第84話「標津先輩の答え」

 僕と七海が標津しべつ先輩と一緒に入ったバスケ部の部室は、思いのほか綺麗だった。


 もちろん、所々に脱いだシャツが無造作に置かれていたり、バスケ関連の本が置かれていたりとはしたものの、何と言うか「男子運動部」にありがちな汚さとは無縁なように見える。


 それも偏見というか、イメージの問題なのかもしれないけど。


 あのマネージャーさんが日頃から綺麗にしているのか、それとも部員達が綺麗好きなのか……。


 なんか室内から、フローラルな香りもしているし。


「思いのほか綺麗だろう? 部室の乱れは心の乱れだからね、常日頃から綺麗にするように努めているんだよ。ぶっちゃけると、汚部屋にしたらマネージャーにこってり怒られるからね、僕が」


 どうやら僕らの考えは顔に出ていたようで、先輩は僕らにそんな説明をしてくれた。


 しっかりと話にオチもついてしまっているが……。と言うか、標津先輩が怒られるんだ。


「まぁ、僕は仮にも部長だからね。言ってしまえば部の全権限を持っていると同時にその全責任は僕にある……。叱られるのは当然というものだ」


 僕の心を読んだかのように標津先輩は言葉を続ける。


 僕も七海もその言葉に驚いていると、標津先輩は部室の鍵をかけてから僕等に笑顔を向けてくる。


「おいおい陽信君、随分と驚いた顔をしているね。僕の今の言葉が意外だったかい?」


「えぇと……そうですね。僕にこう……七海を賭けて勝負だ! って言ってきた人とは思えない言葉と言いますか……」


「ハッハッハ、それは忘れてくれたまえ。まぁ、それには事情と言うか、僕なりの考えがあったんだがね。まぁ、僕の話は良いじゃないか。君の……君達の話を聞かせてくれたまえ」


 そう言うと標津先輩は僕等に対してパイプ椅子を用意してくれた。体育館ではよく見る椅子だけど、運動部の部室にもあるのか。


 僕等はその椅子に隣り合って座り……その向かいに標津先輩が座る。


 標津先輩との間に、あえてテーブルを挟むような真似はしなかった。


 すぐ手の届く位置に標津先輩は居る。


 これは万が一……の事を考えて、あえてそうしている。


 もしも……本当にもしもの話だけど、僕の話を聞いて先輩が怒った場合……僕は一発……いや、数発程度なら殴られる覚悟を決めていた。


 標津先輩はそういうことをする人じゃないというのは重々承知しているし、信頼しているのだけど……。万が一と言うこともある。


 僕がこれから言う事が、先輩の心にどういう衝撃を与えるかはは未知数なのだ。


 七海は……それなら原因である自分がと申し出てくれたけど、それはやっぱり僕の出番だと思うんだ。


 彼氏としての僕の出番……。


 それにほら……男ってのは単純でさ、一発殴って和解すればもう友達ってのもあるんだよ。漫画の話だけど。


 一番ダメなのは……七海を矢面に立たせて、標津先輩が怒った時の怒りの矛先が無いことだ。


 きっと先輩は……七海に怒りの矛先は向けられない気がする。


 そして僕は……ゆっくりと口を開く。先輩へと僕と七海の関係を正直に伝えようとする。


 伝えようとするのだけど……。


 口が上手く動いてくれなかった。


 出るのは呼吸音ばかりで、音が一切出てこないのだ。


 何度か深呼吸をしてみるが、それでも結果は同じで……それどころか身体が少しだけ震えているのが分かる。


 ……明らかに僕は……恐れているな。


 自分で決意したことだというのに、標津先輩に話すことを、この土壇場でビビってしまったのだ。


 もともと一人でも平気だった……いや、学校内に男友達と呼べる人間が皆無と言うわけじゃなかったけど、そこまで繋がりは強くない。


 学外で遊ぶなんて全くない、自分から連絡しないと話をしない。その程度の繋がりだ。


 七海と付き合うようになってからはその付き合いは更に希薄になり……そんな中で仲良くなったのが標津先輩だ。


 きっかけはどうあれ……僕の事を友人と……親友とまで呼んでくれた先輩。


 その人が……僕が発する一言で僕の前からいなくなる可能性を……きっと恐れているのだろう……。


 全部話すと決めたくせに、我ながら情けないと自己嫌悪にすら陥ってしまう。


 そう考えていたら……不意に僕の手が柔らかく暖かいものに包まれる。 


 視線を向けると……七海が僕の手を優しく握ってくれていた。


 そして何も言わずに……ただ隣で微笑んでくれている。大丈夫だよと言わんばかりに……微笑んでいる。


 目の前の標津先輩も微笑んでいた。僕が話し始めるのを黙って待っていてくれている。


 七海の温かさに触れて、標津先輩のその姿を見て……僕の中に勇気が湧いてくる。


 そうだよね……まずは話をしないと始まらないんだ。


 そう考えたとたんに、僕の口からはやっと言葉が出てくれた。


「標津先輩……先輩は……僕と七海の関係をどう思ってました?」


「そうだね……正直に言うと最初は……なんで僕じゃなくて君なんだろうって思ったよ。バスケ部主将で、割と女子人気も高いと自負していた僕じゃなくて、君が彼女に告白されたと聞いて……。正直に言おう。嫉妬した」


 先輩は表情をあまり変えずに、静かに……そして正直に僕に気持ちを伝えてくれた。


「まぁ、ご存じの通りその嫉妬にかられて馬鹿な行動を起こして……君たちの絆の強さを見せつけられたんだから、何と言うか……諦めもついたよ。そして、嫉妬した自分を恥じたんだ」


「……その絆が……実は偽りの……とても歪な物だったとしたら……先輩はどう思います?」


 僕のその言葉に、先輩はちょっとだけ考え込んで……そして、困ったような笑顔を浮かべた。


「すまないね、陽信君……。実は正直な話、僕は頭があまりよくない方なんだ。直接的な表現で言ってくれないかな?」


 ……確かに、抽象的でちょっとズルい聞き方だったかもしれない。


 これで察しろと言う方が無理だろう。


 僕は深呼吸を一回して……七海の手をほんの少しだけ強く握ると……僕等の関係の真実を標津先輩へと告げる。


「七海が僕に告白したのは罰ゲームの一環で……。僕はその告白が罰ゲームだと知りながら……七海を自分の本当の彼女にする為に、自分のために彼女に好かれようと動いていたんです」


 その言葉に……標津先輩は驚きの表情を浮かべた。


 そうだろう、自分が好きだった女性と僕の関係が嘘の上に成り立っていたのだから……それは怒ってしかるべきだと思う。


 何よりも僕は、七海の気持ちと状況を利用したのだから……。


 先輩がそれに対して怒るのであれば甘んじて受け入れると覚悟を決めたのだけど……。


 先輩は驚きの表情を浮かべた後に、どこか考え込むような表情を浮かべていた。


 それから、少し納得したかのように自身の顎を触りながら目を閉じる……。


「なるほど……そういう事だったのか……罰ゲームだから……茨戸ばらと君から君に告白したという図式が出来上がったわけだね」


「そうです……。そして繰り返しますけど……僕は罰ゲームであることを知っていながら……彼女の気持ちを僕に向けるように動いていたんです」


「陽信……。先輩、違うんです。もとはと言えば私が罰ゲームの告白をしたのが悪くて……。それに陽信が知っていたのも偶然で……」


 七海が先輩へと説明をするのだが、先輩はその話を聞いておらず、ぶつぶつと独り言を言いながら考え込んでいる。


「なるほど……僕の取り越し苦労……いや、余計なお節介だったわけだ……早合点が過ぎたか……」


「先輩……?」


 それからしばらく考え込んでいた先輩は、やがて真剣な表情を浮かべて顔を上げる。


「ふむ、でも今は……僕にこうして話しているという事は……お互い全部知っているという事でいいのかな? そして……お付き合いは継続してると?」


「えぇ……まぁ……そうですけど」


 僕と七海は先輩の言葉を黙って肯定する。


 それから、先輩はまた少しだけ考え込むのだけど……。


 その考えこむのを止めた先輩が発した一言は……僕等には予想外のものだった。


「なるほど……。素晴らしいじゃないか!」


 手をパァンと叩きながら、先輩は僕等に対して輝くような笑みを浮かべる。


 それは憂いも暗い気持ちも一遍も感じられない、とても明るい表情だ。


 ……え? いや、素晴らしいって……?


 僕も七海も標津先輩のその一言にあっけに取られて、ポカンとしてしまう。二人とも口も情けなく半開きである。


「先輩、怒らないんですか……? その……僕は先輩に勝負を挑まれた時、僕等は……罰ゲームで付き合ってたんですよ?」


「んん? 僕が怒る理由はどこにもないと思うのだが? だって……察するに、二人は今お互いを大切に思っているのだろう?」


「それはまぁ……そうですが……」


「だったらなんの問題もない……終わり良ければ全て良しだ! 勝負の結果、君達は勝利を手中に収めたんだ」


 そのなんともシンプルな答えに、僕等はさらに呆気にとられてしまった。


 いや勝負って、なんの勝負ですか先輩。


「それに、罰ゲームはあくまで二人の間での問題……いや、この場合は駆け引きというのが正確なのかな? むしろ割り込んだ僕が野暮と言うものだ。知らなかったとは言え、本当に申し訳ないことをした」


 そして、逆に謝罪されてしまった。


 いまいち標津先輩の考えが良く分からずに、僕は首を傾げてしまう。


 七海もそれは同様のようで、不思議そうに小首を傾げていた。


 そんな僕等の似たようなリアクションに、先輩は微笑ましいものを見た様な笑みを浮かべる。


「陽信君。そもそも男女が交際をするためのきっかけなんて……なんでも良いと僕は思うんだ」


「なんでも良い……ですか?」


「まぁ、罰ゲームの告白を肯定するわけじゃ無いのだけどね。それでも、それがきっかけで君達は始まった……」


 先輩は優しく微笑んでいる。


「でもね……罰ゲームじゃない告白をして別れる男女は沢山いるんだよ。価値観の相違や、愛情が冷めたりとか、理由は様々にな」


 それは……考えたこともない話だった。


 確かに、先輩から言われて僕等はそのことに初めて気づいた。僕等にもそもそも、そういう可能性があった事を。


「それを考えたら、君達の関係は奇跡的とすら言える」


 先輩は僕と七海を交互に指差した。


「ある意味で互いが無関心の状態から、罰ゲームだと知った後も交際を続けるくらいラブラブな状態を維持してる。これを素晴らしいと言わずなんというのかな?」


「じゃあ、先輩は僕を……許してくれるんですか?」


「許す許さないの話でもないかな? まぁ、ここはあえて言うよ。君達は間違ってない関係で……僕は君達を許す。友の誤ちを許すのも、友の務めだ」


 ちょっと……いや、だいぶ僕は泣きそうになってしまう。


 両親達に認めてもらったのとまた違う感激がそこにはあった。


 僕の手を握る七海の手も強くなり、気づけば僕等は無言で先輩に頭を下げていた。


「それにまぁ、これで僕の肩の荷も下りたというか……。茨戸君が男子への苦手意識を克服できた様で何よりだよ」


 その一言に、下げていた頭が二人同時に勢いよく上がる。


「へ?」


「先輩、私が男子苦手って知っていたんですか?!」


 七海の一言に、先輩はバツが悪そうに頬をかきながら苦笑を浮かべている。


「僕が茨戸君に告白したのはね、僕が……恥ずかしい話だけど……女性に人気ある僕が男子への苦手を克服してあげようとか、そんな傲慢な事を考えてたんだよ」


 いや、それよりも……七海が男性が苦手って知ってたことに驚きだ。


 七海もそうなのだろう、目を点にして驚いている。僕等のリアクションが少し面白いのか、先輩は苦笑を浮かべながら話を続けた。


「これでも、バスケ部主将として人を見る目はあるつもりなんだよ。茨戸君の立ち振る舞いから、なんとなくわかったんだ」


「それなのに、告白の時は……私の胸ばっかり見てたんですか?」


「僕は自身の欲望に素直だからね! おっぱいは大好きだ! それにほら、告白が断られるなんて微塵も考えなかったしね」


 そっか……先輩も、先輩なりに七海の事を考えていたのか……。


「あの出来事は……陽信君との出会いも含めて……傲慢だった僕への良い薬になったよ。ちょっと苦かったけどね。まぁ、良薬口に苦しだ」


 そして先輩は、僕にゆっくりと手を差し出してきた……。


「陽信君、改めて僕と友達に……親友になってくれるかな? ほら、その辺……曖昧だったからね」


 許してくれたばかりか、先輩は僕にそんな……嬉しい事を言ってくれている。


 そして僕は、滲む視界を無視しながらその手を取って声を絞り出した。


「こちらこそ……よろしく……お願います。翔一しょういち先輩……」


 僕のその言葉に、先輩はとても嬉しそうに……微笑んでいたと思う。


 この日……友達を失うと思っていた僕は、失うどころか……人生で初めての親友と呼べる人ができたのだった。

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