のワンピースに少しフリルの付いた真っ白い可愛らしいエプロンを身に着けていた。まるで……若奥さんのような装いだ。


 僕がその姿に見惚れていると、七海から衝撃的な一言が飛び出した。


「お……おかえりなさい、


 ……へ?


 僕はその言葉に一瞬で呆けてしまう。


 七海さん、今何て言ったの? 聞き間違えた? それとも時空が歪んで僕等はもう結婚してた?


 だけど、僕への衝撃はそれだけでは終わらなかった。


「えっと……お風呂にする? 食事にする? それとも……わ……私にする?」


 いったい何が起きているんだ?!


 え、この三択って……七海を選んだらどうなるの? どうなっちゃうの?! 僕はどれを選ぶべきなの?!


 僕が二の句が継げずに黙ったままでいる間にも、七海は顔は徐々に赤くなっていっている。


 変な沈黙が場を支配してしまったけど、ここは僕が何か言わねばなるまい。


「じゃ……じゃあ……えっと……。七海を選んだらどうなるの……かな?」


 ……言えたのはこんなものである。我ながら情けない言い方だ。


 いや、この状況で七海を選択しないという方がよっぽど情けないだろう。僕は精一杯言ったのだ。後悔はない。


 そしたら七海は目を見開いて驚いた後に、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべて……僕に近づいてその唇を僕の唇に重ねてきた。


「こ……これで精一杯だけど……許してくれるかな? おかりなさい、


「た……ただいま、七海」


 改めてそれだけを言うのが精いっぱいだった。


 顔が離れて七海の真っ赤になった顔が僕の鼻先にある。


 僕の両頬もとんでもなく熱くなっているのだから、七海からも真っ赤な顔の僕が見えていることだろう。


「えっと……七海、説明してくれるかな?」


 再び絞り出すような僕の言葉に、七海は顔を真っ赤にしたまま笑顔を浮かべた。とろける様なその笑顔に、僕はもう一度唇を重ねたくなってしまうが、グッと我慢する。 


「えっと……良い夫婦の予行練習? 新婚さんごっこ的な?」


「……えぇー……なにそれ……?」


「もう、陽信。そんなに引かなくてもいいじゃない。ほら、この間ちょっと嫌なこと思い出させちゃったでしょ? それのお詫びに今日は陽信を旦那様としてもてなそうかなと。……私がちょっとやってみたかったのもあるし……」


「いや、引いてない引いてない。嬉しいよ。ありがとう七海」


 どうやら、僕が思っていた以上に七海は先日の事を気にしていたようだ。だからこういうことをしてくれたのだろう。


 ……ほんとに、僕にはもったいないくらい良い彼女だなぁ。


「でもまさか、私を選ぶとは思ってなかったなぁ……陽信のえっち……。ほら、上がって……あなた」


「心外な。あの三択なら七海を選ぶのは当然でしょ。はいこれ、お土産ね」


「わ、フルーツロールケーキだ。嬉しい! お夕飯の後に食べようね、あなた」


「……なんか今のやり取り、ほんとの新婚さんっぽかったね」


 僕の言葉に七海は顔を赤くしながらも、ホントだねと同意してくれた。


 それから僕等は玄関先から移動する。どうやら七海は今日は僕への呼び方をなるべく「あなた」で通すつもりのようだ。


 じゃあ僕は何て言えばいいんだろうか? おまえってのもなんか違う気がするけど……。まぁいいか。


「そう言えば、随分静かだけど今日は厳一郎さんと睦子さんは? 沙八ちゃんもいないみたいだけど……」


「今日はみんな居ないよ。今は私達、二人っきりだねぇ……」


 これまた予想外の回答に僕は一瞬だけ足を止めてしまう。そこから、七海の追撃は止まらない。


「みんな今日は外泊するらしいから今夜は私一人なんだぁ……。物騒だよねぇ……。頼りになる旦那様がいるから平気かなぁ?」


 僕は黙ってその言葉をかみしめるように天を仰いだ。


 二人っきり……二人っきりか。いや、これってとんでもないことだよね。また僕は精神力を試されるのか。


 でも七海を一人残して帰るわけにもいかないし……。大丈夫、前向きに考えれば今日は思う存分七海とイチャイチャできるという事だ!


「それじゃあ……今夜はずっと一緒だね。また一緒に寝るかい?」


 少しだけ意趣返しのつもりで言った言葉だったんだけど、七海には思いのほか効果的だったようで彼女は再度顔を真っ赤にした。


「……変なことはしないんじゃなかったの?」


「一緒に寝るだけだよ。何を想像したのさ?」


 少しだけ七海はむくれるけど、その顔もどこか楽しそうだ。そのまま僕は七海の部屋ではなく居間に案内される。


 料理はもうほとんど出来上がっていて、テーブルの上にセッティングされていた。唐揚げに卵焼き、肉じゃがにきんぴらごぼう、ポテトサラダとバラエティ豊かな料理が並んでいた。


「今日はね、ぜーんぶ私が一人で作ってみたの。いつもはお母さんに手伝ってもらうけど、完全に私が陽信の為に作った料理だよ」


 だから今日は昼間には会わないってことにしたのか。これだけの準備、大変だったろうな。


「ありがとう七海。どれも美味しそうだよ。だったら僕も何か作ってくれば良かったかな……?」


「気にしないで。ほら座って。ご飯とお味噌汁よそってくるからね」


 それから僕等は七海の作ってくれた夕食を取る。どれもこれも美味しくてついつい食べ過ぎてしまったくらいだ。


 食後は二人でソファに座りながらお茶を飲んでいたんだけど……せめて洗い物は僕がしようと提案すると、七海にそれを拒否されてしまう。


 それどころか、タオルとパジャマを渡されて先にお風呂に入ってと言われてしまったのだ。


 ……お言葉に甘えてお風呂に入っている最中に、七海が背中を流しに来ようとして、その姿が水色のビキニ姿でお風呂にのぼせそうになったけどね……。


 いや、ビックリしたよ。油断してたよ。お風呂に入ってたらいきなり「背中流してあげる」って入ってきて……。


 水着姿とはいえ、こっちは全裸だからもう大慌て。何とか説得して一緒のお風呂は思いとどまってもらったけど……。七海の水着姿……正直、凄かったよ……。


 そんな感じで一日が終わり、そして今……僕等はあの日と同じように一緒のベッドに寝っ転がっていた。


 あの日と違うのはお風呂上りという事と、お揃いのパジャマを着ているという点だ。


「……七海さん、ちょっとだけお聞かせくださいな」


「え? 陽信どうしたの……そんなちょっと真面目な感じで?」


「一緒にお風呂って……誰に入れ知恵されたの?」


 ビクリと七海の身体が小さく跳ねる。うん、そのリアクションだけで誰が入れ知恵したかだいたいわかった。きっとあの二人だ。


「またあの二人……? あの二人は僕と七海をどうしたいのさ……。と言うか、僕の理性を崩壊させたいんだろうか?」


「あー……今回はあの二人に加えて……ピーチちゃんもなんだよね」


 これまた意外な名前が出てきて、今度は僕がビックリした。


「ちなみに、水着でお風呂乱入はピーチちゃんアイディアで……。絶対に男の人は喜ぶからって」


 確かに喜ぶけど耳年増すぎませんかねピーチさん? 確か中学生だよねあの子? 色々と心配なんだけど……。


 僕が遠い目をしていると、七海は僕の方を向いてちょっとだけ不安げに、上目使いでおずおずと口を開く。


「えっと……今日楽しくなかった? 私は陽信とずっと一緒にいられて楽しかったけど……。もしも……」


 ……あー、ダメだな僕は。お風呂で水着のインパクトが強すぎて七海を不安にさせてしまったようだ。


 僕は七海を、前回してくれた様にギュッと胸に抱き寄せる。少し驚いたように身体を強張らせる七海だったけど、ゆっくりと僕の背中に腕を回してきた。


「すっごい楽しかったよ。本当に……夫婦生活みたいでさ。でも水着でお風呂はやり過ぎかなー? 何なの? 女性陣で僕の理性の砦を崩そうとしているの?」


 だったら四対一で非常に分が悪い。悪すぎる。


 僕は標津先輩にでも相談しようか? ……ダメだな、あの人なら「素直に抱きたまえ!!」とか言ってきそうだ。


「陽信の理性を崩すつもりは無いんだけどねぇ。でも……私は崩れた陽信も見てみたいってのは本音かな?」


 胸に頬を擦り寄せてそんなことを言ってくる。もしかして我慢をさせちゃってるかなと思って口を開こうとした瞬間、七海は言葉を続けた。


「でも、陽信には陽信の考えがあるからさ、私はそれを尊重するよ。どーせ、ずっと一緒だもんね。待つのも楽しいよ」


 そう言って、ニカッと歯を見せて笑う七海を、僕は愛おしく感じて少し強く抱きしめた。


「ありがとう七海。ずっと一緒にいようね……大好きだよ」


「うん! やっぱり陽信に好きって言ってもらえると安心するね……私も大好き」


 そのまま僕等は、この前と逆の体勢……僕が七海を抱きしめる形で一緒に眠る。目を閉じたまどろみの中で、七海が僕に問いかけてきた。


「ねぇ、寝る前に陽信に聞きたいんだけどさ」


「何? 改まって……」


「……子供は何人欲しい?」


「やっぱり七海……僕の理性を崩しにきてるでしょ?」


 寝る前にそんなことを言われてしまい、ジト目で七海を見る僕を見て……彼女は楽しそうに笑うのだった。

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