第65話「僕のはじめての準備」

 今日は……記念日前の最後のデート、その当日だ。


 待ちに待った日に、僕の心が自然と弾んでいることを自分でも理解する。浮足立っているとも言うが、あまりそう感じてばかりもいられない。


 早めに就寝した僕は昨日よりも少しだけ早く起きて、今日のデートの準備に取り掛かっている。これはワクワクして眠れなかったわけではなく、予定通りの行動だ。


 朝から料理をして、自分で作った朝食を取り、服を選び、準備したものを入れるための大き目の鞄を用意する。鞄は、父さんが昔使っていた革製の肩掛け鞄を借りた。


「うん……こんなもんかなー……?」


 僕はテーブルの上に広げた……粗熱を取っている最中のお弁当を眺めていた。


 そう。僕は今日……一人でお弁当を作ったのだ。


 テーブルの上に並んでいるものは全て、僕が一人で作ったお弁当だ。僕と七海の二人分ある。初めて、僕が一人で作ったお弁当……。その事実になんだか感動して身震いしてしまう。


 僕がここまでできるようになるとはなぁ……。


 七海には改めて感謝しかない。せっかくだし記念に写真を撮っておこうか。


 今日のデートで行く動物園は、お弁当の持ち込みが可能だった。調べた時に僕はこれを考え付いたのだ。最後の記念日に、僕が一人で作ったお弁当を七海に食べてもらいたいと。


 ちなみに……今日のお昼にお弁当を作っていくことは、あらかじめ七海に告げている。


 最初はサプライズイベント的に、昼食時にはじめて僕が作ったお弁当を見せて、驚かせようと思ったんだけど……。それは止めた。


 理由の一つとして、もしも僕がお弁当を作ることを黙っていて、七海が気を使ってお弁当を作ってきてくれた場合、ちょっと気まずい思いをしそうだったからだ。


 ただでさえ、僕は昨日のデート時に七海の手料理が食べられなかったことを嘆いていたんだ。きっと黙っていたら七海は作ってきてくれただろう。


 ……まぁ、もしも七海が作ってきてお弁当が二つになっても、僕は残さず全部食べるつもりだけど、その後お腹が苦しくて動けなくなっては台無しだ。


 そしてもう一つの理由は……今日のデートは僕がプランを考えたのに、七海に手をかけさせてしまうのは、なんだか嫌だったのだ。


 くだらない男の意地みたいなものだけど、僕は七海にそれを正直に伝えた。


 ただ、その事を伝えたからと言って、それでサプライズにならなかったかと言うとそんなことは無く、七海は十分に驚いてくれた。


『え?! 陽信が一人でお弁当作るの?! 凄い凄い! 私、楽しみにしてるね!!』


 そんな風に感激と共に喜んでくれたのだから、これはこれで充分にサプライズ成功だと言っていいだろう。


 当日まで黙っているのではなく、予め何をするか教えることでも十分に相手に嬉しい驚きを提供できるというのを知れたのは大きかった。


「……そうだな、二人分の量としては……十分だと思うぞ……」


 僕が考え事をしながらお弁当を眺めていると、苦しそうな声が横から聞こえてくる。そこには……頭を抱えた父さんがいた。


 昨晩の二人の帰りは相当に遅かったのだが……途中で起きた僕がチラッと見たのは、母さんに甘えまくる父さんの姿だ。母さんは普段のクールな表情からは想像もつかないほどに、ニコニコしてた。甘えられるのが相当に嬉しかったのだろう。お酒の力もあるのかもしれない。


 最近知ったのだが……父さんはいわゆる酔うと理性のタガが外れるタイプの人のようで……そして厄介な事に、酔ってる時の記憶は全部残っているらしい。


「もうちょっと寝てれば良いのに。無理して起きなくてもさ……」


「いやぁ……昨日は母さんが見送ったっていうから、今日は私が見送りたくてね……。朝食が既にできてたのは予想外だったけど……」


「味噌汁なら飲めそうかな? 適当に玉ねぎと卵で作ったやつだけど……」


「あぁ、そこまで気分が悪い訳じゃないから普通に朝食をもらえるかな? まさか、息子の手料理を朝から食べられるなんてね」


 気分が悪い訳じゃないなら、何で頭を抱えていたんだろうか? まぁいいか。


 僕はリクエスト通りに父さんの前に朝食を並べる。


 ご飯に味噌汁、それに卵焼きに鮭を焼いたもの、唐揚げ等……お弁当のおかずと同じもので、そこまで凝ったものはない、割とスタンダードなものばかりだ。


「まさか陽信がこんなに料理できるようになるなんてな……美味しいよ」


 僕の料理を一口食べた父さんは、感慨深げな感想を僕に告げると次々に箸を進めていく。本当に気分が悪い訳では無かったようで、無理して食べているようには見えなかった。


「特に二日酔いにはなってなかったみたいだけど……何であんなに頭を抱えてたの?」


「いやぁ……あれは昨晩を思い出してね……。陽信も見てただろう?」


 まぁ、騒がしくて起きてしまいちょっと覗いただけだけど……気づかれてたのか。ここで見てなかったと言うのも変なので、僕は正直に答える事にした。


「まぁ、良いじゃ無い。父さんと母さんが仲の良い証拠だよ……。お酒を飲んだら喧嘩するとかよりは、ずっと良いと思う」


 少しだけ意地の悪い笑みを浮かべながら僕は父さんをからかうのだが……。そんな僕の笑みを見た父さんは、苦笑していた。


「陽信……他人事みたいに言ってるけど、これはお前にも無関係な話じゃ無いぞ?」


 味噌汁のおかわりを所望しながら、父さんは昨晩のことが僕に関係してくると言う。その意味がよくわからす、僕は首を傾げた。


「まぁ、私と母さんのどっちに似るのかと言う話にもなってくるけど……もしもお前が父さんに似てお酒が弱かったら……どうなると思う?」


「父さんに似たらって……まさかッ……?!」


 僕はよそった味噌汁のおかわりを渡しながら、昨日の父さんの姿を思い返す。デレデレとした笑みを浮かべながら母さんに抱きついて、キスしたり頬擦りしたり、愛してるとか可愛いとか色んなことを母さんに告げたり……。


 アレが、僕の身にも将来起こることかもしれないと?


「まぁ、仲が悪いよりはずっと良いよな……この先が楽しみだよ」


 今度は僕が、意地の悪い笑みを返される番だ。父さんは、本当にこの先を楽しみにしてそうな笑顔を僕に向けている。


 その笑顔を見て、僕は昨日の父さんの姿に自分を重ねる。


 もしも、お酒を飲める年になった時……僕が父さんの方に似ていたとしたら……アレを僕は七海にするのかぁ……想像するだけで頬が熱くなる。……このことは七海には黙っておこう。


 それから僕と父さんはたわいのない雑談を続ける。そうしていると、ちょうど弁当の粗熱も取れたようなので蓋をして出かける準備を再開した。母さんはまだ寝ているようなので、今日は父さんだけに見送られることとなった。


「気を付けてな。七海さん達によろしく」


「うん。行ってくるよ。母さんが起きたら、またデートに行くの?」


「いや、今日は出張先に戻るから残念ながらデートは無しだな。あぁ、二人とも水曜日には出張が終わるから……久しぶりに三人で晩御飯を食べようじゃないか」


 そうか。父さん達もだいたい一月の出張だって言ってたっけ。その出張が終わる日が……記念日の翌日だというのは、なんとも都合が良いというか、運命めいた偶然だな。


 その日に、悪い報告ではなく良い報告ができればいいな。いや、いいなじゃなく……できるようにしなくちゃいけない。


「……三人も良いけどさ。七海も一緒に晩御飯が取れるように、夕飯は僕等で準備しておいていいかな。いろんな話が……あると思うんだ」


「それ、向こうのご家族にご迷惑じゃないか?」


「それも含めて聞いてから連絡するよ。じゃあ、行ってきます」


「そうか、行ってらっしゃい。楽しんでおいで」


 父さんは小さく笑って僕に手を振る。昨日は母さんに、今日は父さんに見送られ……僕は最後のデート……その二日目に向かう。


 今日は待ち合わせはせずに、僕が七海の家に迎えに行くことになっている。ナンパ対策もあるが、それ以外にもやることがあったのでそうなったのだ。僕は家を出たことを七海に告げると、即座にメッセージは既読になり、七海からは待っているとの連絡が来た。


 随分早いけど、七海も楽しみに待っていてくれたのかな?


 ほどなくして、僕は彼女の家まで辿り着く。移動中も彼女と連絡をまめに取り合っていたからか、時間の経過はあっという間だった。


 インターホンは押さずに、スマホから七海へと着いたよと連絡すると、バタバタという音と共に玄関が開かれる。僕を迎えてくれたのは七海と……睦子ともこさんだった。


「おはよう、陽信」


 玄関から彼女が僕に微笑みかける。今日は動物園に行くことからか、昨日よりも肌の露出が控えめのパンツルックだった。既に準備は終えているようで、今にも移動したくてウズウズしているように見える。


「おはよう、七海。それと、おはようございます睦子さん」


「おはよう、陽信くん。今日はお迎え来てくれたのねぇ。動物園だっけ? 良いわねぇ……楽しんできてね」


 僕の彼女に対する呼び捨ても慣れたようで、睦子さんは嬉しそうにニコニコとしている。はじめて僕が彼女を呼び捨てにした場面を見せた時の喜び方は凄かったからなぁ……。厳一郎さんも含めて、まさに狂喜乱舞と言った感じだった。


「あ、睦子さん……これ……約束していたものです。お口に合うかわかりませんけど、召し上がってください」


 僕は鞄の中から一つの少し大きめのタッパーを取り出して睦子さんに渡す。それは……僕が作ったお弁当のオカズ類が入ったタッパーだ。


 実はお弁当を僕が作ると言う話をした時に……七海から睦子さん達も食べてみたいから、余裕があったらで良いからと頼まれたのだ。僕はそれを二つ返事で了承した。


「あらあら、ありがとう。今日は皆家にいるから、お昼に食べさせてもらうわね」


「むー……ほんとは私のためのお弁当だったのに……。陽信ったら人が良いんだから……」


 七海がちょっとだけふくれっ面をしている。ちょっとだけその頬を指で突っつきたくなる。怒られるからやらないけど。


 確かに七海のためだけに作る……というのも考えたのだが、僕が睦子さん達に料理を振舞える機会は、今後もあるか不確定なのだ。だったら、できるときにお礼の気持ちは伝えておかないと思い……今回の決断に至った。


「お昼は僕と二人きりだから、それで良しとしてよ」


「……うん、分かった。それで納得する」


 僕が七海を宥めると、七海はそのふくれっ面を収めて笑顔を見せてくれた。ちょっとだけ拗ねた姿を見せたかったみたいで、睦子さんも苦笑していた。


 機嫌も直ったところで改めて出発を……と思ったタイミングで、七海は僕に少しだけ意地の悪い笑みを向けてきた。


「そういえばさ、昨日って志信さん達ってデートしてたんだよね? お酒飲んで……そのおかげで陽さんが凄く甘えてくれたって志信さん言ってたよ……」


「あぁ、うん。そうなんだよね……って……何で知ってるのさそれを……」


 七海は無言で僕にスマホの画面を見せてくる。そこには……母さんに甘える父さんの写真が映し出されていた……いや、母さんなんて写真を七海に送ってるのさ……。それに書いてる一文……『陽信が将来こうなったら、優しく受け止めてあげてね』って……。


 母さん……何をあなたは僕の彼女に言っているんですか……。


 せっかく黙っていようと思っていた僕の決意は、早々に水泡に帰していたようだった。


「楽しみだねー、将来お酒を飲むのが♪」


「……そうだね」


 僕はそう返すのが精いっぱいだったのだが……七海は僕にそれを言いたくて忘れているようだった。ここがまだ七海の家の前で、僕等のやり取りを睦子さんが見ているということを。


「あらあら、七海ったら……。陽信くんに甘えてもらえることを前提にしているみたいだけど……。あなた、自分がそうならないとでも思っているのかしら?」


「へ?」


 睦子さんの一言に、僕も七海も振り返る。


 睦子さんはタッパーを持ったままニコニコと笑みを浮かべていた。その笑顔に……七海はちょっとだけ顔を引きつらせていた。とても楽しそうだ。


「忘れたの? お父さんも……酔っぱらうと結構ねぇ、甘えたさんになってるじゃない? 普段の晩酌ではそこまで飲まないから頭に無かったのかもしれないけど……。もしも、七海がお父さんに似てたら……


 後半の言葉をことさらに強調した睦子さんを見た七海は、自身が甘える側となる可能性を考慮していなかったのか……僕の方に慌てて視線を向けてきた。


 その表情は……想像してしまったためか物凄い赤くなっている。


「……これはあれだねぇ……将来的にお酒を飲む楽しみが増えたって言うことで」


「そ……そうだね、どっちが甘えるのか……楽しみだね……私は負けない……!」


 なぜか七海が謎の対抗心のようなものを燃やしている。うん、その発言はフラグにしか聞こえないよ?


「私としては、二人ともお互いに甘えてイチャイチャするのが希望ねぇ。20歳になったら、両家族全員でお酒飲みましょうね!」


 かろうじてやりとりしていた僕等に、睦子さんが楽しそうに提案をしてくる。いや、それは……父さんと厳一郎さんが甘えて……僕等がお互いに甘えた場合……物凄い混沌とした飲み会になりそうだ。


 あと、その場合は沙八さやちゃんが不憫……いや、その頃には沙八ちゃんにも彼氏くらいはできているかな?


「まぁ、将来のことはともかく……。今日はデート楽しんできてね? 二人とも気を付けて、行ってらっしゃい」


 自分からとんでもない話題を振ってきた睦子さんは、切り替えるように僕等に手を振ってきた。僕も七海も、その切り替えの早さに苦笑するが……僕等は手を繋いて、改めて浮かべた笑顔を睦子さんに返した。


「じゃあ行ってきます、お母さん」


「行ってきます、睦子さん」


 記念日前の最後のデートは、こうして始まった。

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