第55話「背中を押されて」

 階段の踊り場へと向かう途中……三人は全くの無言だった。


 二人の予想に反して陽信が凹み過ぎてて二人からは全く話しかけられず……雰囲気も足取りも重くなっていた。そしてそれは、階段の踊り場へと到着してからも同様で……。


「……なぁ、簾舞みすまい。なんでみんなの前で七海を呼び捨てにしてやらないんだ? いつものお前だったらあっさりとやりそうだけど……なんかあんの?」


「そうだね~、なんか妙に頑なだよね~? 別に二人の時は呼んでるんでしょ? 簾舞なら割とあっさりやると思ってたのに~」


 その重苦しい雰囲気を飛ばすことはできないが……それでも二人は踊り場に付いてすぐに、陽信に対して核心を聞いてきた。なるべく暗くならないように、声を明るめにしている。


 陽信は呼び捨ての件が二人にも知られていることに若干たじろいでしまうが……この二人なら仕方ないかと諦める。そもそもこの二人が自分を呼び出す理由もそれしかないと、半ば納得もしていた。


「僕……そんなにあっさりとやりそうに見える?」


「うん。普段は『七海のためならたとえ火の中水の中』って感じだね」


「なんでもやりそうだよね~。だから、今回だけちょっと変かにゃ~?」


 自身の評価が七海に特化して著しく高いことに苦笑しつつ、彼は自身の中の考えを整理するために、二人に対して自身の心中を吐露することを決める。


 それは今まで誰にも……それこそ七海どころか、両親にすら言ったことのない自分の秘密である。


 それを最初に言うのが七海ではなくこの二人というのは少し気が引けたが……彼女に言いづらいと考えていた彼にとって、この二人は告げる相手としては逆に適していたのかもしれない。


 自身と関係が希薄な二人だからこそ……言える内容だった。


「七海さんには言わないでね……。僕が七海さんをみんなの前で呼び捨てにできないのって……実は恥ずかしいとかそう言うのじゃなくて……単に僕が怖がっているだけなんだよ」


「……怖がっている?」


 怪訝な表情を浮かべる二人に、陽信はできるだけ感情を込めないように淡々と話し始める。


「うん……まぁ、よくある体験だよ。小学校の頃、僕にもちょっとだけ仲良くなった女の子がいて……一緒に遊んだりして……今にして思えば、好きだったのかもしれない子がいてさ……」


「そんな子いたんだ~……まぁ、小学校の頃だし、別に話しても七海は嫉妬しないんじゃない?」


「そういう話じゃないんだ。その子と仲良くなった僕は調子に乗って……乗り過ぎて……己惚れて……その子のことを……呼び捨てで呼んだんだよ。他の子がしているようにね」


 そこで彼は言葉を……言いづらそうにいったん途切れさせる。そこで重苦しい沈黙が場を支配する。


「……それで……どうなったんだ?」


 促す様に沈黙を破る初美の一言に、陽信は顔に笑顔を浮かべながら続きを話す。


「笑われた。お前が調子に乗って呼び捨てにするなって、みんなの前でね。みんなもそれを聞いて……笑ってた。僕を、笑ってた。悪意は無く……ただ笑ってたんだ」


 まるで気にしてない風を装った陽信のその姿が逆に痛々しく見え、その言葉に二人が息を飲む。


「それから僕は……他人をちゃん付けやさん付け、君付けでしか呼ばなくなったよ。名前でも苗字でも、どっちでも敬称さえつけてれば呼べるから、特に生活に支障はなかったよ。むしろ礼儀正しく見られたかな?」


「……七海は、そいつらとは違うだろ。むしろ、呼び捨てを望んでいるんだから、喜びこそすれ笑うなんて……。いや、ごめん……他人事だから言えることだよな」


「そうだよ~……七海は……七海は大丈夫だよきっと……。……でも……そっか……確かに怖いよね」


 絞り出したような二人のその言葉を聞いて、陽信は逆に申し訳なく思い……その顔に笑顔を張り付けた。


「変なこと言ってごめんね。七海さんはそうだね……喜んでくれると思ってる……。現に二人の時は呼べてるんだよ。だから、頭では分かってるんだ。だから……これは僕の問題なんだよ」


 それ以上、なんて声をかけて良いのかわからず、二人は押し黙る。


 だけど、初美はその場にどかりと腰を下ろして、下着が見えるのも構わずに胡坐をかいた。陽信はそちらに視線は送らず、ただ上を向いていた。


「そっか、簾舞の問題ね……。七海がさ、心配してたんだよ。もしかして……呼び捨てにすることに抵抗があるのは……自分には言いづらい何か事情があるんじゃないかってさ……。それなのに怒っちゃって……陽信を悲しませてるんじゃないかってな……。それならちょっと難しいよな……」


「そうだね~……あとは前みたいに七海の評判を落とすんじゃないかって考えてるなら、そんなの気にしなくても良いのにってのも言ってたよね~……。陽信と一緒ならどんな評判でも構わないって……」


 その一言に、陽信の身体がピクリと動いた。彼女の怒っていた理由というものが垣間見れて……自分を少し情けなく感じていた。


 初美と歩の二人も……悪意は無いと言っていたが、幼少期にトラウマになるような出来事があって……それを半ば無理矢理に聞き出した自分達を恥じていた。


「約束通り、七海にはこのことは黙っとく……。そうだな……七海には無理矢理はダメだってあたしらからも言うよ」


「そうだね~……そんな事情があるなら……無理強いしちゃダメだよね~……」


 歩もその場にしゃがみ込み……陽信に対して優しい視線を送っている。だけど二人のその言葉を聞いて……陽信は少しだけ考え込むと、唐突に二人の方を見ないようにして呟いた。


「音更さん……僕の事……一発殴ってくれない?」


「はぁっ?!」


「格闘技やってるんだよね? ちょっと……僕に気合を入れてよ。僕の過去を吹っ飛ばすくらいの、強い気合をさ」


「……本気?」


 その言葉を聞いて、初めて陽信は顔を上げた。その顔には先ほどとは違う笑顔が浮かんでいた。諦めでもなく、作り笑顔でもなく、覚悟を決めた前向きな笑顔だ。


「七海さんが怒っていた理由が僕のためで、心配してるって聞かされたらさー。僕としてはウジウジしてらんないよね。でも一人だと吹っ切れそうもないから……誰かの手を借りてでも……僕は過去と決別するよ。一人で乗り越えられないって、格好悪いけどね」


 その言葉を聞いて、初美と歩は顔を見合わせて……笑う。そして初美は、ぼそりと「格好悪くないよ」という一言を呟くと立ち上がり拳を構える。


 女生徒とは思えない気合いの入った声が空気を震わせ、その迫力に陽信は歯を食いしばる。


 ……そして……気合は入れられた。


 その頃、教室では七海は一人で三人が戻ってくるのを待っていた。教室内には明らかにいつもよりも残っている生徒が多いのだが、それには全く気付かずに……一人で机に突っ伏している。


 いくら何でも、呼び捨てされなかったからといって怒るなんて子供かと……あまりにも幼稚な自分を恥じていた。


 ピーチに陽信の事を託され、記念日まで残り少なくなってきて少し焦りが出たとはいえ……それで喧嘩してしまっては本末転倒だし、こんなことではピーチに顔向けができないと自己嫌悪に陥ってしまう。


「私に言いづらいことがあるのかと思って二人に頼んだけど……気になるなぁ……。陽信……私に怒ってるかなぁ……?」


「怒ってないよ……お待たせ」


 突っ伏したままで独り言を言っている七海に、いつの間にか来ていたのか……陽信から声がかけられた。そこには初美も歩も一緒ではなく、彼だけが立っていた。


「陽信……あの……えっと……あのね……」


 笑顔を浮かべる陽信に対して、七海は両手をもじもじと合わせながら少しばつが悪そうにしていたのだが……次の言葉で七海のその表情は一変した。


七海・・、一緒に帰ろうか。帰りさ、ゲーセンでもよってプリクラとか撮ってみようよ。僕等、やったこと無かったよね?」


「……陽……信?」


 まるで吹っ切れたかのような笑顔を浮かべる陽信は……教室内で彼女を呼び捨てる。きょとんとした顔を浮かべる七海に対して、陽信は再び彼女の名前を呼ぶ。


「どしたの七海? 僕の顔に何か付いてる?」


 その瞬間……彼が自身をの名前を呼んでくれたことに感激して……七海は教室だということも忘れて陽信に思いきり抱き着いた。


 その瞬間……教室内はわざわざ見届けるために残っていた生徒達の歓声に包まれる。


 みんな陽信と七海を見て笑っているが、その顔はかつての陽信が受けた笑顔とは異なる……祝福による笑顔だった。


「……なんだぁ……やってみたら案外さ……なんてことないものだったんだね」


 その呟きは歓声にかき消される。


 そして……七海は陽信の背中に手をまわして改めて力いっぱい抱きしめた。


「……七海!! ごめん、ちょっと今……背中が痛いから少しだけ力を緩めてくれる?」


「背中……? 痛いって……どうしたの?」


「ちょっとね……力いっぱいの気合いを二人分貰っちゃってさ……。いやぁ、効いたよホント。効果抜群だね」


「なにそれ、何があったのか後で聞かせてよね?」


 まさか……気合いを入れると言って殴るのではなく、二人から回り込まれて背中を思いっきり平手で叩かれるとは、彼にとっては予想外だった。


 それでも……背中の痛みのおかげで、常に背中を押されているような感覚となり……自身でも呆れるほどにあっさりと七海の名前を呼ぶことができたのだ。


「……後で全部を話すよ……このことも……なんで呼び捨てにできなかったかも……。情けない話だけど、聞いてくれる?」


「……うん、聞かせて。陽信の事なら何でも聞きたい」


 笑う七海は抱きしめるほんの少しだけ力を緩める。陽信は、ジンジンと痛む背中の痛みを感じつつ、歓声に包まれる教室の中で七海を抱きしめ返す。


 余談だが……残っていた生徒によって撮影されたその写真は……しばらく七海のスマホの待ち受けとなるのだった。

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