第67話「大きくて優しい動物」

 ちょっとしたアクシデントは起きたが、僕らはこども動物園を後にする。


 まぁ、アクシデントと言っても、羊に突進されるというという非常に貴重な体験ができたのだ。これも良い思い出である。


 倒れてしまったのも、ぶつかってバランスを崩しただけなので大したことは無い。これで頭を打ったとか、かなりの衝撃で腹部に激痛が走っているなら話は別だけど、そういう痛みも一切ないわけで……。


 まぁ、走り始めたばかりで速度が乗ってなかったというのも幸いしたのだろう。むしろ僕にぶつかってきた羊の方がびっくりしていたように見えた。


 普段ならもらえないお土産までもらえたのだ。まさに、災い転じて福と為すというところだろうか。


「それにしても……この貰った毛はどうしようか?」


 僕等の手の中にはそれぞれ、二袋の羊の毛が入った透明な袋があった。


 昨年刈り取られ綺麗に漂白されたそれは、真っ白で綺麗な毛糸となっている。お詫びとしてもらったはいいけど、使い道はいまいち思いついていなかったりする。


「せっかく二袋貰ったんだし、片方は記念に取っておいて……もう一つは何かアクセサリーでも作る?」


 七海の口から出たアクセサリーと言う単語に、僕は少しだけドキリとした。


 それは今まさに、僕が日々コツコツと作っているものだからだ。誰にも話してないし、七海が家に来た時も隠していたのだからバレているわけではないだろうが、少しだけ動揺してしまう。


「毛糸でアクセサリー作るって、どう言うのがあるのかな?」


 僕はそれを表に出さずに、七海に対して疑問をぶつける。


「んー、この量なら丸っこくしてピアスとかかなぁ? 白くて可愛いのができると思う」


「へぇ? 作ったことあるの?」


「んーん、ないよー。見たことあるだけー」


 無いのかよ。フルフルと首を振る仕草は可愛らしいが、僕はその答えに少しだけずっこける。


 七海は僕の反応が面白かったのかカラカラと笑いながら、改めて僕と腕を組み身体をくっつけてきた。


「ほら、せっかくだし二人で作ってみても良くない? 今度さ、やってみようよ」


「ピアスかぁ……。僕、耳に穴開けてないしなぁ……」


「そういえばそうだよねぇ、陽信は耳にピアス穴無かったっけ」


 普通に考えてオシャレに興味のなかった僕がピアス穴を開けているわけはないのだが……彼女はそう言うや否や、僕の耳たぶをいきなりふんわりと摘んできた。


「実は髪切ったらピアス穴開いてる展開とか少女漫画とかではあったよねぇ。まぁ、開いてない方が陽信らしいけどさー」


 驚きに固まる僕には気づかず、……いや、気づいていたとしても構わずに、七海は摘んだ僕の耳たぶをフニフニと弄ぶ。


 軽くつねるように曲げて、それから指先でこねて……その度に僕の背中にはゾクゾクとした違和感のようなモノが走ってしまう。


「七海……その辺で勘弁してもらえない?」


「……陽信、耳たぶ弱いんだ?」


 楽しい玩具を見つけた子供のような笑みを浮かべた七海は、僕の耳たぶをさらに弄ぶ。僕は諦めたような苦笑を浮かべて、しばらく彼女のなすが儘になるのだが……唐突に僕の耳たぶから指が離れる。


「ピアス穴開けないのー? 私は……ほら?」


 七海はわざわざ耳に付けていたピアスを外して、僕に見せつける様にその耳たぶを差し出してくる。


「……そんなことされたら、触っちゃうよ?」


「私は耳たぶ弱くないから平気だよー? ほら、穴開いてても平気そうでしょ?」


 七海の耳たぶにはちっちゃな穴が、まるで昔からそこにあるかのように開いていた。


 僕が開けていなかった理由は単に見せる相手が居なかったのと、痛そうだからってだけなんだけど……きっと女子にはこれが普通なんだろうな。


 僕は宣言通り、ゆっくりと彼女の耳たぶに手を伸ばす。なんだか妙な緊張感が僕の身体に走っている……それは七海も同様なのか、彼女は笑顔を浮かべているのだが……その笑顔は少しだけ強張っていた。


 僕の指先が彼女の耳たぶに触れ、先ほどされた時のようにふんわりと摘まむ。良くパン生地は耳たぶの柔らかさくらいに……なんて話を聞くけど、パンを作ったことのない僕はこれがパン生地の柔らかさなのかな、なんてズレたことを考えていた。


「んっ……」


 僕が摘まむと同時に、七海はちょっとだけ声を上げる。自分の耳とは異なる柔らかい感触に、穴が空いた箇所が指先にほんの少しの引っ掛かりを覚えさせた。僕はそれから指先で彼女の耳たぶを弄ぶ。


 なるほど、これがピアス穴の開いた耳の感触なのか。痛そうかと思っていたけど、そうでもなさそうだ。穴もそこまで大きなものではなく、小さく可愛らしい……。いや、耳自体も小さいのかな?


「ちょっ……陽信……まっ……待って……」


 僕の胸のあたりに、少しだけ拒絶するような七海の腕が置かれた。僕はその感触で我に返り……七海の真っ赤になった顔をしげしげと眺めていた。


「いや……七海、耳……平気なんじゃなかったの?」


「そう思ってたんだけど……いや、初美とかに触られた時は全然平気だったんだけど……そうじゃなかったみたい……」


 平気だというから触ったのだが……そこまで照れられると、こっちまで照れてしまう。僕は彼女の耳から指を離して、気持ちを切り替える様に次に見る場所を提案する。


「よし、次は象を見ようか! 耳と言えば象だ!!」


「へ? 象は鼻なんじゃないの……?」


「いやいや、ほら……世界的に有名な象は耳で空を飛ぶんだから。耳と言えばきっと象だよ」


「あぁ、あれかー。陽信、よく覚えていたねその作品の事」


 赤みが落ち着いた笑顔を僕に向けた七海は、辿り着いたゾウの飼育場所に揃って入っていった。入口に象の模様が入っており、少し薄暗く長い廊下はほんの少しだけ上り坂になっているようだった。


「なんか……随分としゃれたデザインの建物だね?」


「そうだね、周囲が緑色だから森の中を歩いてるみたいだね。楽しみだなぁ、象さん」


 ウキウキと弾むように歩く七海は、僕と組んでいる腕を少し引っ張る様にして、ほんの少しだけ先を歩く。


 確かにこの廊下を歩くとなんだかテンションが徐々に上がってくるというか……今から本物の象を見るんだなって気分になってくるから不思議だ。


 そして、少し重い扉を開くと……まるで光が僕等を迎えてくれるように差し込んできた。


 辿り着いた場所は展示スペースのようで、壁にはこの動物園の歴代の象についての解説や、象の映像を流している場所のようだった。肝心の象は別のところから見るのかなと思っていると、七海が僕とは反対方向を向いてはしゃいだように声を上げる。


「あ、陽信! 象さんいるよ!! 二匹だー、可愛いなー。親子かな? なんかじゃれ合ってるよ!」


 僕が見ていた反対側はガラス張りになっていて、そこから階下にいる象を鑑賞できるようだった。今は広いスペースがあるというのにくっついたり、お互いの鼻を相手の首に乗っけたりと活発に動いている象の姿があった。


 少し小さい象と、お尻に星形の痣のようなものが浮いている象……その二匹が顔を寄せ合ってお互いにじゃれ合っている光景が見れた。


「思ったよりもでかいんだね、いやまぁ……象だから当たり前なのかな」


「可愛いねぇ……あんなに顔を近づけるんだぁ……」


 ガラス張りの向こうでじゃれている象たちを眺めているのだが……どうやら少し行った先に座って見られるスペースがあるらしく。親子連れはそこで象を眺めているようだった。


「七海、あっちに座って見られる場所あるみたいだよ、行ってみようか」


「ほんと? いいねぇ。陽信も疲れたから、座って見られた方が良いよね」


 僕のことを気遣ってくれた発言に嬉しくなるが、その場所に付くと座る気はあんまり起きなくなってしまった。そこはガラスが胸の高さくらいまでしかなく、象をほぼ生で見られる場所だった。


 うわ、すごいな。ガラス越しでも凄いと思ったのに完全に生で見ると迫力が違うし……象がじゃれ合う音なんかが聞こえてくるから臨場感が段違いだ。


 結局、僕等は椅子には座らないでできる限り近くから二匹の象を眺めていた。お互いに顔を寄せ合って押し合ったり、小さい象が逃げるように走り出すと後ろから大きな象が追いかけていったり……。


 家族連れも周囲から写真を撮ったり、はしゃぐ象を見て笑い合ったりしていた。そのはしゃぎっぷりは七海も例外ではなく……。


「陽信、陽信!! 写真撮ろう! 二人で自撮りすればたぶん入るよね!! ほら、もっとくっつこ!」


 これである。まぁ、僕も実はかなりはしゃいでいたりする。生で見る象の迫力とこの愛くるしさが同居した姿は筆舌しがたいものがある。そして……僕と七海が写真を撮ろうとした瞬間……。


『プアァァァァァァァァァァァァンッ!!』


 象が唐突に非常に大きな声で鳴き声を上げ……驚いた僕等はスマホを落としそうになってしまう。周囲の子供たちもビックリしたのか、象の鳴き声を真似するように大声を出していた。


「うわぁ……ビックリしたぁ……」


「うん……凄い鳴き声だったねぇ……」


 かろうじてスマホを落とすことは無かったけれども、僕等がびっくりしたことにも構わずに二匹の象は相変わらずにじゃれ合っている。一時的に興奮すると鳴き声でも上げるのかな? それにしても……。


「象の鳴き声って……『パオーン』じゃないんだねぇ……」


「アハハ、確かに全然パオーンって感じじゃ無かったねぇ。ぱおーんの方が可愛い感じだけど、実際はなんかこう、強そうな感じだったねー」


 強そう……確かに強そうな鳴き声だったなぁ。空気が震えたし、なんだか凄かった。


 それから僕等は改めて写真を撮る。すっかりと自撮りにも慣れたもの……僕等はちょうどよく自分達と象二匹がフレーム内に収まった写真を撮ることができた。


 それからしばらく二匹の象を眺めていると……奥にもう一匹の象が居ることに気が付く。


 その象は二匹には近づかずに、天井から吊るされた干し草を食べているようだった。そろそろお昼の時間……かなぁ。ちょっとお腹が空いてきたかもしれない。


 そう考えていたら、先ほどまでじゃれ合っていた二匹の象がぴったりと身を寄せ合っている姿が目に入る。大き目の象のお腹の辺りに、小さな象が顔をくっつけている。何をしているんだろうか?


「あれ、親子なんだね。ほら、ちっちゃい象がお母さんのおっぱいを飲んでるんだよ」


 初めて見る象の授乳シーンを、七海は写真に収めているようだった。確かに滅多にみられるものじゃないな……珍しい光景だ。僕はそのシーンを取る……非常に慈愛に満ちた微笑みを浮かべる七海を写真に収めた。


「私も……いつかあんな風に……自分の赤ちゃんにおっぱいをあげる日が来るのかなぁ……」 


 写真を撮り終えた七海は、少しだけガラスから離れるとその場にゆっくりと座り込んだ。僕も黙って、彼女の隣に座って、食事中の象を揃って眺め続ける。


 そして、どちらからともなく僕等はお互いの手を重なり合わせる。僕は七海の問いかけにはあえて応えずに、七海もそれ以上は何も言わなかった。ただお互いの手を取って、先ほどとは違って静かに象を眺めている。


 周囲は象に夢中でザワザワと騒がしいが……僕等はまるで周囲の声など聞こえていないかのような気分になっていた。


「七海ならさ……」


「うん?」


「七海なら、絶対に良いお母さんになるよ」


「……ありがと」


 その時の横にいるのが僕なら最高だけど……今言えるのはここまでだ。


 実はこれは、前にも言ったことがあるセリフだけど……一ヶ月経過した今となっては、この言葉の意味も少し変わってきている気がしている。


 食事を終えた象たちは再びじゃれ合いだす。


 先ほどまでは砂場で遊んでいた二頭は、干し草を食べていたもう一頭を加えて水場の方へと移動していた。僕はそれに合わせるように、七海に先んじて立ち上がる。


「一階に行ってみようか。象達が水場に移動したし、運が良ければ水中にいる象が見られるみたいだよ」


「ほんとに? もしかして陽信、結構調べてきた?」


「まぁね。今日は面白いものを七海にいっぱい見せたいと思ってさ。全部見れるかわからないけど……できる限りは見てみようよ」


 差し出した僕の手を、七海は柔らかい微笑みを浮かべながら取り……ゆっくりと立ち上がった。それから、僕等は一階に移動すると……目の前には大きな象のオブジェが置かれていた。あまりに見事なそのオブジェに、僕等は本物が目の前に現れたのかと一瞬驚いてしまう。


 どうやらこのオブジェは触れて良いらしく、本物の象の感触にそっくりなのだとか。生で象を触ることはできないが、僕等はそのオブジェをせっかくなので触ってみる。なんだか少しだけしっとりしているのに、皺が刻まれているせいか少しだけざらついているような不思議な感触だった。


 それから、天井に埋まっている象や、タッチパネル式のシアターなどもあったがそれらについてはひとまず置いといて……僕等は本物の象が見られる場所まで急いで移動した。


 そこではちょうど……象が水中で気持ちよさそうに水浴びをしている最中だった。それも二頭同時に行われており、まるで二頭が風呂に入っているようにも見える。


 前に水族館に行った時のようだけど、水の中に象が居る光景って言うのは凄く不思議だな。鼻まで水中に入れて、まるで水生生物みたいにも見える。


「象ってこんな風に水に入るんだねぇ……親子でお風呂かぁ……良いねぇ……」


「気持ちよさそうだよねぇ。こういうの見ると、温泉とかも行って見たくなるよね」


「動物園に来て温泉の話って……。でも、陽信……それって私と混浴したいってことかなぁ?」


「……混浴してくれるの?」


「……うーん、水着なら……って、もー! 最近の陽信は慣れ過ぎててこういうのの反応が薄いよー。私ばっかり恥ずかしくてズルい!!」


 茶化す様にいう七海のセリフにも慣れたもので、彼女がそういうことを言うのはだいたい僕を揶揄う時だ。


 いい加減慣れた……いや、慣れたふりして応答するくらいは僕にもできるようになった。


 内心は心臓がバックバク言ってるけどね。混浴なんて考えただけでもうヤバイ。水着? 女の子とお風呂という事実からしたら水着だろうとドキドキするのは変わらない。


 そんな話をしている間に、水中から上がった象は今度は器用に鼻で体中に砂をかけている……せっかく洗ったのに……そういう習性なんだろうか? それから僕等はしばらく象を眺めていたのだが……。


 クゥゥゥゥ……と言う先ほどの象の鳴き声とは違う……可愛らしい音が僕の耳に届いた。


 七海のお腹の音である。


「……聞こえた?」


「……うん、バッチリと……聞こえちゃいましたね」


 象がご飯を食べていたように……流石にもう昼時だったのだから僕等がお腹を空かせるのも当然である。お腹を押さえた彼女を笑ってはいけないと思いつつも、僕は思わずちょっとだけ吹き出してしまった。


「それじゃあそろそろ、お昼にしようか。象も堪能できたしね」


「もー、笑わないでよー。そういう時は聞こえないフリするものでしょー!!」


 僕等はそれから出口に向かって移動する。その最後の出口に、象が足や耳を出して飼育員さんに洗ってもらっている光景を見る。どうやらそう言うトレーニングをするための場所らしいのだが。


「ねぇ、なんかさ……あの二頭が鼻を出して振ってるのって、バイバイってしているように見えないかな?」


 そう、先ほどまでの親子の象が二頭……檻の隙間から鼻を出してその鼻を左右に振っているのだ。出口にいる周囲の子供たちも、はしゃぎながらその象に対して手を振って、大きな声でバイバイと言っている。


 現実的なことを言うと、象達は隙間から足を出して飼育員さんに洗ってもらっている最中で、そのため鼻が左右に揺れているだけだと思うのだが……それをわざわざ口に出すのも野暮ってものだ。


 だからここは、僕もなるべくなら夢のある言葉を言うべきだろう。


「随分と、サービス精神の旺盛な象だねぇ」


「あはは、可愛いねー。それじゃあ私達も、手を振ってお別れしようか」


 七海のその一言で、僕も象に対して手を振って別れを告げ……バイバイと小さく呟いた。


 象は僕等が手を振り背を向けた瞬間、まるで別れを告げるようにまた大きな声で象は一鳴きする。


 それはきっと、足を洗ってもらって気持ちが良かったとか、飼育員さんの洗い方による偶然のたまものだったのだろうけど……。


 なんだか象が僕等にバイバイと言ってくれたようで、とても嬉しい気分で僕等はその場を後にすることができたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る