第70話「面前での唐突な抱擁」

 ホッキョクグマのトンネルは予想していたよりも非常に長いもので、僕等がトンネルを歩いている間にホッキョクグマが泳ぐ姿を目撃できたのは二度や三度ではなかった。


 それは、まるでクマが歩いている人間にパフォーマンスをしているようにも見え、トンネルを歩いている人達は喜びの声をあげる。


 特に、二匹のホッキョクグマが同時に泳いでいる姿なんて、圧巻の一言だ。


「凄いねぇ……ホッキョクグマが泳いでいる姿って迫力もあるけど、肉球とかが可愛いよね。わざわざこっちに見せてくれてるみたい。サービス精神旺盛だなぁ」


「でも爪とかはよく見ると怖いね。まさに熊って感じだよ。本来だったらあれでアザラシをって思うと……ちょっと怖いし、考えさせられるね」


「ふーん、私と陽信で見ている所って違うんだねぇ。私は肉球で、陽信は爪……男の子ってそういう……なんていうのかな? 格好いい方に目が行くよね?」


「あー……確かにそうかもしれないなぁ。肉球……ホッキョクグマの肉球もぷにぷにしてるのかな? 猫のイメージでしかないけど……熊って猫科だっけ?」


「可愛ければ私は何でもいーかなー。でも、猫だったとしても流石にホッキョクグマの肉球は触れないよねぇ……できるとしたらこれくらいかな?」


 七海はトテトテとトンネルへと近づくと、ちょうどよくガラスの向こうから掌を押し付けていたホッキョクグマの肉球部分に指を当てる。ガラス越しだから感触は分からないが、遠目には肉球に触れているようにも見えた。


 ほんの一瞬の出来事だったけど、ちょうど僕は七海の行動を動画に撮っていたのでその部分もバッチリと記録に残すことができた。


「そろそろ出口かな? 結構長いトンネルだったねぇ」


「何メートルあったんだろうねぇ……あー……白い光が見えるよぉ」


 周囲が青い光に照らされていると、出口の白い光はとても目立つものだった。そして、出口から出た僕等はまるで水中から地上に出るような錯覚を覚えた。


 トンネルから外に出ると、僕等はなんとなくゆっくりと深呼吸をしていた。どうやら七海も、水中から地上へと出た気分になっていたようで……僕等はお互いに微笑み合う。


 トンネル内は少し冷えていたこともあって、ポカポカと心地いい陽気が僕等の身体を温めてくれたのもそんな錯覚を覚えた原因の一つだろう。ゆっくりと身体が温まっていく感覚はとても心地いいものだった。


「あー……楽しかったねぇ。ホッキョクグマさんも可愛かったし」


「だね。それじゃあ……そろそろ次の場所へ行こうか。せっかくだし……別なルートで違う動物を見ながらにする?」


「そうだね、せっかくだし……もうちょっと動物を見ながら行こう」


 僕等はホッキョクグマの居た場所を一度だけ振り返ると、先ほどとは別ルートをパンフレットで確認する。さっきまではパンフレット上だと上の方を歩いていたので、今度は下の方をグルリと回る形で移動しようと、僕等は歩き出した。


 別のルートにも色々な動物がいるようだ。全部を見る時間は無いが、ペンギンや熱帯にいる鳥類……爬虫類なんかの居る館もあるようだ。 


「そういえば、七海は爬虫類系って平気?」


「ちょっと蛇とかは苦手かも……。可愛いのとか、モフモフした動物が好きかなー? 食わず嫌いみたいなものかもしれないけどね」


「爬虫類も慣れれば可愛いって聞くけどねぇ……その辺は今度にしようか」


「うん、また今度……来た時にしようよ」


 僕等の約束は、こうしてまた増える。


 どんどんと約束が積み重なっていっても、きっと身動きは取れなくはならないだろう。


 僕等は……いや、僕はその沢山の約束を果たすためにも、次の場所に今日はどうしても行きたいのだ。


 手を繋いだ僕等はそのまま、道なりに動物たちを見ていく。


 水辺の鳥たちが集められた場所では、優雅に水上を泳ぐカモや、木の上に止まっている真っ赤な鳥……。さらには身体を左右に揺らしながら歩くペンギンの姿が見られた。


「水族館とは種類が違うペンギンなのかな? なんか、ちょっとのんびりした感じだね」


「地上にいるからじゃない? あの時は泳ぐ速度とかすごかったよね」


 そういえば、水族館でもペンギンを見たっけ。思わぬところで、以前のデートの思い出話に花を咲かせる。ペンギンはペタペタと足音を響かせながらゆったりとした速度で歩いている。


 思い出に浸りながらも、僕等は歩みを止めずに動物園の中を突き進んでいく。


 マレーグマやトラなどのアジアの動物たちがいる場所、カバやライオンなんかのアフリカの動物たちがいる場所、キリンやダチョウの居る場所……。普段見慣れない動物達を僕等は楽しむ。


「……トラってアジアの動物だったんだ……。てっきりライオンと同じく、アフリカなのかなと思っていたよ」


「あ、それ私も思った! なんでそんなイメージ持ってたんだろうね……。テレビとかの影響かな? それともどっちも猫っぽいからかなぁ」


「あー……それはありそうだね。猫っぽいから同じ生息地って思ってたのかも」


「デートの思い出に直結したらもう忘れないねぇ♪」


 そんな風に僕等は自分達の知識を更新しながら、普段は見慣れない動物に目を向けていく。


 次の場所へと行こうと言って歩き出したのに、僕等は途中途中で興味を持った動物を見たくなって、色々なところに寄り道をしてしまう。


 神社は逃げない……と言っても参拝時間もあるので実はそう悠長にもしていられないのだが……色々と調べて万全だと思っていたのに、一カ所で長時間楽しめるのは予想外だった。


 これが理想と現実の差かと思いつつも、その差をどこか僕は楽しんでいた。


 ただ、参拝時間が終わっては元も子もないので僕はスマホで時計をチラリと確認する。うん、まだ一時間以上も時間があるから大丈夫だろうな……。


 それから、その道中で僕等はお土産屋を発見した。


「せっかくだし、何かお土産を買っていこうか……。水族館の時は、お揃いでイルカのストラップ買ったっよね?」


「そうだねー、あ、ホッキョクグマのストラップ売ってないかな?! お揃いで買おうよ!!」


「またストラップ買うの? ストラップだらけになっちゃわない?」


「いーじゃない、どんどんストラップが増えていくってのも面白いよ」


 僕等はお土産屋の中でホッキョクグマのストラップを探すのだが……残念ながらホッキョクグマのストラップは売っておらず、ちょっとだけ七海がしょんぼりしている。


 そんな風にしょんぼりする七海を見て周囲を見渡すと、僕はお土産屋の一角にTシャツを着たぬいぐるみ型のキーホルダーを見つけた。


 そこには、ホッキョクグマの顔のイラストが描かれたTシャツを着た動物のぬいぐるみをキーホルダーにしたもので、人間型にディフォルメされた可愛らしい動物たちがぶら下がっていた。


「七海、キーホルダーならあるよ。お揃いで買う?」


 ホッキョクグマ以外にもゴリラやライオン、象にワニなんかもTシャツを着た状態で売られていた。うん、どれもこれも可愛らしいな。


 僕はホッキョクグマを一つ手に取る。意外と作りはしっかりしているキーホルダーで、これならカバンに付けたとしても邪魔にはならないかな? 作りもしっかりしているし、簡単にちぎれるとかそう言うこともなさそうだ。


 そんな風に僕がキーホルダーの作りを確かめていると、彼女も一つのキーホルダーを手に取った。


「陽信は、ホッキョクグマの買ってよ。私はさ……これを買うからさ……交換しよ?」


 そう言って彼女が手に取ったのは……Tシャツを着た羊のキーホルダーだった。僕がさっき執拗に好きだと言っていた動物のキーホルダーを手にした彼女は、はにかみながら僕に交換を提案してくる。


「七海は、ホッキョクグマで良いの? お揃いじゃなくなるけど」


「お揃いも良いけどさ、お互いに好きな動物のキーホルダーを交換するのも良いかなって」


 なるほどね、そういう考え方もありか。


「そう言うことなら、よろこんで」


「うん。それじゃあ、そうしよっか」


 僕等はそれぞれ会計を済ませて……それからお互いにキーホルダーを交換した。


 僕は羊。


 彼女はホッキョクグマ。


 それぞれがキーホルダーを指でつまんでお互いに見せ合い、笑顔を浮かべた。


「なーんか、動物のセレクトだけ見ると男女逆っぽい? 陽信の方がなんか可愛い感じだし」


「そうかな? 最近だとそう言うのはあんまり気にされないんじゃないかな。ほら、そっちのクマも十分可愛いしさ」


 僕等はそれぞれが買ったキーホルダーを大事にしまう。とりあえず、今ここで付けても良かったんだけど……それはお互い後の楽しみに取っておくことにした。


 あとまだ少し時間もあるし、他に何かお土産でも買おうかと見まわたしていたところで、ここに軽食が売っていることに気づく。なんでも、揚げパンが名物になっているようだ。


 ……お昼を食べたあとだけど……なんだろうか、トンネルをくぐったり動物園内を歩いたからかな、少し小腹もが空いた気がする。名物だって言うし……買ってみようかな?


「七海、揚げパンだってさ。買って食べてみようか?」


「揚げパンかー……食べるの小学校の給食以来だよ。美味しそう……って……けっこう大きいよこれ。……30センチもある……これ……一人で食べるの?」


「あ、一人で食べるのは辛いから、……一緒に食べない?」


「もー……お夕飯食べられなくなっても知らないよ? じゃあ、一個買って二人で分けっこしようか」


 まるで母親のように苦笑を浮かべて、七海は僕の提案に同意してくれた。なんだろうか、言い方もかつて僕が母親から言われたセリフそのまんまな気がする……。まるで母さんから言われたみたいで、ちょっとだけ恥ずかしいな。


 僕等はそこで一つ揚げパンを買うと、店員さんから包みからはみ出す程の大きさの揚げパンを受け取る。30センチという大きさはかなりの迫力で、確かにこれは、一人だと夕飯が食べられなくなりそうだ。


 そして、お土産屋を出て二人で食べながら動物園の出口まで向かって歩き始める。


 そう言えば店員さんが気になることを言ってたな……。食べ歩くなら、気を付けてくださいねとか……。食べ歩きが禁止なのかと思ったらそうじゃないみたいだし何だろうか。


 揚げパンは熱々で、僕等はお互いに双方向からかぶりついたり、ちぎってお互いに食べさせ合ったりする。


 出口までの間に三分の一以上は消費できたので、これなら神社に付くまでには食べ終わるかなと思っていたのだが……。


 油断した僕は、そこで店員さんが言っていた『気を付けてください』の意味を知ることになった。


 僕等が揚げパンを食べていた最中に……七海の背後から何か黒い塊が七海めがけて飛んでくるのが僕の視界に入る。


 当然ながら、七海は背後からのその飛来物に気づいていない。


 かなりの速度で近づいているそれが何かも分からないが……このままいけばそれは七海に当たってしまう!


「七海、危ない!!」


 大慌てで僕は、叫びながら両手でとっさに七海を自分の方へと抱き寄せる。揚げパンは僕が持っていたのだが、両手で抱き寄せたことで、それは地面へとゆっくりと落ちていく。


「よ……陽信?!」


 状況が分からない七海は、叫びながらも僕になすがままで抱き寄せられる。


 そして、てっきり七海に向かって飛んできていると思っていた黒い塊は、速度を落とさずに急角度で曲がると、その手放した揚げパンへと向かっていった。


 その後も黒い塊は次々と空から飛んできて、僕が地面に落とした揚げパンへと群がる。黒い塊は……カラスの群れだった。


 その時に僕ははじめて、園内に『カラスに注意』のカンバンが出ていることに気が付いた。


 食べ歩きは禁止されていないようだけど、どうやら注意が必要だったようだ。これは見落としていたな……反省しなければならないね……。


 いや、店員さんもカラスに注意って言ってくれれば……違うな見落としてた僕が悪い。店員さんも知ってると思っていたんだろうな……。


 せっかく買った揚げパンもカラスの餌に……あれ、包み紙まで無くなってるけど……カラスって包み紙まで食べるの? 雑食にも程が無い?


 まぁここは、七海がカラスに突撃されなかったことを喜んでおこうか。


「あの……えっと……陽信……あのね……嬉しいんだけどその……ちょっと……恥ずかしいかな?」


 そこで僕は、両腕の中から聞こえてくる声に耳を傾ける。


 そうだ、僕は勢い余って彼女をギュッと抱きしめたままだった……。僕の身体に彼女の熱が伝わってきて、両腕と身体全体に暖かく柔らかい感触が触れていることをそこで自覚した。


 僕の腕の中の彼女は頬を真っ赤に染めて、目を丸くしている。


 突然の出来事に何が起こったのか理解が追いついておらず困惑しているようで、僕の錯覚かもしれないけれども、漫画みたいに瞳の中がグルグルとしているように見えた。


「あ、ご……ごめん……カラスが来てたからさ。危ないと思って。痛かった?」


「……ううん、ビックリはしたけど痛くはないよ……。いつもの優しくて安心する感じ……」


「カラスに揚げパン食べられちゃったねぇ。まさか襲い掛かってくるとは思わなかったよ」


「油断しちゃったね、残念ー。でも……私は陽信に庇って抱きしめられて……嬉しいかな?」


 公衆の面前で抱きしめてしまって、ちょっとだけ気まずい。周囲の人達は抱き合っている僕等を生暖かい目で見ているような気がするのだが……気のせいだと思っておこう。


 僕は彼女を傷つけないように、ゆっくりと彼女から離れる。それから、改めて彼女の手を取り握りしめた。


「さて……ちょっとしたハプニングはあったけど……神社に向かおうか」


 気を取り直した僕だったが、そんな僕に七海は歯をむき出しにした笑顔を僕に向けてきた。


「……顔が赤いよ?」


「七海こそ……」


「あんな風に強く優しく抱きしめられて、赤くならない方が無理だよぉ」


 強く優しくって、なんか表現が矛盾してない?


 彼女は頬の赤みを隠そうともせずに、僕に笑顔を向けて……そして、唐突に今度は僕に対してギュッと抱擁をしてきた。


 今度は僕が驚きで目を丸くする番になる。


「七海?!」


「おかえし! 守ってくれてありがとね、陽信!」


 ほんの一瞬だけ彼女は僕に抱き着いてくると、離れる瞬間に誰にもわからないように僕の頬に軽く口づけをしてきた。


 ほんの一瞬だけど、僕の頬はハッキリと彼女の唇の感触があったことを認識する。


 僕は思わず、その感触を逃すまいとしているかのように……無意識で自分の頬を掌で押さえる。


「それじゃあ陽信、次の場所に行こうか!」


 満面の笑顔を浮かべ僕に手を差し伸べる彼女に……僕は苦笑交じりの笑顔を返して、その差し伸べられた手を取るのだった。

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